大戦中の少年




1941年(昭和16年)12月8日、日本は開戦の詔勅(昭和天皇が発した「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」) によってイギリス帝国とアメリカ合衆国の2国に対して宣戦布告し、 最初の作戦であるマレー作戦と、それとほぼ同時並行に行われた真珠湾攻撃を実施、 日本とイギリス、アメリカとの間に戦争が発生しました。

その時、KK少年は8歳でした。

大東亜戦争中の島根県那賀郡三保村の国民学校では、「皇国の道に則って、初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を行う。」 事を教育目的としていました。

1942年6月、大日本帝国海軍がミッドウェー海戦で敗れる(戦局の転機)
太平洋戦争が始まって約7ヵ月後、南雲忠一中将率いる「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母四隻を撃沈され、 開戦以来はじめての大敗を喫した。

1942年8月7日から1943年2月7日にかけて。西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島で行われた戦いで、 日本軍は敗れた。交戦勢力はアメリカ・オーストラリア・ニュージーランド・イギリスなどの連合軍だった。 これ以降、日本軍の敗戦色がますます濃厚になっていった。

1943年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場では文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、 東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。

大東亜戦争中において、KK少年は、来る日も来る日も、月月火水木金金の休日なしの勤労奉仕という過酷の肉体労働をしました。 通学用品は、ランドセル、教科書、ノート、鉛筆などではありませんでした。草刈り鎌、農耕用鍬、荷運びの竹製笈こそが必携の学用品でした。

国民学校では、堆肥つくり、田植え、芋栽培、稲刈り、麦刈り、カボチャ栽培、大豆栽培などの農業に従事しました。 それから、稲草履つくり、草鞋つくり、山からのマキ燃料の運搬、日本海の浜辺での塩田作業、養蚕用桑の皮剥ぎ作業 、軍事用皮革製造に必要なウサギ飼育などの労働に従事しました。

国民学校では、登校・下校においては、集落の児童がグループを結成して、二列縦隊で行進しました。行進では、軍歌「露営の歌」などを唄いました。 「勝って来るぞと勇ましく、誓って故郷(くに)を出たからにや、手柄立てずに死なりょうか。進軍ラッパ聞くたびに、瞼に浮かぶ旗の波。」 「思えば昨日の戦いに朱(あけ)に染まって、にっこりと、笑って死んだ戦友が、天皇陛下万歳と残した声が忘すらりょうか。」と、 雨の日も、風の日も、雪の日も、広大な田圃の中の通学路を、大声で唄いました。

国民学校では、毎朝、昭和天皇(現御神=アキツミカミ)ご真影に対して最敬礼を致しました。 東に向かって、皇居(昭和天皇の居所)への遙拝は最重要義務でした。 明治節(明治天皇の偉勲を讃える日)や天長節(昭和天皇への忠誠日)などの儀式があるときは、 国家「君が代」は勿論のこと、天皇陛下の御為に名誉の戦死を讃える歌として「海ゆかば」の 歌を厳粛に唄いました。「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、帰りみはせじ」と。 儀式の予行練習では、学校教頭が、必ず、行儀の悪い児童にビンタ暴力を実行しました。

国民学校では、昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に戦地へ出征する兵士を鉄道駅の駅頭まで見送りしました。その駅頭では 「海ゆかば」の歌を唄って、出征兵士の名誉を讃えました。まさに、その駅頭から、英霊として帰還した兵士の葬列に加わり、 悲しい想いをしました。肉親や親戚、近所の人達が戦争犠牲者となりました。人間の生命は鴻毛よりも軽く、 昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に死ぬことこそ、大変な名誉であるという価値観に晒されて育ちました。

国民学校では、軍事訓練が実施されました。鬼畜米英兵士を殺す竹槍突撃演習が連日行われました。 耳を破裂させるような怒号に近い、教官の軍事命令用語には閉口しました。 その怒号には、KK少年にとって、時には、意味不明で、頭が真っ白になってしまう事がありました。

国民学校では、教官や上級生は、「天皇陛下の命令と思え」と、軍隊規律を悪用して、ビンタや鉄拳で、 時には木刀で、弱い者イジメを公然としていました。鉄拳制裁で暴力を振るう教官に対して、 KK少年は大変な恐怖心を覚えました。

国民学校では、教室で、国語・算数・理科などの教科書などを開いた記憶が無く、鉛筆や筆類を握った記憶すら皆無です。 英語は敵国語として扱われて、ABCの文字すら知りませんでした。もちろん、図画という美術教育など全くありませんでした。

国民学校では、児童に労働を強制的に課すところであり、鬼畜米英兵士を殺すための訓練場でした。 やんちゃで遊び盛りのKK少年にとっては、国民学校は不愉快極まりない場所でした。

1945年8月6日、KK少年は遠く南の空が、広島方面の上空が異様な黒雲に覆われている光景を目にしました。 のちに、それが新型爆弾=原子爆弾の投下による雲の発生だという事を知りました。暫く、日が経って、 原子爆弾の犠牲者が、我が寒村に帰郷して来ました。その人の顔面は見るに忍びないケロイド状の黒焦げた様相でした。

1945年8月15日、大日本帝国の昭和天皇(現御神=アキツミカミ)は、ポツダム宣言を受諾しました。無条件降伏でした。 その時、KK少年は12歳でした。

あの日は、近所に住むMKさんが、帝国陸軍の歩兵第21連隊(島根県浜田市)に出征するので駅頭まで見送った日でした。 天皇陛下の玉音放送を、駅前の知人宅で聴きました。 生き神様である昭和天皇のお言葉は、KK少年には難解で重々しくて理解不能でした。 周囲の大人の話で、大東亜戦争が終わったことを知らされました。
遂に、天皇制軍国主義国家が崩壊した事を知りました。村落の人々の顔には、安堵の明るい表情がありました。

大東亜戦争は、昭和天皇(現御神=アキツミカミ)が統師する大日本帝国陸海軍が敗れて終戦になりました。 この大戦で、310万人以上の日本人の生命が失われたと、言われています。




敗戦後の少年




1946年1月1日、昭和天皇は、詔書で、天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念であると述べ、 自らの神性を否定しました。これは、のちに、天皇の地位が根本的な変更をもたらせる布石ともなりました。 同日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、この詔書に対する声明を発表し、 天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと、高く評価しました。

1946年から、KK少年は戦後派中学生として、次男坊らしく自由奔放に育ちました。 世間で言う「悪戯小僧・悪ガキ」の一人だったと、自称しています。中学1年生の時、隣席に優秀なNS君がいました。 都会育ちの明朗で、真面目な少年でした。彼とは汽車通学が一緒でした。 彼と仲良しの友達になりました。中学2年生の時、NS君は、突然、愛知県拳母市(現在の豊田市)へ 引っ越しました。尊敬する友人を失って、ちょっと寂しくなりました。

1947年5月、日本国憲法が施行されました。
憲法の前文では「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである。われらは,これに反する一切の憲法,法令及び詔勅を排除する。」と書いてありました。

1948年、中学3年生の時には、同じ教室で、成績優秀なYN君と友達になりました。 YN君は、都会育ちのダンディー少年でした。反抗期の自称「蛮カラ少年」だったKK少年にとって、YN君の心ある友情を とても嬉しく思いました。ある日の日曜日、浜田中学校前にあるカトリック教会へ、YN君と二人で行きました。 僕たちは、人生を如何に生きるべきか、模索していました。

1949年、島根県立浜田高等学校の1年生になってから、自我に目覚めました。 文学、歴史、哲学などの書物を多読するようになりました。そして、クラブ活動として、 YN君の誘いを受けて化学部に入りました。

1949年には、京都大学の湯川秀樹博士が、ノーベル物理学賞を受賞しました。 受賞理由は、陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想したことにありました。
そこで、KK少年は書店へ行き、「量子力学論」の専門書を買って勉強しました。KK少年にとって、難解な理論でしたが、 丁寧に読み進めて原子核の仕組みを理解することが出来ました。

KK少年の将来の夢は決定しました。
それは、ノーベル化学賞を受賞した湯川秀樹博士のような学者になる事でした。 クラブ活動としては、最初の課題は、上級生のNさんの指導の下で、 化学部の実験室で「定性分析」「定量分析」に挑戦する事でした。

急遽、高校校舎の移転が決まり、化学実験室は取り壊しになる事が決まりました。 KK少年の化学実験も一時停止に追い込まれました。新しい高校校舎は、 島根県立浜田高校の校舎は、旧帝国陸軍歩兵第21連隊の兵舎へ移転することになりました。

1950年、高校1年生が終わった春休みに、両親に無断で家出しました。
目的地は京都市でした。湯川秀樹博士を輩出した京都大学の化学教室を見たかったのでした。


編集続行中





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★ 浜田高校三期会の面々 ★














1998年4月11日、浜田高校・東京三期会  於・青学会館




※ 雑記帳
旅そのものが人生か






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吉川家のルーツ


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吉川元氏の生涯

弘治2年(1556年)、吉川元春の次男として生まれる。永禄11年(1568年)1月21日に毛利輝元の加冠により元服し、毛利元就より「元」の字の一字書出を受け、元棟と名乗った。

永禄9年(1566年)11月21日に周防国の仁保隆在が男子のいないままに死去していたため、元亀2年(1571年)に仁保隆在の娘と婚姻し、婿養子として仁保氏の1700貫の所領と家督を相続した。これにより、これ以前に与えられていた300貫と合わせて2000貫を領した。しかし、元棟(以下、元氏と表記)は未だ若年であったために、後見役・毛利氏向名代として吉川氏一族の江田智次(宮内大輔)が付けられた。

永禄12年(1569年)に尼子勝久や山中幸盛ら尼子氏再興軍が出雲国へ侵攻したため、父・元春や兄・元長らと共に元氏も出雲国へ出陣した。永禄13年/元亀元年(1570年)には父や兄と共に、尼子勝久や大内輝弘と手を組んで毛利氏の後方を撹乱していた三隅国定を討ち取っている。その後、恩賞として三隅氏の旧領3000貫を得た。

1570年、元氏は十四歳で、石見三隅高城(島根県浜田市)の城将となる。 標高362mに築かれた堅固な城、三隅氏の居城、石見三隅高城を得た。

本丸に立ち日本海の素晴らしい眺望を見ながら、武将として生きる自信を得た。ここから、尼子残党の一揆が頻発する石見・伯耆への戦いに向かうことになる。 天正3年(1575年)12月23日には安芸国上下庄北の北就勝の旧領100貫の地、天正5年(1577年)2月14日には出雲国の秋上氏の旧領を与えられる。また、後に山陰地方の肥中港(現在の山口県下関市豊北町神田肥中)や瀬戸崎港(現在の山口県長門市仙崎)を押さえて、山陰の海運を担うこととなった。

出雲国への出陣以降も中国地方各地を転戦し、天正6年(1578年)の播磨国上月城の戦いや、天正9年(1581年)の因幡国鳥取城での戦い等に参加した。父や兄と共に救援として参陣した鳥取城の戦いでは、外曲輪への一番乗りを果たしている。天正10年(1582年)5月13日、吉見広頼と起請文を交わし、今後の昵懇を誓った。

繁沢元氏へ改名
豊臣秀吉による九州平定に元氏も従軍したが、天正14年(1586年)11月15日に父・元春、天正15年(1587年)6月5日に兄・元長が従軍中に相次いで病死すると、弟の経言(後の広家)が吉川氏を相続し、元氏は輝元の意向によって同年8月に仁保氏の名跡を神田元忠に譲り、苗字と名を改めて繁沢元氏と名乗った。吉川氏の後継が元氏でなかったのは元氏が病がちであったためとされ、後の文禄・慶長の役も病により出陣できず、広家に家臣を遣わしている。また、広家が家督相続した後しばらくは元氏と広家は不仲であったようで、天正19年(1591年)6月13日に小早川隆景が広家へ宛てた書状では、元氏と融和することを勧めている。

天正15年9月6日には石見国の福屋隆兼旧領である3000貫の地を与えられて石見国浜田城を築き在城し、天正19年(1591年)には九州平定の手当として長門国豊浦郡殿井龍山城を預けられた。これによって元氏の所領は5100貫の地に秋上氏旧領を加えたものとなり、文禄5年(1596年)3月23日の分限帳では、元氏の本領が10371石6斗5升9合、一所衆の杉元良領1133石3斗2升8合、朝倉元息領824石1斗8升7合、河屋氏領22石7斗3升1合で合計12351石9斗5合が元氏の所領となっている。さらに慶長2年(1597年)に広家から安芸国内の2000石をに元氏一代限りで分与されたが、当初元氏は2000石のうちの500から600石が課役無しであることを望んで受け取りを渋り、隆景から毛利氏の分国内にも課役の無い者はいないので広家が朝鮮に出兵する前に速やかに受け取るようにと説得を受けている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、毛利氏が長門国と周防国の2か国に減封されると元氏も周防国へと移り、同年11月2日に玖珂郡内に3166石を与えられた。

関ヶ原以後
慶長18年(1613年)、嫡男の元景が名字を毛利に復することを許され、周防高森から転封、現在の豊北町阿川・滝部地区周辺を治める。子孫は長州藩一門家老の阿川毛利家として存続した。なお、元氏は以後も「繁沢」の苗字で通したようで、慶長20年(1615年)4月14日の、毛利元就の遺訓に従い毛利家へ別心を抱かない旨を誓った連署起請文では「繁澤左近入道立節」と署名している。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、嫡男・元景を大坂へ出陣する毛利秀就に従軍させ、元氏は留守居として萩城へ詰めた。同じく大坂へ出陣したものの病によって帰国した輝元は、元氏の留守居の功を賞して祝儀として小袖一つと両樽折を送っている。

元和8年(1622年)3月6日、伊勢守の受領名を輝元から与えられた。

寛永2年(1625年)8月13日の御配所付立によると、長門国豊田郡天宮の内の200石を与えられたが、同年12月22日には隠居領として周防国玖珂郡の天野伝三郎先知行地の内の中曽根村200石を与えられた。

寛永8年(1631年)閏10月16日に死去。享年76。元氏の200石の隠居領は、末子の繁沢就真が相続した。

逸話
石山合戦の際に毛利氏と本願寺の取次を務めたり、小早川隆景の依頼を受けて文禄の役に従軍したりするなど、毛利氏と親交のあった本願寺の僧・端坊明念(明然)が文禄元年(1592年)に肥前国松浦郡名護屋で護念山安楽寺を開基し、翌文禄2年(1593年)に安楽寺を順了に譲った。この順了が元氏であると伝えられており、以後、安楽寺は代々毛利氏が住職を務めている。また、僧形の元氏の掛幅絹本着色肖像画が安楽寺に所蔵されており、平成27年(2015年)2月17日から3月22日にかけて下関市立長府博物館で開催された下関市合併10周年記念企画展「下関の毛利氏―元就庶子の系譜―」で初公開された。






☆ 小説の題名:石見浜田の吉川家 ☆


吉川元氏は、吉川元春の蕗(ふき)の方の次男であり、
次男、元氏は一五五六年に生まれた。

  元春が、石見国内で尼子勢と戦っていた時だった。留守は慣れている蕗ふきの方だ。安産で生まれ、余裕だった。 元就もとなりは、防長経略ぼうちょうけいりゃくを順調に進めており、翌年には大内家を滅ぼし乗っ取る。 尼子氏はまだまだ勢いを持っていたが、毛利家の優勢は誰の目にも明らかで、西国の雄となる日は近かった。毛利家が一番華やかで伸びた時だ。

  毛利勢が、山口制圧は近いと意気盛んに進軍し、吉田郡山城から百二十㎞、須々(すす)万ま沼ぬま城(山口県周南市)を攻撃した。 だが、大内方の抵抗が大きく二千人近くを惨殺することになった。 元就もとなりは落胆する。 大内家滅亡を目前に控え、その後の支配体制を考えていた。大内領内を荒らすことなく最小限の戦闘で国人衆も含めてそっくり乗っ取るはずだった。須々(すす)万ま沼ぬま城に籠城した大内勢を倒したが、損失が大きすぎ、今後は避けたい。 それから五〇㎞、毛利勢が山口に入り大内義長に迫った時、元春も加わる。 ここで「仁保隆有を説得し臣従させるので任せて欲しい」と元春は元就もとなりに申し出た。仁保家を守るためでもある。

   仁保家は相模国(神奈川県)の三浦氏の一族から始まる。源頼朝を助け活躍し、鎌倉幕府を作った一族だ。恩賞として周防国(山口県東南)吉敷郡よしきぐんを得て支配地を広げ、本拠、仁保荘(山口市)に在地し名とする。 周防国守護となった大内家に従い重臣として権勢を誇り、陶すえ家・杉家と縁戚を築く。周防楊井、長門紫福郷、筑前国分寺・麦野清水村、豊前吉田領とさらに領地を広げ、豊前ぶぜん(福岡県東部、大分県北部)守護代になった。  だが、いまや風前の灯となっていた。 仁保隆有は陶すえ晴はる賢かたと縁が深く、大内家再編のために共に戦った。陶すえ晴はる賢かた死後も遺志を継ぎ、大内義長に最後まで従い毛利勢を相手に戦おうとしていた。 元就もとなりは何度も降伏を勧める使者を出した。それでも断った仁保家へいらだち、印象は悪い。 「仁保家は陶すえ家と同族だ。すりつぶせ」と怒り、仁保家は攻め滅ぼされるぎりぎりの時だった。 元春は、親しい付き合いを続けた仁保隆有に誠実に説得した。 仁保家を今までどおりとするという申し出に、仁保隆有は感謝し元就もとなりに許しを請う。 元就もとなりも元春の意思を尊重し、納得できないが、本領安堵を認めた。

  元就もとなりは大内家滅亡近くまで、忠誠を尽くした大内氏重臣達の存続を認めない方針だった。仁保家もその一族であり、その後も厳しい目を向けた。 そして、一〇年が過ぎる。男子のいない仁保隆有は、後継に悩んだ。 このままでは仁保家は消滅するかもしれないと、元春の指示を仰ぐ。元春は、次男、元氏を娘婿養子とし送り込むことで仁保家を守ると応えた。 ここでも、元就もとなりは難色を示したが、元春は熱心に願い実現する。 一五六六年、元氏は一〇歳で仁保家を継ぐ。

   蕗ふきの方は、元氏が遠くに行ってしまうという別れの早さに戸惑った。可愛くてならず側にいて欲しかった。重大な役目を担う元氏を、笑顔で送り出すはずが、張り詰めた神経のまま言葉少なだった。 「父上の思いを立派に果たします。大丈夫です」と元氏が声を詰まらせて笑う。その言葉に涙が溢れた。 父母の喜びは自分の喜びとしたいと考える元氏も、良くできた吉川家の次男だった。  元氏は父母の期待がうれしくて張り切って山口に向かった。 娘婿養子として仁保家に入り、形だけの祝言を挙げる。 妻は妹のような可愛い姫だった。兄妹のように仲良く育つ。成長すると、仲の良い夫婦となる。

  以後、元氏は仁保勢を率い、元春・元長と共に戦う。 尼子勝久や大内輝弘と手を組み毛利家に立ち向かった三隅国定(益田氏分家)を倒した時の活躍は素晴らしかった。。 父と共に、突撃し、戦い、勝った武将としての血がたぎった会心の戦いだった。 元就もとなりは戦功を称え、元氏に恩賞として三隅氏旧領を与える。

一五七〇年、元氏は十四歳で、石見三隅高城(島根県浜田市)の城将となる。 標高三六二mに築かれた堅固な城、三隅氏の居城、石見三隅高城を得た。

本丸に立ち日本海の素晴らしい眺望を見ながら、武将として生きる自信を得た。ここから、尼子残党の一揆が頻発する石見・伯耆への戦いに向かうことになる。

  元就もとなりは、元氏を山口仁保から引き離し、因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見を統括する元春の一翼を担わせた。 元氏は、父から、浜田の地を任されたのだと、誇らしい。父と共に父の側で戦いたかった。 国人衆をまとめ、安定した治世を行ない、毛利一族として知勇を兼ね備えた武将としての評価を高める。 蕗ふきの方は、会う事が少なくなっても、元氏の成長に吉川家の力を感じ、肩の荷を下ろす。 元長には子が生まれなかったが、元氏は子沢山であり、孫たちの話を知らされるのがたまらなく嬉しい。

一五七五年には、嫡男、元景が生まれ、その後も次々男子が生まれており、吉川家の後継も大丈夫と安堵していた。 蕗ふきの方も、元長の養子としても良いと考えていた。  だが時代は変わり、毛利家は秀吉に屈した。そして、父、元春の死。続く、兄、元長の死。 長年、吉川勢を率いた元氏三一歳は、父、兄に代わり家督を継ぐと燃え達思いがあったが、父・兄の死の経緯を思い慎重だった。

  ここで、蕗ふきの方が動く。 「元氏の家督相続が認められるようお願いします」と隆景に頼む。良い知らせが来ない。 続いて、輝元に「元氏の嫡男、元景が育っています。後見に元氏・広家を置き、元景に吉川家を引き継がせて欲しい」と。 家中は、後継は誰かと焦りながら待つ。 そこに来た答えは「吉川家は三男、広家が吉川家当主と決定しました」との隆景からの知らせだった。 秀吉と毛利家の取り次ぎを小早川隆景が担い、秀吉の承諾がないと吉川家の家督は継げない。 納得できない蕗ふきの方は怒り、隆景を問いただすが返事はない。 元氏の身が危険だと胸騒ぎし「秀吉殿が、弟(広家)に家督を継がせると言ってきました。身辺、気をつけて」と知らせた。 そして、吉川家を守る為に苦渋の決断をする。 家中に「後継は三男、広家」と宣言する。

  秀吉は素知らぬ顔で、元氏に三隅氏に繋がる出雲国人、繁沢氏の名を与えた。 そして三隅氏旧領の浜田の地を与え守るよう改めて命じた。 浜田の統治は長年行っているが、繁沢氏康の養子とされたのは不可解だった。 繁沢氏は三隅氏の分家であり有力国人ではない。しかも繁沢氏康はすでに亡くなっている。 元氏は、秀吉の意図を見抜く。秀吉は、父・兄・元氏を同じ考えだと見なしているのだ。 次男、元氏に家督を継がせない為に、また力を持たせない為に、手ごろな国人に養子入りという名目を与えて、吉川家から離れさせたのだ。三隅氏旧臣も、繁沢氏旧臣も元氏に従い、家臣団の一角を占めている。ただの形式的な命令にしか過ぎない。

 

  元氏は妻に詫びた。 「父から仁保家の名跡を守り続けるようにと託されたが、申し訳ない」と。 妻は動じることはない。幼い頃に、仁保家の凋落を感じ、我が家は取り潰しになると教えられたこともあるのだ。 「義父様の葬儀一切を取り取り仕切ったのは我が菩提寺、瑠璃光寺です。これ以上の光栄はありません。義父様のおかげで仁保家は存続したのです。どちらにでも共にまいります」と凛として言うだけだ。  元就もとなりを引き継いだ輝元も毛利一門が大内家を引きずるのを嫌った。 大内家を乗り越え、大内家以上の毛利家にしたと自信を持っており、大内家とは一線を引くつもりだった。 仁保家は明らかに大内家一門だ。存続させる必要はない。 それでも、仁保家を離れる元氏から願われ、その思いも汲んで、輝元は、仁保家の存続を了解した。 元氏の一人娘と輝元側近の神田元忠を結婚させ、娘婿養子として仁保家を引き継ぐように命じる。 但し、仁保家から本姓の三浦家に名を戻すことも命じ、仁保家一族郎党の身分を保障したが、仁保家の姓は変わる。

元氏と妻は、娘婿、神田元忠に預ける家中の子細を話し、家中を厚遇するように命じる。 元忠は元氏より一歳年上だ。元忠と妻は苦笑いをしながら、年上の婿に向い、あれこれ指示した。 そして、元春が守った仁保家領地内に元春の菩提寺の建立を決める。元春の遺志を、形にして残したかった。 熊毛郡玖珂村(山口県熊毛郡)に竜峰山海翁寺が築かれた。  娘はまだ一二歳だった。それでも、母と同じように実家を引き継ぐ家付き娘としての誇りを持っている。 神田元忠も晴れやかで、三浦家を継ぐことに興奮し、感謝していた。



編集続行中







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