日本国が国際連盟を脱退した年に生まれた私は、
あの無謀で悲惨な大東亜戦争の銃後生活体験者です。
そして、大戦に敗れた後の社会混乱期が青春時代でした。






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大戦中の少年=強制労働に従事




~昭和16年=1941年~

★1941年3月、 国民学校令が公布された。
1941年4月からそれ以前の小学校が国民学校に改められた。 「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的とした。 すなわち、国民学校は戦時体制に即応した国家主義的な教育を行なった。

★1941年9月6日の御前会議で、陸軍大臣東条英機が強硬に日米開戦を主張、 「帝国国策遂行要領」を決定、日米交渉が10月上旬までに打開されない場合は、開戦を決意するとされた。 近衛文麿首相は日米交渉の継続を希望し、みずからフランクリン=ローズヴェルト大統領と折衝したがかなわず、 ついに総辞職し、現役陸軍大将が首相となって東条英機内閣が成立した。

★1941年12月8日、
昭和天皇は、イギリス帝国とアメリカ合衆国の2国に対して宣戦布告し、 最初の作戦であるマレー作戦と、それとほぼ同時並行に行われた真珠湾攻撃を実施しました。 日本とイギリス、アメリカとの間に戦争が発生しました。



その時、昭和天皇(神様・アキツミカミ)が統帥する軍隊が、
「米国のハワイ真珠湾」を奇襲攻撃した時には、KK少年は8歳でした。

~昭和17年=1942年~

★1942年6月、
大日本帝国海軍がミッドウェー海戦で敗れる。=(戦局の転機)
太平洋戦争が始まってから約7ヵ月後、南雲忠一中将率いる「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母四隻を撃沈され、 開戦以来はじめての大敗を喫した。

★1942年7月2日~3日、
南太平洋のマキン、タワラ両島の日本軍守備隊が全滅。

★1942年8月7日から1943年2月7日にかけて、
西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島で行われた戦いで、日本軍は敗れた。 交戦勢力はアメリカ・オーストラリア・ニュージーランド・イギリスなどの連合軍だった。 これ以降、日本軍の敗戦色がますます濃厚になっていった。

~昭和18年=1943年~

★1943年5月、アッツ島玉砕
アッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日に玉砕した。 太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、 また第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた地上戦である。

★1943年10月21日、
東京の明治神宮外苑競技場では文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、 東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。 東条英機首相は「天皇陛下♪バンザイ♪」と大声で叫んで、学徒を戦地に送り込みました。


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大東亜戦争中において、KK少年は、来る日も来る日も、月月火水木金金の休日なしの勤労奉仕という過酷の肉体労働をしました。 通学用品は、ランドセル、教科書、ノート、鉛筆などではありませんでした。草刈り鎌、農耕用鍬、荷運びの竹製笈こそが必携の学用品でした。 校舎内教室で、教科書を開いて勉強した記憶はありません。

国民学校では、堆肥つくり、田植え、芋栽培、稲刈り、麦刈り、カボチャ栽培、大豆栽培などの農業に従事しました。 それから、稲草履つくり、草鞋つくり、山からのマキ燃料の運搬、日本海の浜辺での塩田作業、養蚕用桑の皮剥ぎ作業 、軍事用皮革製造に必要なウサギ飼育などの労働に従事しました。

国民学校では、登校・下校においては、集落の児童がグループを結成して、二列縦隊で行進しました。行進では、軍歌「露営の歌」などを唄いました。 「勝って来るぞと勇ましく、誓って故郷(くに)を出たからにや、手柄立てずに死なりょうか。進軍ラッパ聞くたびに、瞼に浮かぶ旗の波。」 「思えば昨日の戦いに朱(あけ)に染まって、にっこりと、笑って死んだ戦友が、天皇陛下万歳と残した声が忘すらりょうか。」と、 雨の日も、風の日も、雪の日も、広大な田圃の中の通学路を、大声で唄いました。

国民学校では、毎朝、昭和天皇(現御神=アキツミカミ)ご真影に対して最敬礼を致しました。 東に向かって、皇居(昭和天皇の居所)への遙拝は最重要義務でした。 明治節(明治天皇の偉勲を讃える日)や天長節(昭和天皇への忠誠日)などの儀式があるときは、 国家「君が代」は勿論のこと、天皇陛下の御為に名誉の戦死を讃える歌として「海ゆかば」の 歌を厳粛に唄いました。「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、帰りみはせじ」と。 儀式の予行練習では、学校教頭が、必ず、行儀の悪い児童にビンタ暴力を実行しました。

~昭和19年=1944年~

★1944年7月9日、サイパン島陥落、玉砕
サイパン陥落の責任を取る形で、7月18日に東條内閣は総辞職した。

★1944年7月、インパール作戦失敗

★1944年8月11日、
グアム島では、追い詰められた小畑中将と 部下の将兵60人は、 叉木山の壕で 自決。これをもってグアムの日本軍守備隊による組織的戦闘は終結した。

★1944年9月15日、
アメリカ軍はペリリュー島に、そして二日後にアンガウル島に上陸しました。 アンガウル島では、約1,200人の守備隊が2万人を超えるアメリカ軍と戦い、およそ1か月後、負傷し捕虜となった60人を除いて玉砕しました。
ペリリュー島では、守備隊約1万人に対しアメリカ軍は延べ4万人で挑みました。 すぐに島を落とせるとアメリカ軍指揮官は楽観していましたが、洞窟陣地にこもり、火力を集中する日本軍に甚大な被害を被りました。 激戦は約2か月続き、最終的にアメリカ軍は死者1,684人、負傷者7,160人、日本軍は戦死10,022人、捕虜となり生還した兵は446人でした。

★1944年10月19日、
日本海軍が神風特攻隊を編成しアメリカ軍艦への体当たりを計画する。 10月20日、アメリカ軍第4個師団がフィリピンのレイテ島に上陸する。神風特攻隊が初めて出撃する。 レイテ沖海戦で日本海軍は壊滅被害を受けた。



国民学校では、昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に戦地へ出征する兵士を鉄道駅の駅頭まで見送りしました。その駅頭では 「海ゆかば」の歌を唄って、出征兵士の名誉を讃えました。まさに、その駅頭から、英霊として帰還した兵士の葬列に加わり、 悲しい想いをしました。肉親や親戚、近所の人達が戦争犠牲者となりました。人間の生命は鴻毛よりも軽く、 昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に死ぬことこそ、大変な名誉であるという価値観に晒されて育ちました。

国民学校では、教官や上級生は、「天皇陛下の命令と思え」と、軍隊規律を悪用して、ビンタや鉄拳で、 時には木刀で、弱い者イジメを公然としていました。鉄拳制裁で暴力を振るう教官に対して、 KK少年は大変な恐怖心を覚えました。

国民学校では、教室で、国語・算数・理科などの教科書などを開いた記憶が無く、鉛筆や筆類を握った記憶すら皆無です。 英語は敵国語として扱われて、ABCの文字すら知りませんでした。もちろん、図画という美術教育など全くありませんでした。

~昭和20年=1945年~

1945年2月14日、
近衛文麿公爵は吉田茂などと相談し、米英との早期講和を謀り「上奏文」を昭和天皇に提出した。 昭和天皇は早期講和ではなく、一度華々しい戦果(本土決戦)をあげ、米英に対し有利な状況で講和を模索するべきだという、 いわゆる「一撃講和」を唱え、近衛公爵による上奏を退けたのであった。

★1945年3月、硫黄島陥落、玉砕
★1945年3月10日、東京大空襲
★1945年3月~10月、沖縄戦



国民学校では「本土決戦」に備えて軍事訓練が実施されました。鬼畜米英兵士を殺す竹ヤリ突撃演習が連日行われました。 耳を破裂させるような怒号に近い、教官の軍事命令用語には閉口しました。 その怒号には、KK少年にとって、時には、意味不明で、頭が真っ白になってしまう事がありました。

国民学校は、上級生児童に鬼畜米英兵士を殺すための訓練場でした。 やんちゃで遊び盛りのKK少年にとっては、国民学校は不愉快極まりない場所でした。 昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に、 竹ヤリを持って突撃して敵国米兵を殺す訓練を受けたことは、永遠に忘れる事ができません。 なお、弱小のKK少年は、軍事教練に就いてゆけない落伍者でした。

★1945年8月6日、天気は晴れ。
島根県浜田地方に住んでいるKK少年は、遠く南の空が、広島方面の上空が異様な黒雲に覆われている光景を目にしました。 のちに、それが新型爆弾=原子爆弾の広島市への投下による雲の発生だという事を知りました。暫く、日が経って、 原子爆弾の犠牲者が、我が寒村に帰郷して来ました。その人の顔面は見るに忍びないケロイド状の黒焦げた様相でした。



★1945年8月8日、ソ連が満州侵攻
★1945年8月9日、長崎に原爆投下

★1945年8月15日、
昭和天皇は、 ポツダム宣言を受諾しました。無条件降伏でした。
あの日は、近所に住むMKさんが、帝国陸軍の歩兵第21連隊(島根県浜田市)に出征するので駅頭まで見送った日でした。 天皇陛下の玉音放送を、駅前の知人宅で聴きました。 生き神様である昭和天皇のお言葉は、KK少年には難解で重々しくて理解不能でした。 周囲の大人の話で、大東亜戦争が終わったことを知らされました。
遂に、天皇陛下のための戦争が終わりました。 天皇制軍国主義国家が崩壊した事を知りました。村落の人々の顔には、安堵の明るい表情がありました。 その日、出会った下級兵士には笑顔がありました。

大東亜戦争は、昭和天皇(現御神=アキツミカミ)が統師する大日本帝国陸海軍が敗れて終戦になりました。 この大戦で、約310万人以上の日本人の生命が失われています。 海外の犠牲者は、2000万人とも3000万人とも言われています。 米英に対して宣戦布告し、そして敗戦詔書を下した昭和天皇の戦争責任は、どうなるのでしょうか。

★1945年9月2日、
日本の降伏調印式は、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われました。 その状況はラジオの実況中継で全世界に流されました。 米国トルーマン大統領は、ラジオの実況中継後、全国民向けのラジオ放送で演説しました。 その中で9月2日を正式にVJデー(対日戦勝記念日)とし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのでした。


その時、日本が戦争で敗れた時には、KK少年は12歳でした。








敗戦後の少年




★1946年1月1日、
昭和天皇は、詔書で、天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念であると述べ、 自らの神性を否定しました。これは、のちに、天皇の地位が根本的な変更をもたらせる布石ともなりました。 同日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、この詔書に対する声明を発表し、 天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと、高く評価しました。



★1946年4月から、
KK少年は戦後派中学生として、次男坊らしく自由奔放に育ちました。 世間で言う「悪戯小僧・悪ガキ」の一人だったと、自虐的に称しています。中学1年生の時、隣席に優秀なNS君がいました。 都会育ちの明朗で、真面目な少年でした。彼とは汽車通学が一緒でした。 彼と仲良しの友達になりました。中学2年生の時、NS君は、突然、愛知県拳母市(現在の豊田市)へ 引っ越しました。尊敬する友人を失って、ちょっと寂しくなりました。

★1947年5月、
日本国憲法が施行されました。
憲法の前文では「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである。われらは,これに反する一切の憲法,法令及び詔勅を排除する。」と書いてありました。

★1948年4月から、
中学3年生の時には、同じ教室で、成績優秀なYN君と友達になりました。 YN君は、都会育ちのダンディー少年でした。反抗期の自称「蛮カラ少年」だったKK少年にとって、YN君の心ある友情を とても嬉しく思いました。ある日の日曜日、浜田中学校前にあるカトリック教会へ、YN君と二人で行きました。 僕たちは、人生を如何に生きるべきか、模索していました。

★1949年4月から、
島根県立浜田高等学校の1年生になってから、自我に目覚めました。 文学、歴史、哲学などの書物を多読するようになりました。そして、クラブ活動として、 YN君の誘いを受けて化学部に入りました。

★1949年には、
京都大学の湯川秀樹博士が、ノーベル物理学賞を受賞しました。 受賞理由は、陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想したことにありました。
そこで、KK少年は書店へ行き、「量子力学論」の専門書を買って勉強しました。KK少年にとって、難解な理論でしたが、 丁寧に読み進めて原子核の仕組みを理解することが出来ました。

KK少年の将来の夢は決定しました。
それは、ノーベル化学賞を受賞した湯川秀樹博士のような学者になる事でした。 クラブ活動としては、最初の課題は、上級生のNさんの指導の下で、 化学部の実験室で「定性分析」「定量分析」に挑戦する事でした。

急遽、高校校舎の移転が決まり、化学実験室は取り壊しになる事が決まりました。 KK少年の化学実験も一時停止に追い込まれました。新しい高校校舎は、 島根県立浜田高校の校舎は、旧帝国陸軍歩兵第21連隊の兵舎へ移転することになりました。

★1950年3月、
高校1年生が終わった春休みに、両親に無断で家出しました。
目的地は京都市でした。湯川秀樹博士を輩出した京都大学の化学教室を見たかったのでした。

★1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発しました。



編集続行中





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※ 雑記帳
旅そのものが人生か






☆ 青春の揺れる心 ☆
~ 東西冷戦時代の背景で ~




★1952年5月1日に、
血のメーデー事件がありました。
サンフランシスコ講和条約が発効した直後のメーデーで、 条約反対のデモ隊が使用不許可となっていた皇居前広場に入り、警官隊と衝突しました。 警察は催涙ガスを使用し、また武器を持たないデモ参加者に向けて銃を発砲したため、 その年のメーデーは流血の惨事となり、多くの死傷者が出ました。 憲法に保護された形の政治的表現を行使していたデモ参加者に対して、 警察が殺傷力のある武器を使用したのは、戦後日本で初めてのことでした。



血のメーデー事件が起きた時には、KK青年は実兄・長男YK兄が既に在籍している慶應義塾大学に入学して間もない時でした。 当時は、朝鮮戦争の真只中にあり、社会不安が漂う時代でした。 KK青年は、東西冷戦時代の不確実な未来社会を、日本国の社会体制の行く末を案じていました。 そこで、大学のクラブ活動の社会科学研究会に属して、少壮の経済学者を チューターにして、近代日本資本主義経済史を研究し始めました。

★1953年7月、朝鮮戦争の休戦協定が締結されました。

★1953年9月、大学2年生の後半時に、肺結核に罹り、さらに結核性脈絡網膜炎を患いました。 眼結核で左眼の視力を失い、盲目の危機にさらされました。KK青年は闘病中に自分の将来を悲観して自殺さえ考えました。 約1年半の療養中、父母・親戚・友人から多くの援助を受けました。物心両面の温かい援助の効があって、肉体的にも精神的にも、 健康を回復しました。

★1954年、 復学を考えていた時に、父から勉強をやり直して医師の道を選ぶよう幾度も言われました。 地方の私立医科大学の受験を勧められましたが、医師コースに挑戦することはしませんでした。 医師と言う職業は激務だという事でしたので、KK青年は健康を損ねた経験から、医師の道は 適当な職業とは思いませんでした。加えて、医師という職業は社会的地位も高く経済的には安定しているものの、 我が故郷・寒村での開業医は、超多忙で、短命で、夢のない仕事だと、当時、思っていました。

★1955年4月から、
病後における大学生活は、教室授業では興味の湧いた民法や国際関係論の講座に出席し聴講しました。 主として、三田山上にある大学図書館に通いました。数多の書籍・雑誌を通じて、国内外の新しい情報を求めました。 現代世界史の流れは、米国を中心としたものであり、世界一の大国である米国の政治・経済・社会に関心を持って研究しました。 KK青年は、学問分野における専門を「アメリカ近現代史」に決定づけました。

三田山上の学友たちと親交を深め、多くの幅広い友人をつくりました。彼らとの談論・交遊を通じて 新たなる自由と民主主義のもとで、厳しい社会でありながら、独立自尊の学風で、独立して生きる力を 自ら育成しました。

★1956年12月、国連が日本国の加盟を承認しました。

★1958年2月、大学の卒業論文の提出時期が来ました。
KK青年の卒業論文は、1920年のアメリカ合衆国のウォレン・ハーディング第29代大統領が施政した時代から、 1929年のウォール街の恐慌までの、1920年代の米国近代史を研究したものでした。





編集続行中







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☆ 小説「人間失格」 ☆
~ 1948年、太宰治の作品 ~




『人間失格』は、小説家・太宰治による中編小説。『ヴィヨンの妻』『走れメロス』『斜陽』に並ぶ太宰の代表作の1つである。
1948年(昭和23年)3月より書き始め、5月12日に脱稿した。太宰は、その1か月後の6月13日に山崎富栄とともに玉川上水で入水自殺した。
同年、雑誌『展望』6月号から8月号まで3回にわたって掲載された本作品は、著者死亡の翌月の7月25日、筑摩書房より短編「グッド・バイ」と併せて刊行された。定価は130円。

他人の前では面白おかしくおどけてみせるばかりで、本当の自分を誰にもさらけ出すことのできない男の人生(幼少期から青年期まで)をその男の視点で描く。この主人公の名前は、太宰の初期の小説『道化の華』に一度だけ登場している。
戦後の売り上げは新潮文庫版だけでも累計発行部数670万部を突破しており、夏目漱石の『こころ』と何十年にもわたり累計部数を争っている。



※ 検索:太宰治作=人間失格

出典:インターネット検索










1948年、作家太宰治は、入水自殺した。没年38歳。


本名、津島 修治。左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、 第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。 主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。没 落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。 戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、 典型的な自己破滅型の私小説作家であった。




2018年6月18日、三鷹市玉川上水で、太宰治の入水場所を見る


2018年6月18日、三鷹市の禅林寺で、太宰治の墓所に詣でる








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※ 雑記帳
旅そのものが人生か






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