生存競争=弱肉強食

地球上には、1,000万以上の種類の生き物がいると考えられており、
ひとつひとつの生き物はほかの生き物と関わり合いながら生きている。


人間は、地球上の複雑な生態系の一員である

およそ700万年前にアフリカで誕生した人類は、 その後、いくつもの種に枝分かれし、誕生と絶滅を繰り返しながら進化してきた。 最新の研究によれば、分かっているだけでもおよそ20種もの人類が地球上に暮らしていたと考えられている。 時には複数の人類種がすみわけて共存し、あるいは熾烈(しれつ)な生存競争を繰り返していたという。 そして、その進化のバトンを受け継ぐ最終ランナーとして登場したのが、我々ホモ・サピエンスだ。 やがてほかの人類は全て絶滅し、ホモ・サピエンスは地球上で唯一の人類として生き残った。





太平洋戦争中の少年




大東亜戦争中の少年は、毎日、毎日、必ず、
現御神が御座なさる宮城に向かい遙拝をしました。



~昭和16年=1941年~

★1941年3月、 国民学校令が公布された。
1941年4月からそれ以前の小学校が国民学校に改められた。 「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的とした。 すなわち、国民学校は戦時体制に即応した国家主義的な教育を行なった。

★1941年9月6日、
昭和天皇(現御神=アキツミカミ)と重臣らによる御前会議で、陸軍大臣東条英機が強硬に日米開戦を主張、 「帝国国策遂行要領」を決定、日米交渉が10月上旬までに打開されない場合は、開戦を決意するとされた。
近衛文麿首相は日米交渉の継続を希望し、みずからフランクリン=ローズヴェルト大統領と折衝したがかなわず、 ついに、10月18日に総辞職した。

★1941年10月18日、
現役陸軍大将が首相となって東条英機内閣が成立した。

★1941年11月5日,
御前会議で、昭和天皇(現御神=アキツミカミ)と重臣らは、対米交渉打ち切りの場合、12月初旬の開戦を決断した。

★1941年12月1日、
日米交渉決裂の結果、東條内閣は御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。

★1941年12月8日、
昭和天皇((現御神=アキツミカミ)は、イギリス帝国とアメリカ合衆国の2国に対して宣戦布告しました。 最初の作戦であるマレー作戦と、それとほぼ同時並行に行われた真珠湾攻撃を実施しました。 日本とイギリス、アメリカとの間に戦争が発生しました。




*その時、昭和天皇(現御神=アキツミカミ)が統帥する軍隊が、
「米国のハワイ真珠湾」を奇襲攻撃した時には、KK少年は8歳でした。

~昭和17年=1942年~

★1942年6月、
大日本帝国海軍がミッドウェー海戦で敗れる。=(戦局の転機)
太平洋戦争が始まってから約7ヵ月後、南雲忠一中将率いる「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母四隻を撃沈され、 開戦以来はじめての大敗を喫した。

★1942年7月2日~3日、
南太平洋のマキン、タワラ両島の日本軍守備隊が全滅。

★1942年8月7日から1943年2月7日にかけて、
西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島で行われた戦いで、日本軍は敗れた。 交戦勢力はアメリカ・オーストラリア・ニュージーランド・イギリスなどの連合軍だった。 これ以降、日本軍の敗戦色がますます濃厚になっていった。

~昭和18年=1943年~

★1943年5月、アッツ島玉砕
アッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日に玉砕した。 太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、 また第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた地上戦である。

★1943年10月21日、
東京の明治神宮外苑競技場では文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、 東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。 東条英機首相は「天皇陛下♪バンザイ♪」と大声で叫んで、学徒を戦地に送り込みました。


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*大東亜戦争中において、KK少年は、来る日も来る日も、月月火水木金金の休日なしの勤労奉仕という過酷の肉体労働をしました。 通学用品は、ランドセル、教科書、ノート、鉛筆などではありませんでした。草刈り鎌、農耕用鍬、荷運びの竹製笈こそが必携の学用品でした。 校舎内教室で、教科書を開いて勉強した記憶はありません。

*国民学校では、堆肥つくり、田植え、芋栽培、稲刈り、麦刈り、カボチャ栽培、大豆栽培などの農業に従事しました。 それから、稲草履つくり、草鞋つくり、山からのマキ燃料の運搬、日本海の浜辺での塩田作業、養蚕用桑の皮剥ぎ作業 、軍事用皮革製造に必要なウサギ飼育などの労働に従事しました。

*国民学校では、登校・下校においては、集落の児童がグループを結成して、二列縦隊で行進しました。行進では、軍歌「露営の歌」などを唄いました。 「勝って来るぞと勇ましく、誓って故郷(くに)を出たからにや、手柄立てずに死なりょうか。進軍ラッパ聞くたびに、瞼に浮かぶ旗の波。」 「思えば昨日の戦いに朱(あけ)に染まって、にっこりと、笑って死んだ戦友が、天皇陛下万歳と残した声が忘すらりょうか。」と、 雨の日も、風の日も、雪の日も、広大な田圃の中の通学路を、大声で唄いました。

*国民学校では、毎朝、昭和天皇(現御神=アキツミカミ)ご真影に対して最敬礼を致しました。 東に向かって、皇居(昭和天皇の居所)への遙拝は最重要義務でした。 明治節(明治天皇の偉勲を讃える日)や天長節(昭和天皇への忠誠日)などの儀式があるときは、 国家「君が代」は勿論のこと、天皇陛下の御為に名誉の戦死を讃える歌として「海ゆかば」の 歌を厳粛に唄いました。「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、帰りみはせじ」と。 儀式の予行練習では、学校教頭が、必ず、行儀の悪い児童にビンタ暴力を実行しました。

~昭和19年=1944年~

★1944年7月9日、サイパン島陥落、玉砕

サイパン陥落の責任を取る形で、7月18日に東條内閣は総辞職した。

★1944年7月、インパール作戦失敗

★1944年8月11日、
グアム島では、追い詰められた小畑中将と 部下の将兵60人は、 叉木山の壕で 自決。これをもってグアムの日本軍守備隊による組織的戦闘は終結した。

★1944年9月15日、
アメリカ軍はペリリュー島に、そして二日後にアンガウル島に上陸しました。 アンガウル島では、約1,200人の守備隊が2万人を超えるアメリカ軍と戦い、およそ1か月後、負傷し捕虜となった60人を除いて玉砕しました。
ペリリュー島では、守備隊約1万人に対しアメリカ軍は延べ4万人で挑みました。 すぐに島を落とせるとアメリカ軍指揮官は楽観していましたが、洞窟陣地にこもり、火力を集中する日本軍に甚大な被害を被りました。 激戦は約2か月続き、最終的にアメリカ軍は死者1,684人、負傷者7,160人、日本軍は戦死10,022人、捕虜となり生還した兵は446人でした。

★1944年10月19日、
日本海軍が神風特攻隊を編成しアメリカ軍艦への体当たりを計画する。 10月20日、アメリカ軍第4個師団がフィリピンのレイテ島に上陸する。神風特攻隊が初めて出撃する。 レイテ沖海戦で日本海軍は壊滅被害を受けた。



*国民学校では、昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に戦地へ出征する兵士を鉄道駅の駅頭まで見送りしました。その駅頭では 「海ゆかば」の歌を唄って、出征兵士の名誉を讃えました。まさに、その駅頭から、英霊として帰還した兵士の葬列に加わり、 悲しい想いをしました。肉親や親戚、近所の人達が戦争犠牲者となりました。人間の生命は鴻毛よりも軽く、 昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に死ぬことこそ、大変な名誉であるという価値観を強要した教育が行われました。

*国民学校では、教室で、国語・算数・理科などの教科書などを開いた記憶が無く、鉛筆や筆類を握った記憶すら皆無です。 英語は敵国語として扱われて、ABCの文字すら知りませんでした。もちろん、図画という美術教育など全くありませんでした。

*国民学校では「本土決戦」に備えて軍事訓練が実施されました。鬼畜米英兵士を殺す竹ヤリ突撃演習が連日行われました。 耳を破裂させるような怒号に近い、教官の軍事命令用語には閉口しました。 その怒号には、KK少年にとって、時には、意味不明で、頭が真っ白になってしまう事がありました。

*国民学校の体育教室(講堂)や野外演習場(校庭)では、教官や上級生は、「天皇陛下の命令と思え」と、 軍隊規律を悪用して、ビンタや鉄拳で、 時には木刀で、弱い者イジメを公然としていました。鉄拳制裁で暴力を振るう教官に対して、 KK少年は大変な恐怖心を覚えました。

*国民学校は、上級生児童に鬼畜米英兵士を殺すための訓練場でした。 やんちゃで遊び盛りのKK少年にとっては、国民学校は不愉快極まりない場所でした。 昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に、 竹ヤリを持って突撃して敵国米兵を殺す訓練を受けたことは、永遠に忘れる事ができません。 なお、ひ弱なKK少年は、軍事教練に就いてゆけない落伍者でした。

【参考】
1944年秋、連合国軍が国境を越えてドイツに進攻すると、ナチス政権は第三帝国の防衛のため、 「国民突撃隊」と呼ばれる部隊に、60歳を超える高齢者と共に10歳以上16歳未満の子供を徴兵しました。


~昭和20年=1945年~

★1945年2月14日、
近衛文麿公爵は吉田茂などと相談し、米英との早期講和を謀り「上奏文」を昭和天皇に提出した。 昭和天皇は早期講和ではなく、一度華々しい戦果=「本土決戦での勝利」をあげ、米英に対し有利な状況で講和を模索するべきだという、 いわゆる「一撃講和」を唱え、近衛公爵による上奏を退けたのであった。

*「一撃講和」を唱えた昭和天皇の主張は、「本土決戦」を強行した場合には、 多くの国民が犠牲になる事など考慮しなかったのではないでしょうか。 近衛公爵や吉田茂などの意見を無視し、陸軍上層部の意見を信用し採用して「本土決戦での勝利」を目論んでいたと考えられます。

★1945年3月、硫黄島陥落、玉砕

★1945年3月10日、東京大空襲


東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、 特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。 その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)を指す。 この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。 東京大空襲の惨状をご視察なされた昭和天皇(現御神=アキツミカミ)のご気分は、如何ばかりだったでしょうか。

★1945年3月26日~9月7日、沖縄戦

沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は4月2日に開始、6月23日に終了した。

*戦争はふつう、軍隊と軍隊、軍人と軍人が戦うものだが、沖縄戦は、10代前半の子どもも含む住民が、 足りない軍人の代わりや手伝いをさせられたりした。軍人も、武器をもたない住民も、ごっちゃになったまま地上戦が続いた。 日本軍が南部に追い詰められてからは特に、米軍の無差別な攻撃に、軍人も、住民も次々と命を奪われていきました。 こうしたことで、沖縄戦では、軍人よりも住民の命が多く失われたと言われる。

*沖縄戦の教訓として「日本軍隊は沖縄住民を守らなかった」と語りつがれている。日本兵に命を助けられた人はいるが、 でも、日本兵に命を脅かされたり、スパイとみなされ、実際に命を奪われたりした沖縄住民が沢山にいる。

*1945年5月末に、沖縄戦において、日本軍・第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退したが、6月下旬までに組織的戦力を失い、 6月23日には牛島満司令官らが自決しました。 その後も掃討戦は続き、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、 最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日である。

★1945年7月26日、
米英華の3か国(のちにソ連も参加)はポツダム宣言を発したが、 日本政府はこれを「黙殺」した。アメリカのトルーマン大統領は、本土決戦による犠牲者を減らすためと、 日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制を目的として、史上初の原子爆弾の使用を決定した。

★1945年8月6日、天気は晴れ。
島根県浜田地方に住んでいるKK少年は、遠く南の空が、広島方面の上空が異様な黒雲に覆われている光景を目にしました。 のちに、それが新型爆弾=原子爆弾の広島市への投下による雲の発生だという事を知りました。暫く、日が経って、 原子爆弾の犠牲者が、我が寒村に帰郷して来ました。その人の顔面は見るに忍びないケロイド状の黒焦げた様相でした。



★1945年8月8日、ソ連が満州侵攻

★1945年8月9日、長崎に原爆投下



★1945年8月15日、
昭和天皇は、 ポツダム宣言を受諾しました。無条件降伏でした。
あの日は、近所に住むMKさんが、帝国陸軍の歩兵第21連隊(島根県浜田市)に出征するので駅頭まで見送った日でした。 天皇陛下の玉音放送を、駅前の知人宅で聴きました。 生き神様である昭和天皇のお言葉は、KK少年には難解で重々しくて理解不能でした。 周囲の大人の話で、大東亜戦争が終わったことを知らされました。

*遂に、天皇陛下(現御神=アキツミカミ)のための戦争が終わりました。 天皇制軍国主義国家が崩壊した事を知りました。村落の人々の顔には、安堵の明るい表情がありました。 その日、出会った下級兵士には笑顔がありました。

*大東亜戦争は、昭和天皇(現御神=アキツミカミ)が統師する大日本帝国陸海軍が敗れて終戦になりました。 この大戦で、約310万人以上の日本人の生命が失われています。 海外のアジア地域の犠牲者は、1000万人以上とも言われています。 米英に対して宣戦布告し、そして敗戦詔書を下した昭和天皇の戦争責任は、どうなるのでしょうか。

★1945年9月2日、
日本の降伏調印式は、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われました。 その状況はラジオの実況中継で全世界に流されました。 米国トルーマン大統領は、ラジオの実況中継後、全国民向けのラジオ放送で演説しました。 その中で9月2日を正式にVJデー(対日戦勝記念日)とし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのでした。







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敗戦後の少年




★1946年1月1日、
昭和天皇は、詔書で、天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念であると述べ、 自らの神性を否定しました。これは、のちに、天皇の地位が根本的な変更をもたらせる布石ともなりました。 同日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、この詔書に対する声明を発表し、 天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと、高く評価しました。



★1946年4月から、
KK少年は戦後派中学生として、次男坊らしく自由奔放に育ちました。 世間で言う「悪戯小僧・悪ガキ」の一人だったと、自虐的に称しています。中学1年生の時、隣席に優秀なNS君がいました。 都会育ちの明朗で、真面目な少年でした。彼とは汽車通学が一緒でした。 彼と仲良しの友達になりました。中学2年生の時、NS君は、突然、愛知県拳母市(現在の豊田市)へ 引っ越しました。尊敬する友人を失って、ちょっと寂しくなりました。

★1947年5月、
日本国憲法が施行されました。
憲法の前文では「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである。われらは,これに反する一切の憲法,法令及び詔勅を排除する。」と書いてありました。

★1948年4月から、
中学3年生の時には、同じ教室で、成績優秀なYN君と友達になりました。 YN君は、都会育ちのダンディー少年でした。反抗期の自称「蛮カラ少年」だったKK少年にとって、YN君の心ある友情を とても嬉しく思いました。ある日の日曜日、浜田中学校前にあるカトリック教会へ、YN君と二人で行きました。 僕たちは、人生を如何に生きるべきか、模索していました。

★1949年4月から、
島根県立浜田高等学校の1年生になってから、自我に目覚めました。 文学、歴史、哲学などの書物を多読するようになりました。そして、クラブ活動として、 YN君の誘いを受けて化学部に入りました。

★1949年には、
京都大学の湯川秀樹博士が、ノーベル物理学賞を受賞しました。 受賞理由は、陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想したことにありました。
そこで、KK少年は書店へ行き、「量子力学論」の専門書を買って勉強しました。KK少年にとって、難解な理論でしたが、 丁寧に読み進めて原子核の仕組みを理解することが出来ました。

KK少年の将来の夢は決定しました。
それは、ノーベル化学賞を受賞した湯川秀樹博士のような学者になる事でした。 クラブ活動としては、最初の課題は、上級生のNさんの指導の下で、 化学部の実験室で「定性分析」「定量分析」に挑戦する事でした。

急遽、高校校舎の移転が決まり、化学実験室は取り壊しになる事が決まりました。 KK少年の化学実験も一時停止に追い込まれました。新しい高校校舎は、 島根県立浜田高校の校舎は、旧帝国陸軍歩兵第21連隊の兵舎へ移転することになりました。

★1950年3月、
高校1年生が終わった春休みに、両親に無断で家出しました。
目的地は京都市でした。湯川秀樹博士を輩出した京都大学の化学教室を見たかったのでした。

★1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発しました。



編集続行中





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※ 雑記帳
心の旅~表現の世界






☆ 青春の揺れる心 ☆
~ 東西冷戦時代の背景で ~




★1952年5月1日に、
血のメーデー事件がありました。
サンフランシスコ講和条約が発効した直後のメーデーで、 条約反対のデモ隊が使用不許可となっていた皇居前広場に入り、警官隊と衝突しました。 警察は催涙ガスを使用し、また武器を持たないデモ参加者に向けて銃を発砲したため、 その年のメーデーは流血の惨事となり、多くの死傷者が出ました。 憲法に保護された形の政治的表現を行使していたデモ参加者に対して、 警察が殺傷力のある武器を使用したのは、戦後日本で初めてのことでした。



血のメーデー事件が起きた時には、KK青年は実兄・長男YK兄が既に在籍している慶應義塾大学に入学して間もない時でした。 当時は、朝鮮戦争の真只中にあり、社会不安が漂う時代でした。 KK青年は、東西冷戦時代の不確実な未来社会を、日本国の社会体制の行く末を案じていました。 そこで、大学のクラブ活動の社会科学研究会に属して、少壮の経済学者を チューターにして、近代日本資本主義経済史を研究し始めました。

★1953年7月、朝鮮戦争の休戦協定が締結されました。

★1953年9月、大学2年生の後半時に、肺結核に罹り、さらに結核性脈絡網膜炎を患いました。 眼結核で左眼の視力を失い、盲目の危機にさらされました。KK青年は闘病中に自分の将来を悲観して自殺さえ考えました。 約1年半の療養中、父母・親戚・友人から多くの援助を受けました。物心両面の温かい援助の効があって、肉体的にも精神的にも、 健康を回復しました。

★1954年、 復学を考えていた時に、父から勉強をやり直して医師の道を選ぶよう幾度も言われました。 地方の私立医科大学の受験を勧められましたが、医師コースに挑戦することはしませんでした。 医師と言う職業は激務だという事でしたので、KK青年は健康を損ねた経験から、医師の道は 適当な職業とは思いませんでした。加えて、医師という職業は社会的地位も高く経済的には安定しているものの、 我が故郷・寒村での開業医は、超多忙で、短命で、夢のない仕事だと、当時、思っていました。

★1955年4月から、
病後における大学生活は、教室授業では興味の湧いた民法や国際関係論の講座に出席し聴講しました。 主として、三田山上にある大学図書館に通いました。数多の書籍・雑誌を通じて、国内外の新しい情報を求めました。 現代世界史の流れは、米国を中心としたものであり、世界一の大国である米国の政治・経済・社会に関心を持って研究しました。 KK青年は、学問分野における専門を「アメリカ近現代史」に決定づけました。

三田山上の学友たちと親交を深め、多くの幅広い友人をつくりました。彼らとの談論・交遊を通じて 新たなる自由と民主主義のもとで、厳しい社会でありながら、独立自尊の学風で、独立して生きる力を 自ら育成しました。

★1956年12月、国連が日本国の加盟を承認しました。

★1958年2月、大学の卒業論文の提出時期が来ました。
KK青年の卒業論文は、1920年のアメリカ合衆国のウォレン・ハーディング第29代大統領が施政した時代から、 1929年のウォール街の恐慌までの、1920年代の米国近代史を研究したものでした。

<論文の概要=1920年代の米国史>

 第一次世界大戦を機に、世界的な女性の社会進出が進んだが、アメリカ合衆国においても1920年に女性参政権が実現し、民主主義が一段と徹底された。1920年代のアメリカは、共和党政権下の経済の繁栄がもたらされた時代。アメリカの国民総生産は年5%以上成長し続け、インフレはほとんど無く、ひとりあたりの所得は30%以上増えた。こうした経済の拡大をもたらしたのは、科学技術と産業が有機的に結合し、これを政府が支持する「現代アメリカ」のシステムであった。

人種のるつぼ
 その反面、経済の繁栄は世界中から移民を引き寄せることになり「人種のるつぼ」化が進んだ。そのなかで従来のワスプ(WASP)といわれる西欧系の移民と、新移民といわれる東欧・南欧からの移民、さらにアジア系移民との間で格差が広がり、新たな対立が生じ、特に日露戦争頃から増加した日本人移民に対する排除の動きが強まり、1924年5月には移民法が制定された。これは南・東欧系ヨーロッパ人は数の上での制限であったが、日本人に対しては実質的な移民禁止という厳しいものであったので「排日移民法」ともいわれた。また、南部の黒人差別は事実上の黒人選挙権の剥奪と、いわゆる分離政策が平然と行われ、一旦沈静化していた白人至上主義者の秘密結社であるクー=クラックス=クランが1920年代に復活し、激しい黒人攻撃をくりかえしていた。

大量生産・大量消費・大衆文化
 20世紀前半、アメリカ資本主義は工業化が急速に増大した。アメリカ合衆国の1920年代の経済成長の中で、大量生産・大量消費が行われ、アメリカ人は物質的な豊かさを経験した。それを牽引したのが自動車産業であり、フォード社のT型モデルがベルトコンベアシステムで大量生産され、価格の低下によって一般大衆が購入できるようになった。同時に関連した石油産業が急速に成長し、道路建設やタイヤ産業も興った。また月賦販売が一般化して、セールスマンが花形職業として脚光を浴び、宣伝業も一大市場となった。このような大量消費社会の形成を反映して、文化の面でもラジオや新聞などのマスメディアが発展し、音楽・演劇でジャズの流行のように大衆化が著しく、また新たな大衆娯楽として映画なども生まれた。1920年代は経済の繁栄を背景とした、「ローリング・トゥエンティ」といわれる現代大衆文化が開花した時代でもあった。

共和党の三代
 1920年代、「繁栄の時代」にはハーディング・クーリッジ・フーヴァーの三代の共和党大統領が続いた。
•ハーディング:在任1921~23 ワシントン会議を提唱して協調外交では功績を挙げたが、内政では汚職が多発したり、自身の女性スキャンダルもあって低迷した。任期途中に死去し、副大統領のクーリッジが昇格した。
•クーリッジ:在職1923~29 無口で愛想が悪く「何もしない大統領」と言われたが、未曾有の経済の繁栄はその自由放任主義がちょうどよかった。外交面では国務大臣ケロッグが活躍して、1928年に不戦条約を成立させた。
•フーヴァー:在任1929~33 商務長官として企業や高額所得者への税制優遇など企業よりの政策を推進し、1929年「永遠の繁栄」を謳歌するアメリカの大統領として当選したが、直後に世界恐慌が始まる。それにたいしては彼は政府は経済になるべく介入しない方がいいという信念から、対策を立てなかった。



★1958年3月、大学卒業と同時に、資源エネルギー産業の会社に就職しました。


編集続行中







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☆ 日米関係史 ☆

(世界恐慌から第二次世界大戦まで)




1929年(昭和4年)10月、アメリカで世界恐慌が起こる。
翌年には日本にも影響は波及し多大な影響を受け生糸などの価格が崩落した。この不況状態は1932年(昭和7年)ごろまで続く。
1936年(昭和11年)に日本は第二次ロンドン海軍軍縮会議から脱退し、12月にワシントン海軍軍縮条約が失効したことで両国の軍縮協力関係は終わった。

1937年(昭和12年)から始まった日中戦争はさらに日米関係を悪化させ、10月25日にはフランクリン・ルーズベルト大統領が防疫演説(en:Quarantine Speech)を行い、日本を侵略国であると批難した。また12月12日にアメリカの砲艦パナイ号が、長江を航行中に日本軍の爆撃によって沈没したことはアメリカの反日感情を大きく悪化させた(パナイ号事件)。

1938年(昭和13年)7月26日にアメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告し、1939年(昭和14年)1月26日に失効したことで日米関係は開国以来の「無条約時代」に突入した。7月22日に大本営政府連絡会議で「対米戦争」を考慮に入れた「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が採択された。9月にはドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発し、両国関係はいよいよ微妙となっていった。

1940年(昭和15年)にはアメリカから密使が送られ「日米諒解案」の調整が始まった。しかしフランス領インドシナ北部への進駐(仏印進駐)や9月27日に締結された 日独伊三国同盟はアメリカをさらに刺激した。

1941年(昭和16年)2月から駐米大使として野村吉三郎が赴任し、日米関係の調整に入った。懸案となったのは日中戦争の和平問題、中国大陸からの撤兵問題、三国同盟問題、満州国問題などであったが、4月には日米諒解案に基づく合意が出来つつあった。しかし三国同盟の主唱者であった松岡洋右外相が反対して一旦交渉は白紙に戻った。その後交渉は再開されたが、南進論に基づく南部フランス領インドシナやオランダ領東インドへの進駐計画はさらにアメリカを刺激し、7月25日には在米日本資産の凍結、8月には「日本を含む全ての侵略国」 への石油禁輸に踏み切った。日本側は対米交渉の前途を危惧し、徐々に対米戦争準備を開始した。11月27日、コーデル・ハル国務長官から渡された案(いわゆるハル・ノート)を日本側は「最後通牒」として受け取り、対米戦を決意した。

1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾軍港を攻撃し(真珠湾攻撃)、アメリカ・イギリス・オランダに宣戦布告した。
三国同盟を締結していたドイツやイタリアも追随してアメリカに宣戦、第二次世界大戦はアジア・太平洋地域を含む大規模なものとなった。当初、日本は勝ち進んでいたものの、圧倒的な工業力で軍艦や戦車を整えたアメリカは攻勢に出る。開戦翌年のミッドウェー海戦の敗退・ガダルカナル島の陥落と続き日本は圧倒的に不利な状態に陥っていく。

そして1945年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍による広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下を経て、ついに日本政府は8月14日ポツダム宣言の受諾を決定した。9月2日に降伏文書に署名し(日本の降伏)、戦争は終結した。







☆ 小説「人間失格」 ☆
~ 1948年、太宰治の作品 ~



『 恥の多い生涯を送って来ました 』


『人間失格』は、小説家・太宰治による中編小説。『ヴィヨンの妻』『走れメロス』『斜陽』に並ぶ太宰の代表作の1つである。
1948年(昭和23年)3月より書き始め、5月12日に脱稿した。太宰は、その1か月後の6月13日に山崎富栄とともに玉川上水で入水自殺した。
同年、雑誌『展望』6月号から8月号まで3回にわたって掲載された本作品は、著者死亡の翌月の7月25日、筑摩書房より短編「グッド・バイ」と併せて刊行された。定価は130円。

他人の前では面白おかしくおどけてみせるばかりで、本当の自分を誰にもさらけ出すことのできない男の人生(幼少期から青年期まで)をその男の視点で描く。この主人公の名前は、太宰の初期の小説『道化の華』に一度だけ登場している。
戦後の売り上げは新潮文庫版だけでも累計発行部数670万部を突破しており、夏目漱石の『こころ』と何十年にもわたり累計部数を争っている。


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太宰治



本名、津島 修治。左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、 第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。 主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。没 落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。 戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、 典型的な自己破滅型の私小説作家であった。