吉川和夫ウエブ美術庵の月例新作絵画発表

吉川和夫(キッカワカズオ)は、
人生という旅で出会った、古今東西の人物の姿や感情を絵の中で表現しています。


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( 2月度の人物画 )

★ 画家ゴーギャンの自画像を模写する ★


左が本物(油彩)             右が模写(水彩)

              ( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


ポール・ゴーギャンは、1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父クローヴィス・ゴーギャンは、共和主義者のジャーナリストであり母アリーヌ・マリア・シャザルの母(祖母)は、初期社会主義の主唱者でペルー人の父を持つフローラ・トリスタンであった。1851年、ナポレオン3世のクーデターで、共和主義者であった父クローヴィスは職を失い、一家は、パリを離れてペルーに向かった。しかし、父クローヴィスは、航海中に急死し残されたポールとその母と姉は、リマで、ポールの叔父を頼って、4年間を過ごした。
 1867年7月7日、母が亡くなったが、ポールは、数か月後に姉からの知らせをインドで受け取るまで知らなかった。その後、1868年、兵役でフランス海軍に入隊し、1870年まで、2年間勤めた。1871年、23歳の時、パリに戻ると、母の富裕な交際相手ギュスターヴ・アローザの口利きにより、パリ証券取引所での職を得、株式仲買人として働くようになった。その後11年間にわたり、彼は、実業家として成功し、1879年には、株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を得ていた。
 株式仲買人としての仕事を始めた1873年頃から、ゴーギャンは、余暇に絵を描くようになった。彼が住むパリ9区には、印象派の画家たちが集まるカフェも多く、ゴーギャンは、画廊を訪れたり、新興の画家たちの作品を購入したりしカミーユ・ピサロと知り合い、日曜日にはピサロの家を訪れて庭で一緒に絵を描いたりしていた。ピサロは、彼を、他の様々な画家たちにも紹介した。
 1888年、ゴーギャンは、南仏アルルに移っていたゴッホの「黄色い家」で、9週間にわたる共同生活を送った。しかし、2人の関係は次第に悪化し、ゴーギャンはここを去ることとした。12月23日の夜、ゴッホが耳を切る事件が発生した。ゴーギャンの後年の回想によると、ゴッホがゴーギャンに対しカミソリを持って向かってくるという出来事があり、同じ日の夜、ゴッホが左耳を切り、これを新聞に包んでラシェルという名の娼婦に手渡したのだという。翌日、ゴッホはアルルの病院に送られ、ゴーギャンはアルルを去った。2人はその後二度と会うことはなかったが、手紙のやり取りは続け、ゴーギャンは、1890年、アントウェルペンにアトリエを設けようという提案までしている。
 ゴーギャンは、タヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイという独自の共同体やオロ 神についての解説に惹きつけられた。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作した。その最初が『アレオイの種』であり、オロ神の現世での妻ヴァイラウマティを表している。
 ゴーギャンはタヒチの文化に強く惹かれ1891年と1895年、2回タヒチに住み着いている。1回目のタヒチでの作品の評価は低く、作品も2点しか売れなかった。そのため生活費にも困り1893年に国費の旅費で帰国している。しかし、パリでのゴーギャン批判に耐えきれず再びタヒチへ逃避するようにやってくると徐々に作品も売れ始め批評も肯定的となり注文も安定してきた。生活にも余裕が出来てきたのだが自身の健康状態(梅毒と言われている)が悪くなり、「我々はどこから来たのか」を描き終わるころには多額の借金と古傷の足の痛みまで重なりモルヒネに頼るつらい日々を送っていた。そして、1903年5月8日近くの住民がゴーギャンが亡くなっているのを発見した。死因については自殺説もあるが今日でも不明である。

☆ゴーギャンの自画像を描く(模写)

左が本物(油彩)                  右が模写(水彩)

                ( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )





2016年7月14日、米国ボストン美術館で、ポール・ゴーギャンの作品と三度目の対面をしました。
その作品の題名は「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」です。









仏領タヒチでは、2010年2月1日~15日、15日間滞在しました。
2月3日タヒチのゴーギャン美術館で、彼の足跡を偲びました。
島々を見物しながら多くのタヒチの人々と語り合いました。




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( 1月度の人物画 )

★ 七福神を描く ★

 ( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )

庶民の身近にあって暮らしに幸運をもたらす七柱の福の神「七福神」が、 現在のような形で人々に定着したのは江戸時代中頃。 浮世絵にも宝船に乗った七福神が描かれ、正月には初詣でを兼ねての七福神詣でが庶民の間で盛んに行われた。
それまでは三福神だったり五福神だったり、神々も一定ではなかったが、 享和年間(1801~3)には恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、布袋尊、福禄寿、寿老人と、今の顔ぶれに落ち着いたという。 実はこの七柱のうち恵比寿を除いて六柱はインドや中国など海の向こうからやってきた神々。 国際色豊かというかエキゾチックなメンバー構成なのである。

☆恵比寿

伊邪那岐命・伊邪那美命の間に生まれた子供「蛭子」(ヒルコ)、 もしくは大国主神の息子である「事代主神」(コトシロヌシ)などを祀ったもので 古くは「大漁追福」の漁業の神である。 時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神となった。 唯一日本由来の神である。

☆大黒天

インドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神。 日本古来の大国主神の習合。大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。 また親子関係から恵比寿と並んで描かれることが多い。

☆毘沙門天

元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神。福徳増進の神であったが、 仏教に取り入れられてから、戦いの神としてしだいに民衆に信仰される。 日本では毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれる。

☆弁才天(弁財天)

七福神の中の紅一点で元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。 仏教に取り入れられ、音楽・弁才・財福・知恵の徳のある天女となり選ばれた。 七福神の一柱としては「弁財天」と表記されることが多い。

☆福禄寿

道教の宋の道士天南星、または、道教の神で南極星の化身の南極老人。 寿老人と同一神とされることもある。 長寿と福禄をもたらす。

☆寿老人

道教の神で南極星の化身の南極老人。日本の七福神の一人としては白鬚明神とされることもある。

☆布袋

唐の末期の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したといわれる仏教の禅僧。 その太っておおらかな風貌が好まれ、手にした袋から財を出し与えてくれる。弥勒菩薩の化身ともいわれている。








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