吉川和夫ウエブ美術庵の月例新作絵画発表

吉川和夫(キッカワカズオ)は、
人生という旅で出会った、古今東西の人物の姿や感情を絵の中で表現しています。


<< 人物を描く >>





( 12月度の人物画 )

★ 第一回芥川賞の受賞者である石川達三像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

石川 達三(1905年(明治38年)7月2日 - 1985年(昭和60年)1月31日)は、 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)に生まれる。父が秋田県立横手中学校の英語科教員だった。

日本の小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、 『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。 戦後は、新聞小説や、社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。 『四十八歳の抵抗』など書名のいくつかは流行語にもなった。
『風にそよぐ葦』『人間の壁』など鋭い社会的問題意識を持ったルポルタージュ風小説で高い評価を受けている。 社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、 アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。芸術院会員。

作風
英文学者で評論家の中野好夫は、「田舎者で小市民」という性格は石川文学の底を貫いているとし、それは一部の読者を遠ざけてもいるが、一貫した強みになっていることも疑いない、と論じている。そして中野は石川が大正期に自由主義者として自己を形成し、軍国主義への抵抗を秘めていたとも考えている。
石川は多読をせず、先輩作家に師事して、その推薦によって文壇に出るという道を採らなかった。志賀直哉・宇野浩二・徳田秋声のような私小説には最初からはっきり異質感をもったという。多少とも影響を受けた作家として、アナトール・フランスとエミール・ゾラをあげている。松本清張と山崎豊子が対談の中で論じているようなストーリー構成力の豊富さという点は、この二人の外国作家に学んだとも考えられる。日本で系譜のようなものを求めるとすれば、菊池寛・山本有三・島木健作のようないわゆる社会派作家に近い。





★ 平安時代の歌人である小野小町像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

お米の「あきたこまち」に由来する ・・・ <小野小町の生誕地に纏わる伝承>
生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。 ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、 平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵(山形県酒田市)に移しており、その周辺とも考えられる。

小野 小町(生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。 小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、 後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、 後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。

江戸時代の浮世絵師・鈴木晴信が描いた小野小町像


<世界三大美人>
一般にクレオパトラ、楊貴妃と共に「世界三大美人」(または世界三大美女)の一人に数えられている。 明治中期、日本国内でナショナリズムが高まる中のメディアに登場するようになったのが始まりとされている。

私が描いたクレオパトラ像と楊貴妃像


<小野小町が由来になったもの>
*こまち - 東北・秋田新幹線の列車。
*秋田県湯沢市小野出身という説に由来。あきたこまち - 1984年に秋田県の奨励品種に採用された日本のイネの栽培品種の1つ。
*こまちスタジアム - 秋田県秋田市新屋(通称向浜)にある野球場の愛称。正式名称は秋田県立野球場。施設は秋田県が所有し、県の外郭団体である秋田県総合公社が指定管理者として運営管理を行っている。
*こまち農業協同組合 - 小野小町の出生地とされる秋田県湯沢市に本所をおく農業協同組合。愛称はJAこまち。湯沢市、東成瀬村と羽後町の一部を営業エリアとする。東成瀬村から指定金融機関とされている。
*秋田銀行こまち支店 - 秋田県秋田市に本店をおく地方銀行の秋田銀行が開設しているインターネット支店の名称。
*小町まつり - 秋田県湯沢市の祭り。毎年6月の第2日曜日開催。
*小町堂 - 秋田県湯沢市の建造物。観光拠点。




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( 11月度の人物画 )

★ 詩人である土井晩翠像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

土井 晩翠(1871年12月5日(明治4年10月23日) - 1952年(昭和27年)10月19日)は、 明治から昭和時代の詩人,英文学者。本名は土井林吉(昭和9年ごろ土井の読みを「どい」と改める)。 仙台生まれ。父は林七,母はあい。東大英文科卒。在学中,雑誌『帝国文学』の編集委員となって作品を発表。 明治32(1899)年,第1詩集『天地有情』を刊行し,漢語を多用する男性的な新体詩人として,女性的な詩風の島崎藤村と並称される。 特に「丞相(諸葛孔明)病あつかりき」のリフレインを持つ長詩「星落秋風五丈原」が愛誦された。
明治33年,二高教授。34年には第2詩集『暁鐘』を刊行した。34~37年,ヨーロッパに外遊。 39年の第3詩集『東海遊子吟』以後,詩作には精彩を欠いたが,東西両洋の文学に精通する博識により,評論,翻訳で多数の著作をなした。 今日では一般に名曲「荒城の月」(滝廉太郎作曲)の作詞者として知られる。 癇癪持ちで,将棋に負けたりすると,盤を引っ繰り返さんばかりにくやしがったという。









★ 慶長遣欧使節団を率いた支倉常長像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

支倉 常長(はせくら つねなが、1571年〈元亀2年〉‐ 1622年8月7日〈元和8年7月1日〉)は、 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての日本の武将。幼名は與市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。 慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、有色人種として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった。

<慶長遣欧使節団>
仙台藩主伊達政宗は、1613年(慶長18年)9月、メキシコ(スペイン領)との通商の開始、 さらにスペインとの同盟締結をめざし、家臣の支倉常長らを派遣した。
一行は支倉以下の日本人と、政宗に使節派遣を提案したフランチェスコ会の宣教師ルイス=ソテロらスペイン人あわせて180人であった。 使節団の乗船サン=ファン=バウティスタ号は仙台藩の月ノ浦で日本人の船大工が建造した。
月ノ浦を出航した使節は、太平洋を横断してアカプルコに上陸、常長ら31名がメキシコを経由してスペインに赴き、 マドリードで国王フェリペ3世に面会した。スペイン王フェリペ3世は通商を認めなかったため、 ローマ教皇からスペイン王を動かしてもらうためにローマまで行った。
その間、支倉らの何名かはカトリックの洗礼を受けて信者となった。
1615年11月、教皇パウルス5世に謁見したが、天正遣欧使節と異なり、正式なものではなかった。 結局、ローマ教皇からの働きかけも得られず、スペインに戻り、なおも国王への面会を求めたが果たせず、1620年にマニラを経由して長崎に帰着した。

<余談>
スペインのセビリアの近郊、コリア・デル・リオという町には、ハポン、すなわち「日本」という姓を持つ人が830人もいる。 この町は慶長遣欧使節の支倉常長らが、往路で4日間、復路で9ヶ月滞在した町である。 そこで彼等は使節の末裔ではないか、といわれている。
町役場に勤めるビクトル=バレンシア=ハポンさんは、自分たちが仙台から来た侍の子孫かどうか確認するため、 役場に残された古文書を調べたところ、エストーリア教会に残された1667年の洗礼台帳に、ホアン・マルティン・ハポンの名を発見した。 ハポンは第二姓なので、母親がハポン姓を名乗っていることになる。
使節が滞在していた1616年から51年後にあたり、ホアン・マルティンが洗礼を受けた歳と母親が彼を生んだ歳を25歳と仮定すれば、 時期が合う。ただ1604~65年の台帳は現存していないので確証はない。




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( 10月度の人物画 )

★ 宮澤賢治像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

宮沢賢治は、(1896-1933)明治29年、岩手県花巻生れ。盛岡高等農林学校卒。富商の長男。 日蓮宗徒。1921(大正10)年から5年間、花巻農学校教諭。中学時代からの山野跋渉が、彼の文学の礎となった。 教え子との交流を通じ岩手県農民の現実を知り、羅須地人協会を設立、農業技術指導、レコードコンサートの開催など、 農民の生活向上をめざし粉骨砕身するが、理想かなわぬまま過労で肺結核が悪化、最後の5年は病床で、作品の創作や改稿を行った。 生前刊行されたのは、詩集『春と修羅』童話集『注文の多い料理店』(1924)のみ。

没後,詩人・草野心平に発掘され,その豊かな空想性とユーモア,宗教性,土着性,科学精神などの交錯する世界が注目を浴びた。 ほかに童話『銀河鉄道の夜』 (1927年頃) ,『グスコーブドリの伝記』 (1932年) ,詩『雨ニモマケズ』 (1931年) など。

追記=草野心平は、マイナーな岩手の田舎詩人として、ほとんど黙殺されていた宮沢賢治を高く評価した詩人でした。 宮沢賢治の詩集「春と修羅」を読んだ心平は、感動し、驚き、「宮沢賢治さんは、天才だー!」と本気で褒めていました。 感激した草野心平は、さっそく宮沢賢治に手紙を出し、貧乏詩人仲間を集めて自身が主催していた同人誌「銅鑼(どら)」へ勧誘したのでした。 直ぐに宮沢賢治は承諾し、「銅鑼」四号に詩(心象スケッチ)二編を寄稿しました。

私は、2015年10月に、岩手県花巻市にある宮沢賢治記念館を訪れました。
その時に描いた宮沢賢治記念館の玄関門です。


そして、宮沢賢治記念館で、次の書籍を買って読破しました。


この書籍の裏帯には、次のような文章が書かれています。







★ 前衛絵画の先駆者である画家・萬鉄五郎像を描く ★



この作品は、萬鉄五郎の自画像を模写したものです
( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

萬鉄五郎は、明治18年(1885)岩手県花巻市東和町土沢生まれの画家。
子供のころから絵に親しみ、東京美術学校に入学。
強烈な色彩と大胆な筆づかいによる卒業制作の「裸体美人」は、 日本の前衛絵画の先駆的作品といわれます。
花巻市土沢の風土と西洋の新しい美術表現を融合させた独自の画風を確立させました。
萬鉄五郎記念美術館のある土沢は今も芸術の薫り漂う町並みを残しています。
昭和2年(1927)5月1日神奈川県茅ヶ崎の自宅で死去。享年42歳。

次の写真は、花巻市土沢にある萬鉄五郎記念美術館です。


次の絵画は、画家・萬鉄五郎の作品です。


追記:萬鉄五郎の作品は、画廊主・画商の洲之内徹のお気に入りでした。 萬鉄五郎は戦後になって次第に評価されつつあったが、まだ有名ではありませんでした。
昭和36年11月に、洲之内が独立した現代画廊のコケラ落としに「萬鉄五郎展」を開きました。 この時から、萬鉄五郎は戦後画壇で有名になったと言われています。






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( 9月度の人物画 )

★ 世界的な版画家・棟方志功像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

~ 木版画で、棟方志功像を制作しました ~


棟方 志功(むなかた しこう、1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)は、日本の板画家。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。 青森県出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。 1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。


< 作風・人物 >

棟方は大変な近視のために眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫った。第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれ、「阿弥陀如来像」「蓮如上人の柵」「御二河白道之柵」「我建超世願」「必至無上道」など仏を題材にした作品が特に有名である。「いままでの自分が持っている一ツの自力の世界、自分というものは自分の力で仕事をするというようなことからいや、自分というものは小さいことだ。自分というものは、なんという無力なものか。何でもないほどの小さいものだという在り方自分から物が生まれたほど小さいものはない。そういうようなことをこの真宗の教義から教わったような気がします」と言っている。

また大のねぶた好きであり、作品の題材としても描いている。中には歓喜する自身の姿を描き込んだものもある。また生前ねぶた祭りに跳人として参加している映像や写真も現存する。

一般に版画家はまとめて作品を摺り、必要に応じて限定番号を入れるが、棟方はこうしたやり方を嫌い、必要な時に必要な枚数を摺り、その時点で必要であれば擦った日付とサインを入れた。棟方がサインを入れ始めたのは1955年(昭和30年)前後であり、戦前の作品にはサインが無い。作品の題名が変わることも頻繁にあり、注意を要する。

一方、棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。



青森市にある棟方志功記念館の図録













★ 名著「人間失格」を書いた作家・太宰治像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

太宰 治(だざい おさむ、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。 本名、津島 修治(つしま しゅうじ)。左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、典型的な自己破滅型の私小説作家であった。



青森県金木町にある太宰治の生家「斜陽館」と太宰治のトホホ色紙

★エピソード=左翼活動★
1929年(昭和4年)、弘前高校で校長の公金流用が発覚し、学生たちは上田重彦(石上玄一郎)社会科学研究会リーダーのもと5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、校長の辞職、生徒の処分なしという成果を勝ち取る。太宰はストライキにほとんど参加しなかったが、当時流行のプロレタリア文学を真似て、事件を『学生群』という小説にまとめ、上田に朗読して聞かせている。津島家は太宰の左翼活動を警戒した。翌年1月16日、特高は田中清玄の武装共産党の末端活動家として動いていた上田ら弘高社研の学生9名を逮捕。3月3日、逮捕された上田ら4人は放校処分、3人が論旨退学、2人が無期停学となっている。

大学生になった太宰は活動家の工藤永蔵と知り合い、共産党に毎月10円の資金カンパをする。初代との結婚で津島家を分家除籍にされたのは、政治家でもある文治に非合法活動の累が及ぶのを防ぐためでもあった。結婚してからはシンパを匿うよう命令され、引っ越しを繰り返した。やがて警察にマークされるようになり、2度も留置所に入れられた。1932年(昭和7年)7月、文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、青森警察署に出頭させる。12月、青森検事局で誓約書に署名捺印して左翼活動から完全離脱した。




☆ 小説「人間失格」 ☆
~ 1948年、太宰治の作品 ~








『人間失格』は、小説家・太宰治による中編小説。『ヴィヨンの妻』『走れメロス』『斜陽』に並ぶ太宰の代表作の1つである。
1948年(昭和23年)3月より書き始め、5月12日に脱稿した。太宰は、その1か月後の6月13日に山崎富栄とともに玉川上水で入水自殺した。
同年、雑誌『展望』6月号から8月号まで3回にわたって掲載された本作品は、著者死亡の翌月の7月25日、筑摩書房より短編「グッド・バイ」と併せて刊行された。定価は130円。

他人の前では面白おかしくおどけてみせるばかりで、本当の自分を誰にもさらけ出すことのできない男の人生(幼少期から青年期まで)をその男の視点で描く。この主人公の名前は、太宰の初期の小説『道化の華』に一度だけ登場している。
戦後の売り上げは新潮文庫版だけでも累計発行部数670万部を突破しており、夏目漱石の『こころ』と何十年にもわたり累計部数を争っている。






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( 8月度の人物画 )

★ アイヌ民族の英傑、シャクシャイン像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )


シャクシャイン(沙牟奢允、アイヌ語:サクサイヌ saksaynu または サムクサイヌ Samkusaynu、 1606年(慶長11年)? - 1669年11月16日(寛文9年10月23日))は、江戸時代前期のシベチャリ (北海道日高管内新ひだか町静内)のアイヌ一部族の首長・惣乙名。

経歴
シャクシャインは、シベチャリ(現在の新ひだか町)以南の日高地方及びそれ以東の集団であるメナシクルの惣乙名であった。 メナシクルは、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域の領分を巡って遅くとも1648年から対立していた。 メナシクルの先代の惣乙名であるカモクタインはシュムクルの惣乙名・オニビシとの1653年の抗争により殺害され、小使であったシャクシャインが惣乙名となった。

シャクシャインはシベチャリ川下流東岸、シベチャリのチャシ(砦)を拠点としていた(現・新ひだか町静内地区)。 オニビシはシベチャリ川上流西岸のハエのチャシを拠点としていた(現日高町門別地区)。 両者は松前藩の仲介によって講和するが寛文年間(1661~1673年)に対立が再燃し1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害。 報復のため、ハエは松前藩に武器の援助を申し出るが拒否される。さらに使者が帰路に急病死すると、 使者は松前に毒殺されたという風説が広り、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめるものであった。

シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌへ松前藩への戦いを呼びかけた。 1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした。これがシャクシャインの戦いである。 蜂起は各地で発生し砂金掘りや交易に訪れた船舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。 シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末には現在の山越郡長万部町のクンヌイまで攻め進んだ。 松前藩から急報を受けた徳川幕府は東北諸藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じ実行された。

クンヌイでの戦闘は8月上旬頃まで続くが、シャクシャイン勢が和人側の妨害により渡島半島のアイヌと連携できなかったのに対し、 松前藩は幕府や東北諸藩の支援を受け、鉄砲を多数装備していた。 これにより戦いはシャクシャイン側の劣勢となり、シャクシャイン軍はクンヌイからの敗退を余儀なくされた。 シャクシャインは10月23日(11月16日)に現在の新冠町にあたるピポクの松前藩陣営で謀殺され、 指導者を失った蜂起者たちは松前軍に降伏した。







※アイヌ民族に対する暴虐






松浦武四郎(1818~1888)が記録した日本(和人)によるアイヌ大虐殺
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アイヌ民族は元々文字を持たなかった民族であるため、アイヌ民族の歴史に関する史料はどうしても日本側のものに偏らざるを得ず、したがって日本がアイヌ民族に対して繰り返してきた数々の迫害の全貌など日本にとって都合の悪い歴史的事実については不明な点も多い。

それをいいことに日本の右翼勢力は、「日本はアイヌに対し、アメリカ大陸やオーストラリア大陸などの先住民族が白人から受けてきたようなジェノサイドをしたことなど一切なかった」といった主張を繰り返している。

そんな中、三重県出身の幕末の探検家であり、後に開拓使の長官・次官に次ぐ開拓判官という役職に登用されて「北海道」という地名の名付け親にもなった松浦武四郎(まつうら たけしろう、1818 - 1888)が残した記録は、日本によるアイヌ民族への迫害の歴史の一部を暴露してくれる第一級の史料として貴重である。 松浦の記録は、当時、松前藩の虐政のもとで和人(日本人)が多くのアイヌ民族を強制連行し、強制労働をさせ、奴隷にし、強姦し、性病を含む病気を広め、虐殺していた歴史的事実を明らかにしている。これらの残虐行為の結果、多くのアイヌ民族が平和な家庭と生活環境を破壊され、子供を産めないようにされ、無残に命を落とし、人口がぐんぐん減っていった。

日本はアイヌ民族に対してこのような殺戮を繰り返し、人口を激減させ、かつてのコシャマインの戦い(1457年)やシャクシャインの戦い(1669年)、クナシリ・メナシの戦い(1789年)のような大規模な抵抗運動を起こせなくなるまで弱体化させた上で、満を持してアイヌモシリを植民地化したのである。松浦の記録はその残酷な虐殺史のほんの一部分に過ぎない。

このような悪魔の所業の数々はアイヌ民族に対する明らかなジェノサイド(民族浄化)であり、「アイヌ大虐殺」とでも通称して差し支えのないものである。





★ 北海道の有島農場を小作人へ解放した=有島武郎像を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )


有島 武郎(ありしま たけお、1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)は、日本の小説家。 学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。 1903年(明治36年)に渡米。ハバフォード大学大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。 ハーバード大学は1年足らずで退学する。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加する。 人道主義文学の代表的作家であり、社会主義に共鳴し、北海道の有島農場を小作人へ解放した。 最晩年は虚無的となり、人妻の婦人記者波多野秋子と軽井沢の別荘(浄月荘)で心中した。
長男・行光(ゆきみつ)は、俳優の森雅之。
代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜しみなく愛は奪ふ』がある。




北海道の開発を進めるため、国有未開地への入植を奨励する「北海道国有未開地処分法」が、1897年(明治30年)に施行された。有島家とニセコのかかわりは、有島武郎の父・武が、1898年(明治31年)、マッカリベツ原野(現・ニセコ町)貸下を出願したことにはじまる。一度は諸事情で返地したが、翌年、娘婿・山本直良名義で再出願し、貸下許可を受ける。以降、鉄道開通などによる入植者増加により、開墾は急速に進む。1908年(明治41年)、山本農場を武郎名義に改める。翌年、成耕検査に合格し、北海道庁から全地積を無償で付与されることとなる。1914年(大正3年)には、旧佐村農場を買収し、第二農場とする。武郎は自身の思想から農場所有に疑問を抱いており、父の没後の1922年(大正11年)、農場を小作人全員の共有として無償解放することを宣言した。それは、武郎の没する前年であった。

1924年(大正13年)、有限責任狩太共生農団信用利用組合が設立され、武郎が望んだ「相互扶助」の精神によって営農されることとなる。しかし、1949年(昭和24年)、占領軍による農地改革の対象となり、農団は解散し、農地はそれぞれの持ち分に従って私有地となった。後に、旧場主の恩に報いるために「有島謝恩会」が設立され、旧農場事務所に武郎や旧農場の資料を保存・展示した。しかし昭和32年(1957年)5月失火による火災により旧農場事務所とともにこの記念館は焼失。 幸いなことに収蔵品の殆どは無事搬出され、昭和38年(1963年)7月、有島謝恩会が中心となり、再建運動がおこり、募金により、1階がレンガ造、2階が木造の2階建ての有島記念館が再建された。やがて、管理上の問題や会館の老朽化に伴い、有島武郎生誕百年を記念して町による新しい記念館が建設されることになり、有島謝恩会が保存していた農場の資料の収蔵品が町建設の新記念館に寄託され、昭和53年(1978年)4月、その資料を継承し、設立されたのが有島記念館である。  ニセコは、武郎の作品にも登場している。小説『カインの末裔』は、狩太(現・ニセコ町)を舞台に、自然とも社会とも調和できず、本能のまま野生的に生きる農夫の姿を描いた作品である。この作品は、本格的写実小説として評価され、武郎の文壇での地位が確立することとなった。この他には、木田金次郎をモデルとした小説『生れ出づる悩み』、農場所有をめぐる父子の葛藤を描いた短編小説『親子』の舞台ともなっている。




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