吉川和夫ウエブ美術庵の月例新作絵画発表

吉川和夫(キッカワカズオ)は、
人生という旅で出会った、古今東西の人物の姿や感情を絵の中で表現しています。


<< 人物を描く >>





( 5月度の人物画 )

★ 同志社の新島襄像を描く ★

(同志社大学の創立者)



( 画用紙、エンピツ/パステル 6号 41x33cm )

新島襄(1843-90)は、1843(天保14)年、安中藩(群馬県)の江戸詰め下級武士の長男として生まれた。 彼は国家の改革者、日本の近代化の先導者にならんとして、21歳の1864(元治元)年、函館から国禁を犯して脱国し、翌年アメリカのボストンに着いた。 そこでキリスト教の洗礼を受けて神学を学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。 日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。

同志社大学設立
明治21年(1888年)、徳富蘇峰の協力により井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付ける。 特に土倉は新島のよき理解者、協力者であり、新島も土倉を頼りとした。板垣退助と新島を取り結んだのも自由民権運動のパトロンでもあった土倉であろうと推測される。 また明治21年(1888年)11月、徳富蘇峰は襄の求めに応じ「同志社大学設立の旨意」を添削し、自身の経営する民友社発行の『国民之友』をはじめ全国の主要な雑誌・新聞に掲載し、同志社大学設立に尽力した。


      新島襄旧宅(群馬県安中市)     新島襄海外渡航の地碑(函館市大町)










★ 侠客の国定忠治を描く ★

(国家権力と戦う民衆のヒーロー)



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )


生年: 文化7(1810)  没年: 嘉永3.12.21(1851.1.22) 江戸後期の侠客。
本名は長岡忠次郎。 父は上野国(群馬県)佐位郡国定村の中農与五左衛門。
17歳のとき人を殺し大前田英五郎の許に身を寄せ、 博徒の親分として売り出す。
博奕を業とするが,縄張りのためには武闘を辞せず、 子分を集めて私闘を繰り返した。
天保5(1834)年島村伊三郎を謀殺したことから関東取締出役に追われる身となり、以降一貫して長脇差、 鉄砲などで武装し、赤城山を根城としてお上と戦い、 関東通り者の典型となった。
逃亡、潜伏を繰り返すうち、同7年信州の義弟兆平を殺した波羅七を討つため大戸(群馬県)の関所を破ったり、同13年には博奕場を急襲した八州廻りの手先で二足の草鞋の三室勘助を、子分の板割浅太郎(忠治の甥)を使って殺すなど幕府のお膝元関八州の治安を脅かす不遜な存在となった。

逃亡、潜伏を支えたのは一家の子分の力もあるが、忠治をかくまった地域民衆の支持もあった。伝承によれば、同7年の飢饉(天保の大飢饉)に私財を投じて窮民に施したり、上州田部井村の名主西野目宇右衛門と語らい博奕のあがりで農業用水の磯沼をさらったりした。忠治は幕府にとって文武の敵となった。

嘉永3(1850)年夏、潜伏先の国定村で中気となり隣村(田部井村)の宇右衛門宅で療養中捕らえられ、江戸に送られ勘定奉行の取り調べの上、罪状が多すぎるため最も重い関所破りを適用され、磔と決まった。 磔に当たっては、刑場大戸まで威風堂々と道中行列を演技し14度まで槍を受けて衆目を驚かせた。 忠治の対極にいた幕吏(代官)羽倉簡堂は『劇盗忠二小伝』(『赤城録』)を著して、凡盗にあらずして劇盗と評した。

死後の忠治は,時代が閉塞状況となるたびに国家権力と戦う民衆のヒーローとして映画、芝居、講談、などを通して甦った。いまも、大衆演劇では忠治は文句ないヒーローである。 墓は養寿寺(群馬県佐波郡)と善応寺(伊勢崎市)にある。


(写真は、長野県野沢温泉村に再建された「忠治地蔵尊」)












※ (トップページに戻る )










( 4月度の人物画 )

★ 政治家・田中正造像を描く ★



( 画用紙、エンピツ/パステル 6号 41x33cm )

田中正造は、天保12(1841)年11月3日に栃木県佐野市小中町(旧旗川村)で、旗本六角家の名主である富蔵、サキ夫妻の長男として生まれた。名主になった正造は、不正をはたらく領主と対立するなどの苦難を乗り越え、明治10年代には自由民権運動家として、また栃木県議会の指導者となっていった。

 明治23年の第1回総選挙で衆議院議員に当選し、そのころ農作物や魚に大きな被害を与えていた足尾銅山の鉱毒問題を繰り返し国会でとりあげ、渡良瀬川沿いの人々を救うため努力した。しかし国の政策に改善が見られず、ついに明治34(1901)年12月10日、天皇に直訴した。  その後、鉱毒事件は社会問題にまで広まったが解決せず正造は悲痛なおもいで谷中村に住み、治水の名のもとに滅亡に追い込まれようとした谷中村を救おうと、農民とともに村の貯水池化に反対し再建に取り組んだが、大正2(1913)年9月4日に71歳10か月で世を去った。


(写真は、田中正造の生家)





★ 日本画家・田中一村像を描く ★
(中央画壇で認められず、無名のまま世を去った日本画家)



( 画用紙、エンピツ/パステル 6号 41x33cm )

田中 一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家である。栃木県栃木にて木彫家の父田中稲邨の長男として生まれ、東京市で育った、本名は田中孝。中央画壇とは一線を画し、1958年(昭和33年)千葉市での活動の後、50歳で奄美大島に単身移住。奄美の自然を愛し、亜熱帯の植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描き、独特の世界を作り上げた。 奄美市名瀬有屋38番地3には、最後の10日間を過ごした家が、田中一村終焉の家として移設保存されている。

経歴
・1926年 - 東京市港区の芝中学校を卒業する。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾らがいる。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨の名で登録された。
・1931年 - それまで描いていた南画と訣別。自らの心のままに描いた日本画『蕗の薹とメダカの図』は後援者には受け入れられなかった。
・1938年 - 親戚の川村幾三氏を頼って、千葉県の千葉寺町に移る。
・1947年 - 『白い花』が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。この時、初めて「一村」と名乗る。
・1948年 - 第20回青龍社展に『秋晴』『波』を出品。このうち『波』は入選するが、『秋晴』の落選に納得できず、『波』の入選を辞退。これを境に川端龍子と絶縁する。
・1953年 - 第9回日展(審査員に東山魁夷が参加)に、『秋林』を出品(履歴欄に「松林桂月の門人」を名乗る)するが落選。この年の12月25日、太平洋戦争敗戦後に米国統治下だった奄美大島が日本に返還される。
・1954年 - 第10回日展(審査員に加藤栄三、橋本明治が参加)に『杉』を出品するが落選。
・1955年 - 九州・四国・紀州をスケッチ旅行して回る。
・1957年 - 院展への出品を目指し、制作を開始する(この年、院展の監査台帳には出品の記録なし)。
・1958年 - 第43回院展に『岩戸村』『竹』を出品するが落選。中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意、家を売る。12月13日朝、奄美大島の名瀬港に到着。
・1959年 -国立療養所奄美和光園の官舎に移り込み、小笠原医師との共同生活を始める。
・1960年 -5月28日、千葉に一時帰郷する。翌年まで、岡田藤助の計らいで国立千葉療養所の所長官舎にアトリエと住居を与えられる。
・1961年 -3月31日、見合いをするが、のちに自ら破談とした。4月22日、所長官舎を引き上げ、奄美に戻る。12月、名瀬市有屋の一戸建て借家に移り、農業を始める。
・1962年 -名瀬市大熊にある 大島紬工場の染色工の仕事で生計を立てながら絵を描き始める。
・1965年 -3月末、姉・喜美子の危篤を知らされ、千葉に帰る。5月16日、喜美子逝去(享年60)。遺骨を抱いて奄美に戻る。12月5日、川村幾三逝去。
・1967年 -5年間働いた紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念する。
・1970年 -再び紬工場で働き始める。2年働いて個展の費用を捻出しようとしたが、結局個展の開催は実現せず、最後まで中央画壇に認められないままだった
・1970年 -再び紬工場で働き始める。2年働いて個展の費用を捻出しようとしたが、結局個展の開催は実現せず、最後まで中央画壇に認められないままだった。
・1972年 -紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念するが、腰痛や眩暈などで三度も昏倒する。
・1976年 -6月下旬、畑仕事中に脳卒中で倒れ、一週間入院。その後、名瀬市の老人福祉会館に通いリハビリテーションに励む。姉・房子と甥・宏が来訪、奄美で描かれた一村の作品を預かり、千葉に持ち帰る。
・1977年 -春、体調やや回復する。9月1日、和光園近くの畑の中の一軒家に移り、「御殿」と称する。同月11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、死去。69歳没。墓所は満福寺。戒名は真照孝道信士。


         「アダンの海辺」(左)          「奄美の海」(右)





※ (トップページに戻る )










( 3月度の人物画 )

★ 日本画家・横山大観像を描く ★



( 画用紙、エンピツ 6号 41x33cm )

横山大観は、明治元年(1868年)に水戸藩士・酒井捨彦、須恵の長男として水戸市下市しもいち三ノ町(城東2丁目8番)に生まれた。 明治21年に遠縁の横山家を継いだ。 画号の大観を名乗るようになったのは明治28年からである。

維新後の社会混乱の中、一家は県内を転々としたが、父が茨城県庁勤務となったことから水戸に戻り、大観は上市うわいち小学校(五軒小学校)に通ったが、明治11年、東京で地図製作専門の塾を経営する親戚の家に一家そろって身を寄せることになった。 大観は湯島小学校から東京府中学校(都立日比谷高校)へ進学。 さらに東京大学進学を目指して大学予備門を受験したが、受験内規に抵触して失格してしまった。 この時、東京美術学校(東京芸術大学)が開校されることを知り、父親の反対を押し切り、同校進学を目指した。

第1回入学生には下村観山をはじめ日本画の修行を積んだ者が多くいたが、未経験に等しい大観は、従来の私塾のように一流一派にとらわれることなく、狩野派や土佐派という各派の画技を、学校という美術教育機関において習得することができた。 さらに、東京美術学校の開校に準備段階から深く関与し、開校翌年に29歳という若さで校長となった岡倉天心とここで出会った。 岡倉天心は大観の生涯の師となる。

明治26年に東京美術学校を第一期生として卒業した大観は、その後、京都や奈良の古社寺に赴き、集中的に古美術品の模写に従事。 同29年に母校の助教授として迎えられ、教壇に立つことになる。 また一方で、日本絵画協会絵画共進会に毎回、「無我」「聴法ちょうほう」などの話題作を発表し、新進画家として注目を集めた。 しかし、明治31年の東京美術学校騒動に際し、非職を命じられた校長・天心に殉じて、橋本雅邦がほう、下村観山、菱田春草ひしだしゅんそうらと共に辞職し、同年、天心を中心とする日本美術院の創設に加わった。

日本美術院の主要活動は展覧会の開催であり、創立展に大観が出品した意欲作「屈原くつげん」は、当時の岡倉天心の苦境を想起させるものであり、様々な反響を呼んだ。 大観は天心の教えでもある、明治という時代に相応しい新日本画創造に励んだ。 なかでも、日本画の特質である輪郭線を全く用いず、色の濃淡によって表現する無線描法による作品は、西洋画にある光や空気を日本画で表現できないかという岡倉天心の示唆によるものである。 余白を残さず色を塗り重ねるため、画面は混濁した色に覆われ、暗くボンヤリしたことから、「朦朧体もうろうたい」という蔑称べっしょうで呼ばれ、支援の美術愛好家からも非難排斥された。 明治36年、苦境に陥った大観と春草は、天心の勧めでインドに渡る。 さらに明治37年には天心に同行して渡米し、各地で展覧会を開催して成功を収め、帰途にヨーロッパ各地を巡遊して世界の美術を目の当たりにして翌年の8月に帰国した。

日本美術院の経営難は続き、明治39年に規則を改め、絵画部を茨城県北端の大津村五浦(北茨城市)に移す。 大観、観山、春草、木村武山の4人は、天心の命に従い家族を伴って同地に移住した。 大観らは太平洋を臨む断崖に建つ美術院研究所で研鑽に励み、明治42年の第3回文展に大観が出品した「流燈りゅうとう」は、清らかな美しさを湛たたえた作品で、朦朧派の汚名を一挙に払拭ふっしょくするものであった。

しかし大正2年(1913年)の天心の死を大きな転機とし、大観は観山らと共に、翌3年に日本美術院を谷中に再興した。 以後、大観は再興美術院の中心として、第40回再興院展まで欠かさず出品を続けた。 この間、大正12年から隔年ごとに水戸市で開催された日本画の公募展にも毎回、水戸を訪れて審査に当たった。 昭和6年(1931年)に帝室技芸員となり、同12年には第1回文化勲章を受章した。 常に日本画の改革を目指し、昭和期には美術界のみならず社会的にも大きな影響を持ったが、昭和33年2月26日、台東区池之端の自宅において没した。

代表作には五浦時代の「流燈」をはじめ、伝統的画題を新解釈した「瀟湘八景しょうしょうはっけい」(第6回文展)、40メートルにも及ぶ長巻に水のドラマを描いた「生々流転せいせいるてん」(第10回再興院展)などがある。 昭和期には富士を多く描いたことで知られる。


「秩父霊峰春暁」


「夏之不二」足立美術館蔵






★ 元横綱・男女ノ川登三像を描く ★
(最晩年は、武蔵村山市の料亭「村山砦」で、下足番をしていた)



( 画用紙、エンピツ 6号 41x33cm )

男女ノ川登三(みなのがわ とうぞう)の基礎情報
四股名 =男女ノ川 登三、  本名= 坂田 供次
愛称= 動く仁王、昭和の雷電、界四天王、五大力士、三鷹の三奇人
生年月日=1903年9月17日 ~~ 没年月日=1971年1月20日(67歳没)

出身 茨城県筑波郡菅間村磯部(現・茨城県つくば市磯部)
身長 193cm 、体重 154kg
所属部屋 高砂部屋→佐渡ヶ嶽部屋→高砂部屋→佐渡ヶ嶽部屋
得意技 左四つ、割り出し、小手投げ
最高位 第34代横綱

生涯戦歴 294勝155敗1分34休(45場所)
幕内戦歴 247勝136敗1分33休(35場所)
優勝 幕内最高優勝2回
三段目優勝1回





廃業~晩年(引退後の職業遍歴)
引退後は一代年寄制度で年寄・男女ノ川を襲名して日本相撲協会理事にまで就任したが、自宅の庭に開墾した農園経営に熱中して協会に関心が無くなってから理事会に出席もせず、理事を辞任、協会自体も1945年6月場所を最後に廃業した。廃業後は農園経営の傍ら、中島飛行機会社の青年学校の教官を務め、その後日本勤労大衆党から第22回衆議院議員総選挙(東京都第2区)に出馬するも落選、その後行われた第24回衆議院議員総選挙にも出馬して落選した。二度の落選で農園、貯金の大半を失い、サラリーマンから、国際俳優・保険外交員・土建業・金融業・私立探偵も務めたが、私立探偵といっても身長193cmの巨体だったゆえに尾行もままならず、即座に廃業した。1953年時点では西村金融緑町支店に勤務していたが倒産。このように仕事が長続きしないことから間もなく妻子に捨てられてしまい、一人暮らしを始めた。その後千代田生命保険第二支社支社長補となった矢先に脳卒中で倒れた。すぐに知人によって発見されて一命を取り留めたものの、杖無しでは歩くこともままならないほど衰弱したため、東京・保谷の養老院尚和園に入所した。

しかし、男女ノ川が養老院へ入所したことだけで新聞ダネになるなど不遇な晩年を過ごした。雑誌のインタビューで男女ノ川は、記者に「酒を飲む金も無くてね…」と弱音を吐いていたところ、その記者が一升瓶を差し出すと満面の笑みを見せたほどである。あまりの境遇に、1965年には時津風や高砂の提案で日本相撲協会が募金によって援助したことさえあるが、その金も選挙に立候補する資金を作ろうとして競艇で負け、手元には1円も残らなかった。1968年12月25日には時津風の相撲協会葬が蔵前国技館で行われて男女ノ川も参列したが、前述のように脳卒中で倒れて以降は歩行時に杖が欠かさなくなったため、杖をついてフラフラに歩き、色あせた喪服で参列した大きな男女ノ川に、その場に居合わせた者は哀れみを憶えたという。1963年には還暦を迎えたが、脳卒中で歩行すら困難な状況でもあったため還暦土俵入りは実現できず、還暦土俵入りで用いられる赤い綱を受け取ったかも不明である。

最晩年は武蔵村山市の料亭「村山砦」に引き取られ下足番をしていた。この料亭は、相撲ファンの一人が経営していた店で歩くのもままならない元横綱のために一肌脱いだもので、男女ノ川は近くの社宅に住んで店の法被を着用し、終の棲家として生活を送っていたが、1971年1月20日に脳出血のため東京都内の病院で死去した。67歳没。店の関係者が男女ノ川の自宅を訪れたところ部屋の中で倒れていたという。男女ノ川の葬儀は、会葬者が30人足らずという寂しさであった。当時30代の長男がいたが、墓所は不明である。





※ (トップページに戻る )










( 2月度の人物画 )

★ 医師・細菌学者の野口英世像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

野口 英世(のぐち ひでよ、1876年(明治9年)11月9日 - 1928年(昭和3年)5月21日)は、日本の医師、細菌学者。栄典は、正五位・勲二等旭日重光章。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。キリスト者。34歳の時に結婚。

福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)出身。高等小学校を卒業して上京し、済生学舎(日本医科大学の前身)に通い、医術開業試験に合格して医師となった。渡米してペンシルベニア大学医学部の助手を経て、ロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補に三度名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。 妻はメリー・ロレッタ・ダージス。



2012年12月12日、私は、アフリカ大陸を旅行中に、 ガーナ国アクラにある「野口英世記念館」を訪問しました。 ガーナ国民に敬愛されている野口英世博士を偲びました。


なお、福島県猪苗代湖の湖畔にある「野口英世記念館」にも訪れたことがあります。






★ 洋画家・紙絵作家の高村智恵子像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年(明治19年)5月20日 - 1938年(昭和13年)10月5日、旧姓:長沼)は、日本の洋画家、紙絵作家。夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。夫の光太郎が彼女の死後に出版した詩集『智恵子抄』でも知られる。

  智恵子は東京に空が無いといふ、
  ほんとの空がみたいといふ。
     (中略)
  阿多多羅山の山の上に
  毎日出てゐる青い空が
  智恵子のほんとの空だといふ。


詩人・ 高村光太郎が『智恵子抄』の中で語った安達太良山頂から望む「ほんとの空」。 私は、「ほんとうの空」のある福島県二本松を訪れた事があります。 あの安達太良山を遠くに見る二本松市には、高村智恵子の生家と記念館があります。





※ (トップページに戻る )










( 1月度の人物画 )

★ 江戸時代の藩主・上杉鷹山像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

上杉鷹山(1751年9月9日~1822年4月2日)は、江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩9代藩主。 領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。

上杉鷹山の名声
鷹山による米沢藩の藩政は在命中から日本全国のおおよそ280藩の中でも 模範として幕府から称揚されていた、と小説家の綱淵謙錠は述べている。
特に寛政の改革の主導者であった老中松平定信からは高く評価され、 鷹山を将軍拝謁のうえ「国政別格」と表彰されるよう取り計らっている。 定信は後に鷹山死去の報を聞いたとき、「三百諸侯第一の賢君が亡くなられた」と言って涙したとされる。
明治以降、鷹山は修身の教科書で数多く取り上げられた。 また、内村鑑三が海外向けの日本人論として英語で著した『代表的日本人』でも、鷹山の生涯が紹介された。

第35代アメリカ合衆国大統領にジョン・F・ケネディが1961年に就任した際に、 日本の記者団に「日本でいちばん尊敬する人物」を聞かれたときすぐに鷹山の名前を挙げたという逸話がある。 1975年に綱淵謙錠と歴史家の奈良本辰也を迎えて放送されたNHKの歴史番組『日本史探訪』が紹介している。 それによると、ケネディは『代表的日本人』により鷹山を知り、政治家の理想像を見たのだとしている。 ただし、この逸話の真偽は不明である。米沢の歴史を研究する小野榮は、 ケネディが上杉鷹山を尊敬していると述べたというのは誤りで、鷹山を尊敬していると述べたのは、 第26代大統領セオドア・ルーズベルトであり、彼が鷹山を知ったのは、 新渡戸稲造が英文で出版した『武士道』を読んだからだと述べている。

ジョン・F・ケネディの長女で駐日アメリカ合衆国大使をつとめていたキャロライン・ケネディは、 山形県や米沢市の要請に応じて2014年9月に米沢市を訪れ、父親のケネディが鷹山を称賛していたことに触れるスピーチをした。





★ 小説家・劇作家・放送作家である井上ひさし像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

井上 ひさし(1934年11月16日 - 2010年4月9日)は、日本の小説家、劇作家、放送作家である。 文化功労者、日本藝術院会員。本名は井上 廈(いのうえ ひさし)。 日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した。 晩年は自身の蔵書を収蔵した遅筆堂文庫を造り、運営した。 先妻は西舘代志子。後妻のユリは元衆議院議員米原昶の娘。長女は元こまつ座主宰の井上都。三女は株式会社こまつ座社長の石川麻矢。

社会活動
1987年、故郷である山形県東置賜郡川西町に蔵書を寄贈し図書館「遅筆堂文庫」が開設される。 収蔵されている本には線などの書き込みがなされ、全ての本に目を通していることが実感できる。 また、同所にて「生活者大学校」を設立。顔の広さから数々の言論人の講座を開講した。農業関係の催しが多い。
1996年、岩手県一関市で3日間、作文教室を行い、この時の講義録が『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(後に新潮文庫)になる。
1998年には仙台文学館の初代館長、現大崎市の吉野作造記念館(後に作造兄弟の評伝劇「兄おとうと」2003年を書く)の名誉館長に就任する。




※ (トップページに戻る )










( 12月度の人物画 )

★ 第一回芥川賞の受賞者である石川達三像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

石川 達三(1905年(明治38年)7月2日 - 1985年(昭和60年)1月31日)は、 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)に生まれる。父が秋田県立横手中学校の英語科教員だった。

日本の小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、 『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。 戦後は、新聞小説や、社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。 『四十八歳の抵抗』など書名のいくつかは流行語にもなった。
『風にそよぐ葦』『人間の壁』など鋭い社会的問題意識を持ったルポルタージュ風小説で高い評価を受けている。 社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、 アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。芸術院会員。

作風
英文学者で評論家の中野好夫は、「田舎者で小市民」という性格は石川文学の底を貫いているとし、それは一部の読者を遠ざけてもいるが、一貫した強みになっていることも疑いない、と論じている。そして中野は石川が大正期に自由主義者として自己を形成し、軍国主義への抵抗を秘めていたとも考えている。
石川は多読をせず、先輩作家に師事して、その推薦によって文壇に出るという道を採らなかった。志賀直哉・宇野浩二・徳田秋声のような私小説には最初からはっきり異質感をもったという。多少とも影響を受けた作家として、アナトール・フランスとエミール・ゾラをあげている。松本清張と山崎豊子が対談の中で論じているようなストーリー構成力の豊富さという点は、この二人の外国作家に学んだとも考えられる。日本で系譜のようなものを求めるとすれば、菊池寛・山本有三・島木健作のようないわゆる社会派作家に近い。





★ 平安時代の歌人である小野小町像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

お米の「あきたこまち」に由来する ・・・ <小野小町の生誕地に纏わる伝承>
生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。 ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、 平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵(山形県酒田市)に移しており、その周辺とも考えられる。

小野 小町(生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。 小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、 後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、 後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。

江戸時代の浮世絵師・鈴木晴信が描いた小野小町像


<世界三大美人>
一般にクレオパトラ、楊貴妃と共に「世界三大美人」(または世界三大美女)の一人に数えられている。 明治中期、日本国内でナショナリズムが高まる中のメディアに登場するようになったのが始まりとされている。

私が描いたクレオパトラ像と楊貴妃像


<小野小町が由来になったもの>
*こまち - 東北・秋田新幹線の列車。
*秋田県湯沢市小野出身という説に由来。あきたこまち - 1984年に秋田県の奨励品種に採用された日本のイネの栽培品種の1つ。
*こまちスタジアム - 秋田県秋田市新屋(通称向浜)にある野球場の愛称。正式名称は秋田県立野球場。施設は秋田県が所有し、県の外郭団体である秋田県総合公社が指定管理者として運営管理を行っている。
*こまち農業協同組合 - 小野小町の出生地とされる秋田県湯沢市に本所をおく農業協同組合。愛称はJAこまち。湯沢市、東成瀬村と羽後町の一部を営業エリアとする。東成瀬村から指定金融機関とされている。
*秋田銀行こまち支店 - 秋田県秋田市に本店をおく地方銀行の秋田銀行が開設しているインターネット支店の名称。
*小町まつり - 秋田県湯沢市の祭り。毎年6月の第2日曜日開催。
*小町堂 - 秋田県湯沢市の建造物。観光拠点。




※ (トップページに戻る )
















inserted by FC2 system