吉川和夫ウエブ美術庵の月例新作絵画発表

吉川和夫(キッカワカズオ)は、
人生という旅で出会った、古今東西の人物の姿や感情を絵の中で表現しています。


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( 8月度の人物画 )

★ アイヌ民族の英傑、シャクシャイン像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )


シャクシャイン(沙牟奢允、アイヌ語:サクサイヌ saksaynu または サムクサイヌ Samkusaynu、 1606年(慶長11年)? - 1669年11月16日(寛文9年10月23日))は、江戸時代前期のシベチャリ (北海道日高管内新ひだか町静内)のアイヌ一部族の首長・惣乙名。

経歴
シャクシャインは、シベチャリ(現在の新ひだか町)以南の日高地方及びそれ以東の集団であるメナシクルの惣乙名であった。 メナシクルは、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域の領分を巡って遅くとも1648年から対立していた。 メナシクルの先代の惣乙名であるカモクタインはシュムクルの惣乙名・オニビシとの1653年の抗争により殺害され、小使であったシャクシャインが惣乙名となった。

シャクシャインはシベチャリ川下流東岸、シベチャリのチャシ(砦)を拠点としていた(現・新ひだか町静内地区)。 オニビシはシベチャリ川上流西岸のハエのチャシを拠点としていた(現日高町門別地区)。 両者は松前藩の仲介によって講和するが寛文年間(1661~1673年)に対立が再燃し1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害。 報復のため、ハエは松前藩に武器の援助を申し出るが拒否される。さらに使者が帰路に急病死すると、 使者は松前に毒殺されたという風説が広り、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめるものであった。

シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌへ松前藩への戦いを呼びかけた。 1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした。これがシャクシャインの戦いである。 蜂起は各地で発生し砂金掘りや交易に訪れた船舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。 シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末には現在の山越郡長万部町のクンヌイまで攻め進んだ。 松前藩から急報を受けた徳川幕府は東北諸藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じ実行された。

クンヌイでの戦闘は8月上旬頃まで続くが、シャクシャイン勢が和人側の妨害により渡島半島のアイヌと連携できなかったのに対し、 松前藩は幕府や東北諸藩の支援を受け、鉄砲を多数装備していた。 これにより戦いはシャクシャイン側の劣勢となり、シャクシャイン軍はクンヌイからの敗退を余儀なくされた。 シャクシャインは10月23日(11月16日)に現在の新冠町にあたるピポクの松前藩陣営で謀殺され、 指導者を失った蜂起者たちは松前軍に降伏した。







※アイヌ民族に対する暴虐






松浦武四郎(1818~1888)が記録した日本(和人)によるアイヌ大虐殺
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アイヌ民族は元々文字を持たなかった民族であるため、アイヌ民族の歴史に関する史料はどうしても日本側のものに偏らざるを得ず、したがって日本がアイヌ民族に対して繰り返してきた数々の迫害の全貌など日本にとって都合の悪い歴史的事実については不明な点も多い。

それをいいことに日本の右翼勢力は、「日本はアイヌに対し、アメリカ大陸やオーストラリア大陸などの先住民族が白人から受けてきたようなジェノサイドをしたことなど一切なかった」といった主張を繰り返している。

そんな中、三重県出身の幕末の探検家であり、後に開拓使の長官・次官に次ぐ開拓判官という役職に登用されて「北海道」という地名の名付け親にもなった松浦武四郎(まつうら たけしろう、1818 - 1888)が残した記録は、日本によるアイヌ民族への迫害の歴史の一部を暴露してくれる第一級の史料として貴重である。 松浦の記録は、当時、松前藩の虐政のもとで和人(日本人)が多くのアイヌ民族を強制連行し、強制労働をさせ、奴隷にし、強姦し、性病を含む病気を広め、虐殺していた歴史的事実を明らかにしている。これらの残虐行為の結果、多くのアイヌ民族が平和な家庭と生活環境を破壊され、子供を産めないようにされ、無残に命を落とし、人口がぐんぐん減っていった。

日本はアイヌ民族に対してこのような殺戮を繰り返し、人口を激減させ、かつてのコシャマインの戦い(1457年)やシャクシャインの戦い(1669年)、クナシリ・メナシの戦い(1789年)のような大規模な抵抗運動を起こせなくなるまで弱体化させた上で、満を持してアイヌモシリを植民地化したのである。松浦の記録はその残酷な虐殺史のほんの一部分に過ぎない。

このような悪魔の所業の数々はアイヌ民族に対する明らかなジェノサイド(民族浄化)であり、「アイヌ大虐殺」とでも通称して差し支えのないものである。





★ 北海道の有島農場を小作人へ解放した=有島武郎像を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )


有島 武郎(ありしま たけお、1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)は、日本の小説家。 学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。 1903年(明治36年)に渡米。ハバフォード大学大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。 ハーバード大学は1年足らずで退学する。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加する。 人道主義文学の代表的作家であり、社会主義に共鳴し、北海道の有島農場を小作人へ解放した。 最晩年は虚無的となり、人妻の婦人記者波多野秋子と軽井沢の別荘(浄月荘)で心中した。
長男・行光(ゆきみつ)は、俳優の森雅之。
代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜しみなく愛は奪ふ』がある。




北海道の開発を進めるため、国有未開地への入植を奨励する「北海道国有未開地処分法」が、1897年(明治30年)に施行された。有島家とニセコのかかわりは、有島武郎の父・武が、1898年(明治31年)、マッカリベツ原野(現・ニセコ町)貸下を出願したことにはじまる。一度は諸事情で返地したが、翌年、娘婿・山本直良名義で再出願し、貸下許可を受ける。以降、鉄道開通などによる入植者増加により、開墾は急速に進む。1908年(明治41年)、山本農場を武郎名義に改める。翌年、成耕検査に合格し、北海道庁から全地積を無償で付与されることとなる。1914年(大正3年)には、旧佐村農場を買収し、第二農場とする。武郎は自身の思想から農場所有に疑問を抱いており、父の没後の1922年(大正11年)、農場を小作人全員の共有として無償解放することを宣言した。それは、武郎の没する前年であった。

1924年(大正13年)、有限責任狩太共生農団信用利用組合が設立され、武郎が望んだ「相互扶助」の精神によって営農されることとなる。しかし、1949年(昭和24年)、占領軍による農地改革の対象となり、農団は解散し、農地はそれぞれの持ち分に従って私有地となった。後に、旧場主の恩に報いるために「有島謝恩会」が設立され、旧農場事務所に武郎や旧農場の資料を保存・展示した。しかし昭和32年(1957年)5月失火による火災により旧農場事務所とともにこの記念館は焼失。 幸いなことに収蔵品の殆どは無事搬出され、昭和38年(1963年)7月、有島謝恩会が中心となり、再建運動がおこり、募金により、1階がレンガ造、2階が木造の2階建ての有島記念館が再建された。やがて、管理上の問題や会館の老朽化に伴い、有島武郎生誕百年を記念して町による新しい記念館が建設されることになり、有島謝恩会が保存していた農場の資料の収蔵品が町建設の新記念館に寄託され、昭和53年(1978年)4月、その資料を継承し、設立されたのが有島記念館である。  ニセコは、武郎の作品にも登場している。小説『カインの末裔』は、狩太(現・ニセコ町)を舞台に、自然とも社会とも調和できず、本能のまま野生的に生きる農夫の姿を描いた作品である。この作品は、本格的写実小説として評価され、武郎の文壇での地位が確立することとなった。この他には、木田金次郎をモデルとした小説『生れ出づる悩み』、農場所有をめぐる父子の葛藤を描いた短編小説『親子』の舞台ともなっている。




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( 7月度の人物画 )

★ 天才画家ラファエロの自画像を模写する ★


左が本物(油彩)           右が模写(水彩/パステル)

( 模写は 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )


ラファエロ・サンティ(伊: Raffaello Santi、 1483年4月6日 - 1520年4月6日)は、 盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家。一般的には単にラファエロと呼ばれ、 日本ではラファエッロ、ラファエルロなどという表記ゆれが見られる。 ラファエロの作品はその明確さと分かりやすい構成とともに、 雄大な人間性を謳う新プラトン主義を美術作品に昇華したとして高く評価されており、 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの三大巨匠といわれている。

ラファエロはレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロとはやや歳が離れており、 この二人や師ペルジーノから多くを学び、その結果、盛期ルネサンスの集大成とも呼べる絵画作品の傑作を数々描いている。 またペルージアでの修行時代から画家としての才能は飛び抜けており、 若くして独立し芸術の都フィレンツェでの有意義な滞在を送った後、 25歳から死去する37歳まで、教皇ユリウス2世からローマに呼ばれ、ヴァチカンの宮廷画家として栄華を極めた。 近代からはその調和に富んだ古典的様式から、古典主義絵画(西欧アカデミズム)の祖として見なされた。



☆ラファエロの代表作「大公の生母」





☆ラファエロの代表作「三美神」





☆ラファエロの代表作「アテナイの学堂」






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( 6月度の人物画 )

★ 天才美術家ミケランジェロの自画像を模写する ★


左が本物(油彩)           右が模写(水彩/パステル)

( 模写は 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )


ミケランジェロはイタリア国ルネサンス期の3大巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロと並ぶ天才芸術家のひとり。 1475年3月6日、イタリア中部のカブレーゼに生まれ、すぐに石工の家へ里子に出される。6歳のとき母死去。 画家ギルラングイオの工房を経て、メディチ家の文化・芸術サークルに触れ、彫刻を学ぶ。 1505年、教皇ユリウス2世に呼ばれてローマへ。教皇の依頼した墓廟の制作が以後40年にわたって彼を苦しめる。 1512年にはシステイーナ礼拝堂の天井画を、1541年には同礼拝堂の壁面に『最後の審判』を完成。 晩年にはサン・ヒエトロ大聖堂の設計と建造を組当した。また、人生の苦しみと不正への憤りを 詩や書簡に書き残している。1564年2月18日、ローマにて死去。享年88歳。



☆ミケランジェロの代表作「ピエタ」を鑑賞する

(ヴァティカン国のピエトロ寺院にあります)




☆ミケランジェロの代表作「ダビデ像」を鑑賞する

(イタリア国フィレンツエのアカデミア美術館のあります)




☆ミケランジェロの代表作「最後の審判」を鑑賞する

(ヴァティカン国のシスティーナ礼拝堂にあります)

備考:私は、上記の作品3点を現地で、本物を鑑賞し感動しました。




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( 5月度の人物画 )

★ 画家レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像を模写する ★


左が本物(油彩)           右が模写(水彩/パステル)

(本物は、イタリア国のトリノ王宮図書館が所蔵している)

( 模写は 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )


レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネサンス期を代表する芸術家であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人物といい、 日本の美術史では「万能の天才」といわれている。史上最高の呼び声高い画家の一人であるとともに、人類史上もっとも多才の呼び声も高い人物である。

1452年4月15日、レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツェ共和国から、約20km程、離れたフィレンツ郊外のヴィンチ村において、 有能な公証人であったセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農夫の娘であったカテリーナとの間に非嫡出子として誕生した。

1466年頃、レオナルドは、当時、フィレンツェにおいて、最も優れた工房の1つを主宰していたフィレンツェの画家で、 彫刻家でもあったヴェロッキオが、運営する工房に入門した。

画家としてのキャリア初期には、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕えている。その後ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアなどで活動し、 晩年はフランス王フランソワ1世に下賜されたフランスの邸宅で過ごした。

レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高い。 とくに、その絵画作品中もっとも有名でもっとも多くのパロディ画が制作された肖像画『モナ・リザ』と、 もっとも多くの複製画や模写が描かれた宗教画『最後の晩餐』に比肩しうる絵画作品は、 ミケランジェロ・ブオナローティが描いた『アダムの創造』以外には存在しないといわれている。 現存するレオナルドの絵画作品は15点程度と言われており決して多くはない。 これはレオナルドが完全主義者で何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法の実験に時間をかけていたこと、 一つの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる。 それでもなお、絵画作品、レオナルドが残したドローイングや科学に関するイラストが描かれた手稿、絵画に対する信念などは後世の芸術家へ多大な影響を与えた。 このようなレオナルドに匹敵する才能の持ち主だとされたのは、同時代人でレオナルドよりも20歳余り年少のミケランジェロ・ブオナローティだけであった。

レオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている。ヘリコプターや戦車の概念化、太陽エネルギーや計算機の理論、 二重船殻構造の研究、さらには初歩のプレートテクトニクス理論も理解していた。 レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが、 自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした。 また、解剖学、土木工学、光学、流体力学の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、 後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった。 また、発生学の研究も行っていた。更に眼を調べることで光と眼鏡の原理も解明していた。



☆レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作「モナ・リザ」を描く(模写)

左が本物(油彩)                右が模写(油彩)

( 本物は、フランス国パリ市のルーブル美術館が所蔵している )






☆レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作「受胎告知」を鑑賞する

(イラリア国フィランツエ市、ウフィツェ美術館が所蔵)




☆レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作「最後の晩餐」修復前を鑑賞する

(イラリア国ミラノ市、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院が所蔵)

備考:私は、上記の作品4点を現地で、本物を鑑賞し感動しました。




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