吉川和夫ウエブ美術庵の月例新作絵画発表

吉川和夫(キッカワカズオ)は、
人生という旅で出会った、古今東西の人物の姿や感情を絵の中で表現しています。


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( 4月度の人物画 )

★ 画家パブロ・ピカソの自画像を模写する ★


左が本物(油彩)           右が模写(水彩)

( 模写は 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )


パブロ・ピカソ(Pablo Picasso [ˈpaβlo piˈkaso], 1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、 スペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。 ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者として知られる。 生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、 最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。



写真は、画家パブロ・ピカソです。


☆パブロ・ピカソの自画像を描く(模写)

左が本物(油彩)                右が模写(水彩)

( 模写は 画用紙 水彩/パステル 6号 33x41cm )



次の絵画は、パブロ・ピカソの代表的な作品「ゲルニカ」です。
この絵画は、スペイン国マドリッド市のソフィア王妃芸術センターにあります。
私は、この絵画を、1996年6月10日、このソフィア王妃芸術センターで、じっくりと鑑賞しました。


『ゲルニカ』(Guernica)は、スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画である。 ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。 20世紀を象徴する絵画であるとされ、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画であるとされることもある。 発表当初の評価は高くなかったが、やがて反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられた。 ゲルニカは「偉大な神が降りた」とも言われる。

1995年8月18日、私はスペイン国のゲルニカ村を見学しました。








画家ピカソのイデオロギー
左翼・反体制思想

第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。フランスの2度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。スペイン内戦では、ピカソはフランコとファシズムに対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった。

ピカソは青年時代にも、カタルーニャの独立運動のメンバーたちと付き合ったが、結局運動には参加しなかったという経歴がある。

スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカがフランコの依頼によりドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をモチーフに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開された。ピカソはのちにパリを占領したドイツ国防軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、同作品の絵葉書を土産として持たせたという。

スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカのニューヨーク近代美術館に預けられていたが、ピカソとフランコがともに没し、王政復古しスペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定によりスペイン国民に返された。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。 1940年にパリがナチス・ドイツに占領され、親独派政権(ヴィシー政権)が成立した後も、ピカソはパリにとどまった。このことが戦後にピカソの名声を高める要因になった(多くの芸術家たちが当時アメリカ合衆国に移住していた)。しかし本人はただ面倒だったからだとのちに述べている。ヴィシー政権はピカソが絵を公開することを禁じたため、ひたすらアトリエで制作して過ごした。ヴィシー政権は資源不足を理由にブロンズ塑像の制作を禁止したが、レジスタンス(地下抵抗組織)が密かにピカソに材料を提供したので、制作を続けることができた。

フランス共産党員
1944年、ピカソは友人らの勧めはあったにせよ、自らの意志でフランス共産党に入党し、死ぬまで党員であり続けた。何かとピカソの共産主義思想を否定したがる人に対し「自分が共産主義者で自分の絵は共産主義者の絵」と言い返したエピソードは有名である。しかし、友人のルイ・アラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、幾多のトラブルを経験した。1950年にスターリン平和賞を受賞し、1962年にレーニン平和賞を受賞した。





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( 3月度の人物画 )

★ 画家ゴッホの自画像を模写する ★


左が本物(油彩)            右が模写(油彩)

( 模写は キャンバス、油彩 8号 460x330mm )


ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、ポスト印象派の画家。
1853年オランダ南部のフロート・ズンデルトにて牧師の息子として生まれる。1869年グーピル画廊ハーグ支店に就職。76年に解雇され、教師、書店員と職を転々とする。1877年に牧師を志すも、神学部の受験に挫折。1878年、ベルギー・ブリュッセルの伝道師養成学校に入学し、ボリナージュの炭坑町で伝道活動を始める。1880年に画家となることを決意し、オランダに帰郷。1881〜85年、《ジャガイモを食べる人々》(1885)など、農民の暮らしを描いた修行期間を経て、1886年パリに渡る。

 フェルナン・コルモンの画塾に通ったゴッホは、アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックやポール・ゴーギャンらと出会い、また、印象派から台頭し始めたジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった新印象派の作品に触れる。当時流行していた日本趣味にも関心を寄せ、浮世絵版画を収集。歌川広重の《亀戸梅屋舗》(1857)や渓斎英泉の《雲龍打掛の花魁》(1830-44)などを模写したほか、1887年にはカフェ「ル・タンブラン」で浮世絵展を開いた。この頃知り合った絵具屋のジュリアン・ペレ・タンギーをモデルとした《タンギー爺さんの肖像》(1887)の背景にも浮世絵が描き込まれている。

1888年、静養のため日本の風景に似た南フランス・アルルへ移住。芸術家たちとの共同アトリエ「黄色い家」を借り、唯一賛同したゴーギャンとの生活を送る。ゴッホはこの地で、鮮やかな色彩と力強い筆致、アドルフ・モンティセリに影響が見られる厚塗りによる手法を確立し、《ひまわり》《夜のカフェテラス》《種まく人》(いずれも1888)などの代表作を生み出した。しかし、ゴーギャンとの口論の末、ゴッホが自ら耳の一部を切り落とす事件を引き起こし、短い共同生活が終わる。1889年サン・レミの精神病療養所に入院。発作を患いながらも、《星月夜》(1889)などを手がけ、この頃から作品内に渦を巻く描写が見られるようになる。1890年5月、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズを次の静養地に選んで移住。療養の傍ら制作を続けたが、同年7月27日にピストルで自殺を図ったとみられ、その2日後に自身の画業を支えてきた弟・テオに看取られて死去した。


☆ゴッホの自画像を描く(模写)

左が本物(油彩)                  右が模写(水彩)

( 模写は 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )



私は、2007年7月1日、フランス国アルル地方にある画家ゴッホの足跡を訪ね歩きました。


私は、1995年8月16日、フランス国オーヴェールのゴッホ終焉の地に行きました。





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( 2月度の人物画 )

★ 画家ゴーギャンの自画像を模写する ★


左が本物(油彩)             右が模写(水彩)

    ( 模写は 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


ポール・ゴーギャンは、1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父クローヴィス・ゴーギャンは、共和主義者のジャーナリストであり母アリーヌ・マリア・シャザルの母(祖母)は、初期社会主義の主唱者でペルー人の父を持つフローラ・トリスタンであった。1851年、ナポレオン3世のクーデターで、共和主義者であった父クローヴィスは職を失い、一家は、パリを離れてペルーに向かった。しかし、父クローヴィスは、航海中に急死し残されたポールとその母と姉は、リマで、ポールの叔父を頼って、4年間を過ごした。

 1867年7月7日、母が亡くなったが、ポールは、数か月後に姉からの知らせをインドで受け取るまで知らなかった。その後、1868年、兵役でフランス海軍に入隊し、1870年まで、2年間勤めた。1871年、23歳の時、パリに戻ると、母の富裕な交際相手ギュスターヴ・アローザの口利きにより、パリ証券取引所での職を得、株式仲買人として働くようになった。その後11年間にわたり、彼は、実業家として成功し、1879年には、株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を得ていた。

 株式仲買人としての仕事を始めた1873年頃から、ゴーギャンは、余暇に絵を描くようになった。彼が住むパリ9区には、印象派の画家たちが集まるカフェも多く、ゴーギャンは、画廊を訪れたり、新興の画家たちの作品を購入したりしカミーユ・ピサロと知り合い、日曜日にはピサロの家を訪れて庭で一緒に絵を描いたりしていた。ピサロは、彼を、他の様々な画家たちにも紹介した。
 1888年、ゴーギャンは、南仏アルルに移っていたゴッホの「黄色い家」で、9週間にわたる共同生活を送った。しかし、2人の関係は次第に悪化し、ゴーギャンはここを去ることとした。12月23日の夜、ゴッホが耳を切る事件が発生した。ゴーギャンの後年の回想によると、ゴッホがゴーギャンに対しカミソリを持って向かってくるという出来事があり、同じ日の夜、ゴッホが左耳を切り、これを新聞に包んでラシェルという名の娼婦に手渡したのだという。翌日、ゴッホはアルルの病院に送られ、ゴーギャンはアルルを去った。2人はその後二度と会うことはなかったが、手紙のやり取りは続け、ゴーギャンは、1890年、アントウェルペンにアトリエを設けようという提案までしている。

 ゴーギャンは、タヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイという独自の共同体やオロ 神についての解説に惹きつけられた。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作した。その最初が『アレオイの種』であり、オロ神の現世での妻ヴァイラウマティを表している。

 ゴーギャンはタヒチの文化に強く惹かれ1891年と1895年、2回タヒチに住み着いている。1回目のタヒチでの作品の評価は低く、作品も2点しか売れなかった。そのため生活費にも困り1893年に国費の旅費で帰国している。しかし、パリでのゴーギャン批判に耐えきれず再びタヒチへ逃避するようにやってくると徐々に作品も売れ始め批評も肯定的となり注文も安定してきた。生活にも余裕が出来てきたのだが自身の健康状態(梅毒と言われている)が悪くなり、「我々はどこから来たのか」を描き終わるころには多額の借金と古傷の足の痛みまで重なりモルヒネに頼るつらい日々を送っていた。そして、1903年5月8日近くの住民がゴーギャンが亡くなっているのを発見した。死因については自殺説もあるが今日でも不明である。

☆ゴーギャンの自画像を描く(模写)

左が本物(油彩)                  右が模写(水彩)

       ( 模写は  画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )





2016年7月14日、米国ボストン美術館で、ポール・ゴーギャンの作品と三度目の対面をしました。
その作品の題名は「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」です。





私は、2010年2月1日~15日、画家ゴーギャンの終焉の地・仏領タヒチで、彼の足跡を偲びました。









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