吉川和夫ウエブ美術庵の月例新作絵画発表

吉川和夫(キッカワカズオ)は、
人生という旅で出会った、古今東西の人物の姿や感情を絵の中で表現しています。


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( 9月度の人物画 )

★ 国民的人気歌手の「美空ひばり像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

美空ひばり

◇ 本名:加藤和枝
◇ 生年月日:昭和12年5月29日
◇ 出身地:神奈川県横浜市磯子区
昭和24年、「河童ブギウギ」でレコードデビュー。 以後、1500を超える曲を録音し、「悲しき口笛」、「東京キッド」、「リンゴ追分」、「港町十三番地」、「柔」、「悲しい酒」、「おまえに惚れた」、「愛燦燦(あいさんさん)」、「みだれ髪」、「川の流れのように」などなど、放ったヒット曲は数知れず。平成元年6月24日の死去まで、40有余年にわたって日本歌謡界の第一線で活躍した。
没後の平成元年7月、真摯な精進で歌謡曲を通じて国民に夢と希望を与えた功績が認められ、女性初の国民栄誉賞を受賞。








★ 徳川家康の政治顧問イギリス人「三浦按針像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

三浦按針 =(本名ウイリアム・アダムズ(William Adams)

没年:元和6.4.24(1620.5.26)
生年:1564.9.24
安土桃山・江戸初期,日本に来た最初のイギリス人で,徳川家康の政治顧問。本名ウイリアム・アダムズ(William Adams)。ケント州ジリンガムに生まれ,造船所の徒弟を経て海軍に入る。1598年オランダのロッテルダム会社の東洋派遣艦隊のリーフデ号の航海士としてオランダ最初の太平洋回りアジア渡航に参加,慶長5(1600)年に豊後(大分県)の臼杵に近い佐志生に漂着,大坂に送られて徳川家康と会見する。
同船のオランダ人ヤン・ヨーステンと共に家康に信頼され,相模国三浦郡逸見村(横須賀市)で200石と江戸日本橋に邸宅を与えられた。日本名を名乗り家康の外交顧問を務めるとともに幾何学,地理学,造船技術など西洋諸学を教えた。 その建造した2隻のヨーロッパ式帆船のうち1隻は上総(千葉県)に漂着したフィリピンの前総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがメキシコに帰るときに使用され太平洋を往復した。
慶長16(1611)年に彼がジャワ在留のイギリス人あてに書いた日本事情を知らせる手紙は,当時,ジャワのバンタムに商館をおいていたイギリス東インド会社を刺激し,同18年,ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を持って平戸へ来航する機縁となった。アダムズは駿府でセーリスを家康に会わせ,貿易許可の朱印状と平戸に商館を置くことを認めさせた。アダムズ自身,イギリス東インド会社と契約を結んで俸給を得た。
彼はセーリスの帰国の際,日本を離れる許可を得たが,結局そのままとどまった。日本人の妻とのあいだに2子がある。自ら朱印船貿易家としても活躍し,シャム,アンナン,トンキンに渡航もしている。徳川秀忠の代になると幕府との関係が薄れ,平戸で病没した。夫婦を祭った按針塚が領地の横須賀市に現存する。『大日本史料』12の33(元和6年4月24日条)に三浦按針についての史料が網羅されている。


横須賀市西逸見町の「塚山公園」には、
按針夫妻の慰霊のために作られた供養塔があり、
安針塚(按針塚)」「三浦按針墓」と呼ばれる。











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( 8月度の人物画 )

★ 国際的に評価の高い画家「葛飾北斎像」を描く ★


私が描いた浮世絵師・葛飾北斎の自画像


葛飾北斎

代表作に『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも彼の卓越した描写力を見ることができる。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり、難を逃れている。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。



私が描いた浮世絵師・葛飾北斎の自画像


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

葛飾北斎の作品










★ 百歳まで生きた美の旅人「堀文子像」を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

堀文子氏の来歴

永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府立第五高等女学校(現・都立富士高等学校)、女子美術専門学校師範科日本画部(現・女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)を卒業。府立第五高等女学校時代に自宅近くで二・二六事件に遭遇した。 女子美術専門学校在学中の1938年に第2回新美術人協会展入選。1940年に女子美術専門学校を卒業し新美術人協会会員。『キンダーブック』(フレーベル館)、『ふたば』などで挿画や装幀を描き生計を立てる。 29歳の時に外交官の箕輪三郎と結婚するも43歳のときに死別。

1961年から1963年にかけ世界放浪の旅へ出る。旅の中でアンフォルメル、シュルレアリスムの影響を離れ、日本画の持つ色彩や顔料の美しさに回帰する。 1967年に神奈川県大磯に転居。1974年創画会の結成に参画。

1974年に多摩美術大学日本画科教授に就任。その後、多摩美術大学客員教授として日本画の指導を行う。1999年に多摩美術大学客員教授を退任。 1981年に軽井沢にアトリエを構える。1987年にイタリアアレッツォにアトリエを構える。1992年にアレッツオ市で堀文子個展を開催。1995年にアマゾン川、マヤ遺跡・インカ遺跡へスケッチ旅行。1999年に創画会を退会。 2011年に女子美術大学より名誉博士の称号を得る。

2000年、82歳の時に幻の高山植物ブルーポピーを求め、ヒマラヤ山脈の高地を踏破(「アーティストたちの挑戦 ヒマラヤ 高き峰をもとめて 日本画家 堀文子」(NHK収録/放送、2000年)。2001年に解離性動脈瘤で倒れて以降、長期間の取材旅行に出かけられなくなったことから微生物に着目し、海中に生きる命をモチーフとする作品を発表。これらの作品は画文集や個展で発表された。

自然の中に存在する命や花鳥をモチーフとする作品を多く制作し「花の画家」と呼ばれた。専門の日本画の他、装幀、随筆でも多くの作品を発表した。神奈川県大磯町に在住していた(2012年時点)。 2019年2月5日午前0時56分、心不全のため平塚市内の病院で死去。100歳没。


主な著作
*楽園幻想 (吉行和子 文 講談社 1997年5月)
*ホルトの木の下で(幻戯書房、2007年)
*対談集 ―堀文子 粋人に会う―(清流出版、2009年)
*ひとりで生きる 堀文子の言葉 (求龍堂 「生きる言葉」シリーズ 2010年2月)
*堀文子美の旅人 画家のまなざしと心を追って 飯島幸永写真集 (実業之日本社 2010年4月)
*老いて、若返る 人生、90歳からが面白い (日野原重明共著 小学館 2011年4月)


堀文子の作品

















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( 7月度の人物画 )

★ 義民伝説の佐倉惣五郎像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

佐倉 惣五郎(生年不詳 – 承応2年8月3日(1653年9月24日))は、 江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物。 下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎。通称は宗吾(惣吾とも)とされる。
領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。 代表的な義民として名高いが、史実として確認できることは少ない。 惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。

<現実の思想・運動への影響>

福沢諭吉は「余輩の聞くところにて、人民の権義を主張し正理を唱えて政府に迫り、その命を棄てて終わりをよくし、世界中に対して恥ずることなかるべき者は、古来ただ一名の佐倉宗五郎あるのみ。(中略)もって世人の亀鑑(きかん)に供すべし。」(「学問のすゝめ」七編・国民の職分を論ず)と、史上最高の「義民」として称えています。

また、日本初の「公害」事件として名高い足尾銅山鉱毒事件で、国と戦い続けた田中正造は、佐倉宗吾を自らの行動指針としたといわれます。足尾銅山の汚染を国会等で訴えるも取り合われず、川俣事件などの弾圧事件も起きて手をこまねく正造に、毎日新聞の主筆石山半山は「貴方はただ佐倉惣五郎たるのみ」貴方は佐倉宗吾のように行動するしかないよ、と促します。正造は国会議員の職を辞し、1901年明治天皇の馬車を待ち受けて直訴状を手に駆け寄りました。渡良瀬流域の民を救うための決死の行動は、まさに印旛沼流域の民を救うため直訴した佐倉宗吾とかぶります。憲兵に取り押さえられて天皇への直訴はかなわなかったものの、この顛末が新聞で大々的に取上げられ、世論を喚起することとなりました。

このように明治初期の自由民権思想と結びつき影響を与えた佐倉宗吾ですが、長らく伝説・創作上の人物とされ、実在を疑問視されてきました。福沢諭吉自身も「ただし宗五郎の伝は俗間に伝わる草紙の類のみにて、いまだその詳(つまび)らかなる正史を得ず。」と、実在の証拠がないことを記しています。江戸期の「地蔵堂通夜物語」は惣五郎の死霊が僧を通じて物語るという怪談仕立ての伽物語ですし、史実史料の存在が確認されなかったためです。科学重視の明治期には実在の否定説が強くなり、つい近年までそれは続いていました。

ところが昭和30年代、児玉幸多博士(学習院名誉教授)が宗吾の霊を祭る宗吾霊宝館の粗末な展示物を確認中、うずもれた戸棚の中から江戸期の名寄帳(年貢割り当てのための帳面)の中に木内惣五郎の名を見つけ、実在が確認されました。



上の写真は東勝寺(宗吾霊堂)です。 宗吾霊堂の正式名称は東勝寺(とうしょうじ)、千葉県成田市にある真言宗の寺ですが、義民・佐倉惣五郎(さくらそうごろう)の霊が祀られていることから宗吾霊堂と呼ばれ、元内閣総理大臣の小泉純一郎氏を始め、各界の有名人が多数訪れている霊堂です。



上の写真は、佐倉惣五郎の墓の写真です。宗吾霊堂の境内にあります。 公津ヶ原処刑場の跡地です。ここで、惣五郎は処刑されたとの事です。





★ 初めて日本地図を作った伊能忠敬像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、 江戸時代の商人、天文学者・地理学者・測量家である。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。

伊能忠敬は、はじめて実測による日本地図を作った人として著名で、戦前は小学校の教科書に載せられ偉人とされた。 戦後、しばらく忘れられた存在であったが、井上ひさし氏が小説「四千万歩の男」を書いてから、 再び見直されつつある。

忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町で生まれ、横芝光町で青年時代を過ごし、 17歳で伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍します。

その後、家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、 55歳(寛政12年、1800年)から71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり、日本全国の測量を行いました。

~伊能忠敬の<大日本沿海輿地全図>の作成過程~

第一次の蝦夷地測量がはじめられる。根室の近くのニシベツまで往復3,200キロを180日かけて歩測し、 途中81ヶ所で天体観測をおこなった。あきれるばかりの根気よさである。 蝦夷地の実測図は大変高く評価された。現在図と較べても経度を補正すれば、地形は重なる。

第二次測量では測量方法を改善し、間縄を使って本州東海岸の測量を始める(第一次の蝦夷地測量では全行程とも歩測だった)。 ついで、第三次測量では出羽から日本海沿岸、第四次測量では東海道・北陸道沿海、と測量が続けられ、文化元年には東日本の図が完成した。
八月に老中・若年寄の閲覧に供し、九月、第11代将軍・徳川家斉の台覧をうける。
ここまでは幕府が補助金を出した忠敬の個人事業であったが、このあと、忠敬は微禄だが幕臣(45俵くらい)に登用され、幕府測量隊として下役・内弟子など多数の部下をつれて、老中の御証文を持って西国の海岸と主要街道を丁寧に測量した。

伊能隊の全測量日数の約八割は幕府事業として遂行された。
文政元年4月13日(1818.5.17)忠敬は、移っていた八丁堀の地図御用所(自宅)で73歳の生涯を閉じた。 地図は未完だったので、喪を秘して下役、門人の手で作業が継続される。幕府に提出されたのは、死後3年余の文政4年7月10日(1821.8.7)であった。


写真(左)は忠敬の出生の地(千葉県九十九里町)
写真(右)は忠敬の旧宅(千葉県香取市佐原)













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( 6月度の人物画 )

★ 実業家の渋沢栄一像を描く ★

(日本資本主義の父)



( 画用紙、エンピツ/パステル 6号 41x33cm )

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体:澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農出身の武士、官僚、実業家、慈善家。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。

江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では、民部省を経て直属の上司である大蔵大輔・井上馨の下で大蔵少輔・吉田清成等と共に造幣・戸籍・出納等様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。

井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社、経済団体の設立・経営に関わり、同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会等の医療事業、商法講習所(現・一橋大学)、大倉商業学校(現・東京経済大学)等の実業教育、東京女学館等の女子教育、台湾協会学校(現・拓殖大学)の設立、二松學舍(現・二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。また「論語と算盤」の言葉で代表される、道徳経済合一の思想でも広く知られている。


2024年度発行予定の一万円札見本










★ 医師の荻野吟子像を描く ★

(日本の公許女性医師第1号)



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )


嘉永4年(1851年)に荻野吟子は、現在の熊谷市俵瀬に生まれました。自分の体験から女性医師の必要性を痛感し、医師になることを決意します。 当時、女性には医師の道は閉ざされていましたが、目の前に立ちはだかる壁を信念とたゆまぬ努力で克服し、明治18年(1885年)医術開業試験に合格して、日本の公許女性医師第1号となった埼玉県三偉人の一人です。

荻野吟子は、開業医として熱心に治療にあたったほか、女性の地位向上や衛生知識の普及にも大きく貢献しました。

熊谷市立荻野吟子記念館は、荻野吟子の生家の長屋門を模した、瓦葺屋根・漆喰一部下見板の和風建築で、部屋は展示室と休憩室に分かれ、展示室には荻野吟子の生涯を時代に合わせて説明した年表や資料を展示しています。

熊谷市立荻野吟子記念館は、平成31年4月1日から指定管理者制度を導入し、特定非営利活動法人 めぬまガイドボランティア阿うんの会が管理運営を行っています。


(写真は、熊谷市立荻野吟子記念館)












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( 5月度の人物画 )

★ 同志社の新島襄像を描く ★

(同志社大学の創立者)



( 画用紙、エンピツ/パステル 6号 41x33cm )

新島襄(1843-90)は、1843(天保14)年、安中藩(群馬県)の江戸詰め下級武士の長男として生まれた。 彼は国家の改革者、日本の近代化の先導者にならんとして、21歳の1864(元治元)年、函館から国禁を犯して脱国し、翌年アメリカのボストンに着いた。 そこでキリスト教の洗礼を受けて神学を学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。 日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。

同志社大学設立
明治21年(1888年)、徳富蘇峰の協力により井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付ける。 特に土倉は新島のよき理解者、協力者であり、新島も土倉を頼りとした。板垣退助と新島を取り結んだのも自由民権運動のパトロンでもあった土倉であろうと推測される。 また明治21年(1888年)11月、徳富蘇峰は襄の求めに応じ「同志社大学設立の旨意」を添削し、自身の経営する民友社発行の『国民之友』をはじめ全国の主要な雑誌・新聞に掲載し、同志社大学設立に尽力した。


新島襄旧宅(群馬県安中市)     新島襄海外渡航の地碑(函館市大町)










★ 侠客の国定忠治を描く ★

(国家権力と戦う民衆のヒーロー)



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )


生年: 文化7(1810)  没年: 嘉永3.12.21(1851.1.22) 江戸後期の侠客。
本名は長岡忠次郎。 父は上野国(群馬県)佐位郡国定村の中農与五左衛門。
17歳のとき人を殺し大前田英五郎の許に身を寄せ、 博徒の親分として売り出す。
博奕を業とするが,縄張りのためには武闘を辞せず、 子分を集めて私闘を繰り返した。
天保5(1834)年島村伊三郎を謀殺したことから関東取締出役に追われる身となり、以降一貫して長脇差、 鉄砲などで武装し、赤城山を根城としてお上と戦い、 関東通り者の典型となった。
逃亡、潜伏を繰り返すうち、同7年信州の義弟兆平を殺した波羅七を討つため大戸(群馬県)の関所を破ったり、同13年には博奕場を急襲した八州廻りの手先で二足の草鞋の三室勘助を、子分の板割浅太郎(忠治の甥)を使って殺すなど幕府のお膝元関八州の治安を脅かす不遜な存在となった。

逃亡、潜伏を支えたのは一家の子分の力もあるが、忠治をかくまった地域民衆の支持もあった。伝承によれば、同7年の飢饉(天保の大飢饉)に私財を投じて窮民に施したり、上州田部井村の名主西野目宇右衛門と語らい博奕のあがりで農業用水の磯沼をさらったりした。忠治は幕府にとって文武の敵となった。

嘉永3(1850)年夏、潜伏先の国定村で中気となり隣村(田部井村)の宇右衛門宅で療養中捕らえられ、江戸に送られ勘定奉行の取り調べの上、罪状が多すぎるため最も重い関所破りを適用され、磔と決まった。 磔に当たっては、刑場大戸まで威風堂々と道中行列を演技し14度まで槍を受けて衆目を驚かせた。 忠治の対極にいた幕吏(代官)羽倉簡堂は『劇盗忠二小伝』(『赤城録』)を著して、凡盗にあらずして劇盗と評した。

死後の忠治は,時代が閉塞状況となるたびに国家権力と戦う民衆のヒーローとして映画、芝居、講談、などを通して甦った。いまも、大衆演劇では忠治は文句ないヒーローである。 墓は養寿寺(群馬県佐波郡)と善応寺(伊勢崎市)にある。


(写真は、長野県野沢温泉村に再建された「忠治地蔵尊」)












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