吉川和夫ウエブ美術庵の月例新作絵画発表

吉川和夫(キッカワカズオ)は、
人生という旅で出会った、古今東西の人物の姿や感情を絵の中で表現しています。


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( 9月度の人物画 )

★ 幕末・明治の語学者「ジョン万次郎像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


ジョン万次郎(、旧字体:ジョン萬次郎、英語:John Manjirō、1827年1月27日〈文政10年1月1日〉 - 1898年〈明治31年〉11月12日)は、 江戸時代末期(幕末)から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人である。 アメリカ人からはジョン・マン(英語:John Mung)という愛称でも呼ばれた。土佐国(現・高知県)出身。 帰国後は本名として 中浜 万次郎(旧字体:中濱 萬次郎)を名乗った。 なお、「ジョン万次郎」という呼称は、 1938年(昭和13年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたことで広まったもので、 それ以前には使用されていない。

日米和親条約の締結に尽力し、その後、通訳・教師などとして活躍した。

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ジョン万次郎<簡単な年表>

0歳(1827年) 土佐国中濱村に生まれる(次男)
        寺子屋に通う余裕はなく、読み書きはほとんどできず
14歳(1841年) 漁に出た際に嵐にあい遭難
       5日半漂流の後、無人島鳥島(伊豆諸島)に漂着
       143日間生活し、アメリカの捕鯨船に救助される
       ホイットフィールド船長に気にいられ、本人の希望もあり捕鯨船で航海へ
       その後、ホイットフィールド船長の養子になる
16歳(1843年) オックスフォード学校入学
17歳(1844年) バーレット・アカデミーにて英語・数学・測量・航海術・造船技術を学ぶ
        首席で卒業
19歳(1846年) 捕鯨船で航海へ
23歳(1850年) 5月 日本への帰国を決意
          資金を得るため金鉱へ働きに行く
       12月 上海行きの商船に乗り、日本に向けて出発
24歳(1851年) 2月 琉球(薩摩藩)に上陸
       鎖国中のため、薩摩藩で取り調べを受ける
        薩摩藩では、藩主島津斉彬によって厚遇される
        造船術・航海術を教示し、それを元に薩摩藩は越通船を健造
       次に、長崎奉行所で長期間の尋問(踏み絵等)
       最後は、土佐藩での取り調べ
25歳(1852年) 故郷へ
       土佐藩の士分に取り立てられる
        藩校の教授に任命、岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)などを教える
26歳(1853年) 黒船来航
       江戸に招聘され直参の旗本の身分を与えられる
        この時に、故郷の地名を取り「中濱」の名字を授けられる
        ペリーとの交渉の際、通訳に適任とされたがオランダ語通訳の立場を
        失うことを恐れた老中にスパイ容疑をかけられ通訳の役目を下ろされる
        だが、日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した
27歳(1854年) 結婚
33歳(1860年) 再びアメリカへ
       日米修好通商条約の批准書を交換の遣米使節団とし、咸臨丸に乗船
        船長の勝海舟は船酔いが酷くまともに指揮がとれず、
        万次郎が代わりに船内の秩序保持に努める
34歳(1861年) 小笠原諸島などの開拓調査を行う
42歳(1869年) 明治政府により、開成学校(現在の東京大学)の英語教授に任命
43歳(1870年) 普仏戦争視察団として、欧州へ派遣
        発病のため戦場には赴けずロンドンで待機
        帰国の途上で、ホイットフィールド船長に再会、持っていた日本刀を贈る
        帰国後に、軽い脳溢血を起こしたが数ヵ月後には日常生活には不自由しない
        ほど回復するが、以後は静かに暮らす
        政治家たちと親交が深く政治家になるよう誘われたが、教育者の道を選んだ
72歳(1898年) 死去。





写真:ジョン万次郎の肖像


写真:ジョン万次郎の生家






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( 8月度の人物画 )

★ イギリス人のサムライ「三浦按針像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


ウィリアム・アダムス( 三浦按針)
三浦按針(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日))は、 安土桃山・江戸初期,日本に来た最初のイギリス人で,徳川家康の政治顧問。

本名ウイリアム・アダムズ(William Adams)。 ケント州ジリンガムに生まれ,造船所の徒弟を経て海軍に入る。 1598年オランダのロッテルダム会社の東洋派遣艦隊のリーフデ号の航海士としてオランダ最初の太平洋回りアジア渡航に参加, 慶長5(1600)年に豊後(大分県)の臼杵に近い佐志生に漂着,大坂に送られて徳川家康と会見する。

同船のオランダ人ヤン・ヨーステンと共に家康に信頼され,相模国三浦郡逸見村(横須賀市)で200石と江戸日本橋に邸宅を与えられた。 日本名を名乗り家康の外交顧問を務めるとともに幾何学,地理学,造船技術など西洋諸学を教えた。 その建造した2隻のヨーロッパ式帆船のうち1隻は上総(千葉県)に漂着した フィリピンの前総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがメキシコに帰るときに使用され太平洋を往復した。

慶長16(1611)年に彼がジャワ在留のイギリス人あてに書いた日本事情を知らせる手紙は,当時,ジャワのバンタムに商館をおいていた イギリス東インド会社を刺激し,同18年,ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を持って平戸へ来航する機縁となった。 アダムズは駿府でセーリスを家康に会わせ,貿易許可の朱印状と平戸に商館を置くことを認めさせた。 アダムズ自身,イギリス東インド会社と契約を結んで俸給を得た。

彼はセーリスの帰国の際,日本を離れる許可を得たが,結局そのままとどまった。 日本人の妻とのあいだに2子がある。自ら朱印船貿易家としても活躍し,シャム,アンナン,トンキンに渡航もしている。 徳川秀忠の代になると幕府との関係が薄れ,平戸で病没した。 夫婦を祭った按針塚が領地の横須賀市に現存する。『大日本史料』12の33(元和6年4月24日条)に三浦按針についての史料が網羅されている。

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神奈川県横須賀市の逸見には三浦按針の領地があった。 同地(横須賀市西逸見)にある濤江山浄土寺が三浦按針の菩提寺となっており、 按針が東南アジアからもたらしたという唄多羅葉や、念持仏が納められている。
横須賀市西逸見町の「塚山公園」には、按針夫妻の慰霊のために作られた2基の供養塔(宝筺印塔)があり、 「安針塚(按針塚)」「三浦按針墓」と呼ばれる。
江戸時代、三浦按針は遺言によって、江戸城を遠く望む逸見の地に葬られたと伝えられるようになった。 また、江戸時代後期には浄土寺や日本橋按針町の人々によって、按針の法要が行われた。



写真:横須賀市にある三浦按針夫妻の墓






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( 7月度の人物画 )

★ 慶長遣欧使節団の「支倉常長像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


支倉常長
(はせくら つねなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。 桓武天皇を祖先とする血筋でありながらも伊達氏の家臣として活躍。 慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、 及びフランシスコ派カトリック教徒となった。幼名は與市、初名は六右衛門長経、 洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。

後日談
慶長遣欧使節は「日本人が初めてヨーロッパの国へ赴いて外交交渉をした」画期的な出来事であった。 常長らは「初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人」である。 のちに江戸幕府崩壊後、明治新政府は岩倉具視を全権大使として欧米視察の使節を送ったが(岩倉使節団)、 その際に欧州で常長らの遺した事跡に出遭い、 日本ではほとんど忘れられていた常長達の存在が再び注目されることとなる。 明治新政府の首脳たちは欧米視察によって日本がいかに遅れた国であるのかを痛感し大きな劣等感に苛まれていたが、 このとき250年以上も先立つ昔に日本の外交使節がスペインで外交交渉を行いローマまで派遣されていたという衝撃的な事実を知った。 常長達の足跡を目の当たりにして、岩倉たちは大いに勇気づけられたという。




写真:支倉常長像






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( 6月度の人物画 )

★ 細菌学者の「北里柴三郎像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


北里 柴三郎
(きたざと しばさぶろう、1853年1月29日(嘉永5年12月20日) - 1931年(昭和6年)6月13日)は、 日本の医学者・細菌学者・教育者・実業家。「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、 また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。

貴族院議員を勤め、位階勲等は従二位・勲一等・男爵。医学博士、私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、 土筆ヶ岡養生園(現在の北里大学北里研究所病院)創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)[1]、 私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長並びに北里大学学祖、 慶応義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、 日本医師会創立者兼初代会長、テルモ株式会社の設立者である。




写真:北里柴三郎医学博士


写真:北里柴三郎博士の墓(青山霊園)






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