吉川和夫ウエブ美術庵の月例新作絵画発表

吉川和夫(キッカワカズオ)は、
人生という旅で出会った、古今東西の人物の姿や感情を絵の中で表現しています。


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( 10月度の人物画 )

★ 花の画家 =「日本画家・堀文子氏像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


2019年2月、惜しまれながら逝去した日本画家の堀文子。1918年、東京に生まれた堀は画家を志して、女子美術専門学校(現・女子美術大学)に入学し、在学中から新傾向の日本画制作を実践する新美術人協会展に出品。戦後も創造美術、新制作協会日本画部、創画会へと続く革新的なグループを活動の場とした。

 61年からの2年半におよぶ欧米やメキシコをめぐる旅を経て、 65年には初の個展を日本橋髙島屋で開催。「(この個展によって)わたくしの中身から鬱積していたものが流れ出したよう」と語り、画家の新たな出発点ともなった。

 その後、都会を離れて生きることを決意し、神奈川県大磯、軽井沢、イタリア・アレッツォに移住。野山で人知れず生き続ける草木をはじめ、神仏への信仰とも結びつく椿や牡丹、自邸に咲く四季折々の花々の姿を描き、「花の画家」としても知られるようになった。




写真:堀文子の肖像


写真:堀文子氏の画文集表紙







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( 9月度の人物画 )

★ 幕末・明治の語学者「ジョン万次郎像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


ジョン万次郎(、旧字体:ジョン萬次郎、英語:John Manjirō、1827年1月27日〈文政10年1月1日〉 - 1898年〈明治31年〉11月12日)は、 江戸時代末期(幕末)から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人である。
アメリカ人からはジョン・マン(英語:John Mung)という愛称でも呼ばれた。土佐国(現・高知県)出身。 帰国後は本名として 中浜 万次郎(旧字体:中濱 萬次郎)を名乗った。

なお、「ジョン万次郎」という呼称は、 1938年(昭和13年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたことで広まったもので、 それ以前には使用されていない。

日米和親条約の締結に尽力し、その後、通訳・教師などとして活躍した。




写真:ジョン万次郎の肖像


写真:ジョン万次郎の生家






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( 8月度の人物画 )

★ イギリス人のサムライ「三浦按針像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


ウィリアム・アダムス( 三浦按針)
三浦按針(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日))は、 安土桃山・江戸初期,日本に来た最初のイギリス人で,徳川家康の政治顧問。

本名ウイリアム・アダムズ(William Adams)。 ケント州ジリンガムに生まれ,造船所の徒弟を経て海軍に入る。 1598年オランダのロッテルダム会社の東洋派遣艦隊のリーフデ号の航海士としてオランダ最初の太平洋回りアジア渡航に参加, 慶長5(1600)年に豊後(大分県)の臼杵に近い佐志生に漂着,大坂に送られて徳川家康と会見する。

同船のオランダ人ヤン・ヨーステンと共に家康に信頼され,相模国三浦郡逸見村(横須賀市)で200石と江戸日本橋に邸宅を与えられた。 日本名を名乗り家康の外交顧問を務めるとともに幾何学,地理学,造船技術など西洋諸学を教えた。 その建造した2隻のヨーロッパ式帆船のうち1隻は上総(千葉県)に漂着した フィリピンの前総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがメキシコに帰るときに使用され太平洋を往復した。

慶長16(1611)年に彼がジャワ在留のイギリス人あてに書いた日本事情を知らせる手紙は,当時,ジャワのバンタムに商館をおいていた イギリス東インド会社を刺激し,同18年,ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を持って平戸へ来航する機縁となった。 アダムズは駿府でセーリスを家康に会わせ,貿易許可の朱印状と平戸に商館を置くことを認めさせた。 アダムズ自身,イギリス東インド会社と契約を結んで俸給を得た。

彼はセーリスの帰国の際,日本を離れる許可を得たが,結局そのままとどまった。 日本人の妻とのあいだに2子がある。自ら朱印船貿易家としても活躍し,シャム,アンナン,トンキンに渡航もしている。 徳川秀忠の代になると幕府との関係が薄れ,平戸で病没した。 夫婦を祭った按針塚が領地の横須賀市に現存する。『大日本史料』12の33(元和6年4月24日条)に三浦按針についての史料が網羅されている。

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神奈川県横須賀市の逸見には三浦按針の領地があった。 同地(横須賀市西逸見)にある濤江山浄土寺が三浦按針の菩提寺となっており、 按針が東南アジアからもたらしたという唄多羅葉や、念持仏が納められている。
横須賀市西逸見町の「塚山公園」には、按針夫妻の慰霊のために作られた2基の供養塔(宝筺印塔)があり、 「安針塚(按針塚)」「三浦按針墓」と呼ばれる。
江戸時代、三浦按針は遺言によって、江戸城を遠く望む逸見の地に葬られたと伝えられるようになった。 また、江戸時代後期には浄土寺や日本橋按針町の人々によって、按針の法要が行われた。



写真:横須賀市にある三浦按針夫妻の墓






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( 7月度の人物画 )

★ 慶長遣欧使節団の「支倉常長像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


支倉常長
(はせくら つねなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。 桓武天皇を祖先とする血筋でありながらも伊達氏の家臣として活躍。 慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、 及びフランシスコ派カトリック教徒となった。幼名は與市、初名は六右衛門長経、 洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。

後日談
慶長遣欧使節は「日本人が初めてヨーロッパの国へ赴いて外交交渉をした」画期的な出来事であった。 常長らは「初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人」である。 のちに江戸幕府崩壊後、明治新政府は岩倉具視を全権大使として欧米視察の使節を送ったが(岩倉使節団)、 その際に欧州で常長らの遺した事跡に出遭い、 日本ではほとんど忘れられていた常長達の存在が再び注目されることとなる。

明治新政府の首脳たちは欧米視察によって日本がいかに遅れた国であるのかを痛感し大きな劣等感に苛まれていたが、 このとき250年以上も先立つ昔に日本の外交使節がスペインで外交交渉を行いローマまで派遣されていたという衝撃的な事実を知った。 常長達の足跡を目の当たりにして、岩倉たちは大いに勇気づけられたという。




写真:支倉常長像






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( 6月度の人物画 )

★ 細菌学者の「北里柴三郎像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


北里 柴三郎
(きたざと しばさぶろう、1853年1月29日(嘉永5年12月20日) - 1931年(昭和6年)6月13日)は、 日本の医学者・細菌学者・教育者・実業家。「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、 また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。

貴族院議員を勤め、位階勲等は従二位・勲一等・男爵。医学博士、私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、 土筆ヶ岡養生園(現在の北里大学北里研究所病院)創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)、 私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長並びに北里大学学祖、 慶応義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、 日本医師会創立者兼初代会長、テルモ株式会社の設立者である。




写真:北里柴三郎医学博士


写真:北里柴三郎博士の墓(青山霊園)






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