吉川和夫ウエブ美術庵の月例新作絵画発表

吉川和夫(キッカワカズオ)は、
人生という旅で出会った、古今東西の人物の姿や感情を絵の中で表現しています。


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( 7月度の人物画 )

★ 慶長遣欧使節団の「支倉常長像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


支倉常長
(はせくら つねなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。 桓武天皇を祖先とする血筋でありながらも伊達氏の家臣として活躍。 慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、 及びフランシスコ派カトリック教徒となった。幼名は與市、初名は六右衛門長経、 洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。

後日談
慶長遣欧使節は「日本人が初めてヨーロッパの国へ赴いて外交交渉をした」画期的な出来事であった。 常長らは「初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人」である。 のちに江戸幕府崩壊後、明治新政府は岩倉具視を全権大使として欧米視察の使節を送ったが(岩倉使節団)、 その際に欧州で常長らの遺した事跡に出遭い、 日本ではほとんど忘れられていた常長達の存在が再び注目されることとなる。 明治新政府の首脳たちは欧米視察によって日本がいかに遅れた国であるのかを痛感し大きな劣等感に苛まれていたが、 このとき250年以上も先立つ昔に日本の外交使節がスペインで外交交渉を行いローマまで派遣されていたという衝撃的な事実を知った。 常長達の足跡を目の当たりにして、岩倉たちは大いに勇気づけられたという。




写真:支倉常長像






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( 6月度の人物画 )

★ 細菌学者の「北里柴三郎像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


北里 柴三郎
(きたざと しばさぶろう、1853年1月29日(嘉永5年12月20日) - 1931年(昭和6年)6月13日)は、 日本の医学者・細菌学者・教育者・実業家。「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、 また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。

貴族院議員を勤め、位階勲等は従二位・勲一等・男爵。医学博士、私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、 土筆ヶ岡養生園(現在の北里大学北里研究所病院)創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)[1]、 私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長並びに北里大学学祖、 慶応義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、 日本医師会創立者兼初代会長、テルモ株式会社の設立者である。




写真:北里柴三郎医学博士


写真:北里柴三郎博士の墓(青山霊園)






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