吉川和夫ウエブ美術庵の月例新作絵画発表

吉川和夫(キッカワカズオ)は、
世界の国々や日本全国の町々を歴訪する旅をしながら、 感動した様々な風景を絵に描いています。


<< 風景を描く >>




( 9月度の風景画 )

★ 北海道富良野のトミタ・ファームを描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


沿革

1897年に北海道国有未開地処分法が制定され、本州等から北海道へ移住してくる人々が急増、その中にファーム富田の創始者である富田徳馬もいた。富田徳馬はその後1903年に現在の北海道中富良野町に開墾の鍬を下ろし、その苗字がファームの由来となる。

徳馬の孫、富田忠雄は1953年、当時富良野一帯においてラベンダー栽培の先駆的人物であった上田美一のラベンダー畑に出会い、1958年より香料用としてのラベンダー栽培を開始。妻と共に開始した畑は10アールの広さにまで及んだ。その後ラベンダー畑はおよそ1.2ヘクタールにまで拡大、富良野地方全体でもラベンダーの栽培地域が230ヘクタール以上に拡大したが、以降は急激に衰退。ピーク時にはラベンダー栽培農家が250戸以上・全道のラベンダーオイル生産量も5トンに上っていたが、1972年頃から貿易の自由化が始まって価格の低い香料が広まり、合成香料の技術が進み始めると、製造していたラベンダーオイルの買い上げの価格も急落。翌1973年には近隣一帯のラベンダー栽培農家がほぼファーム富田のみとなってしまった。

1976年5月の日本国有鉄道のカレンダーにファーム富田のラベンダー写真が紹介されると、徐々に観光客やカメラマンが訪れるようになった。また、その後にドラマ「北の国から」で放送されると、観光地として一躍有名になった。その後はポプリなどを中心にラベンダーの加工を始め、1980年代前半からエッセンシャルオイルの抽出に成功して香水「フロム」を発売する。また、「ポプリの舎」を開設し、化粧品製造業の免許を取得、オリジナルのラベンダー香水である「FURANO(フラノ)」を発売した。1987年には石鹸の製造業免許を取得し、「ソープラベンダー」という名のオリジナル石鹸を発売するなどした。この頃にそれまで経営を繋ぐために行っていた稲作を中止し、花の栽培や加工を経営の中核とした。

1990年に「ラベンダー芳香フェア」がフランスにて開催される。このイベントで行われた品評会にて、ファーム富田のオリジナルエッセンシャルオイル、「おかむらさき」が第1位を獲得。同時に「オートプロヴァンス・ラベンダー修道騎士」の称号を授与された。この称号は南フランスにあるラベンダーを生産する組織より、ラベンダー栽培における功労者へ贈与されるものである。その後は冬期間にグリーンハウス内でのラベンダー栽培に成功、富田ラベンダー資料館や「ドライフラワーの舎」をオープンさせるなど事業を拡大し、現在に至る。




< 写真 >

私は、2019年7月10日、北海道富良野の富田ファームを訪れました。

















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( 8月度の風景画 )

★ ベトナム国、世界遺産ハロン湾を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


ハロン湾(ハロンわん、ベトナム語: Vịnh Hạ Long / 泳下龍)は、 ベトナム北部、トンキン湾北西部にある湾。漢字表記は下龍湾。 クアンニン省のハロン市の南に位置し、カットバ島のほか大小3,000もの奇岩、島々が存在する。

伝承では、中国がベトナムに侵攻してきた時、竜の親子が現れ敵を破り、口から吐き出した宝石が湾内の島々になったと伝えられている。 カットバ島以外の島は現在は無人だが、約7,000年前の新石器時代にはわずかに人が住んでいた。 また、数世紀前までは海賊の隠れ家として利用され、また、モンゴル帝国の侵攻の際には軍事的に利用された。

彫刻作品のような島々の景観は、太陽の位置によって輝きが変化し、雨や霧によってまた趣のある雰囲気を醸し出す。 地質学的には北は桂林(中国広西チワン族自治区)から、南はニンビンまでの広大な石灰岩台地の一角である。 石灰岩台地が沈降し、侵食作用が進んで、現在の姿となった。

1994年にユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録。
ユネスコが支援するフランスのNGO世界で最も美しい湾クラブにも加盟している。




< 写真 >

私は、2019年5月30日、ベトナム国の世界遺産ハロン湾を訪れました。













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( 7月度の風景画 )

★ 米国マンザナール「日系人強制収容所」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


マンザナール強制収容所は、アメリカ合衆国カリフォルニア州インヨー郡にあった、 日系アメリカ人収容所のひとつ。正式名称は「Manzanar War Relocation Center(当時の訳語はマンザナール戦時轉住所)」。 現在はマンザナー国定史跡(Manzanar National Historic Site)として整備・保存されている。

日系アメリカ人が収容された10箇所の収容所の中で最もよく知られている。 北アメリカ大陸において第2位の標高を持つホイットニー山 (マンザナー収容所の敷地からもかろうじて見ることが出来る)を含むシエラネヴァダ山脈の麓、 モハーベ砂漠やデスヴァレーに連なるカリフォルニア州オーエンズヴァレーに位置し、 南はローンパイン、北はインディペンデンスが最寄りの都市。

歴史
マンザナーとはスペイン語で「リンゴ園」を意味する。 日系人の間では満座那という音訳が使用されることもあった。
1942年2月19日にフランクリン・ルーズベルト大統領が発した大統領令9066号によって翌3月に開設された。 マンザナー収容所は最大時には10,046名を収容し、収容された総数は合計で11,070名となった。 1942年12月6日に収容者の暴動が発生し、歩哨は2名の収容者を銃撃した。 1943年2月に成立したレジストレーション法は、宣誓を行わない収容者をツールレイク強制収容所へ転送することを要求した。 このために生じた混乱の後、収容者たちは収容所の環境を自分たちで改善し始めた。
大戦末期には収容所駐留軍は縮小された。また、多くの収容者が散策を許可され、狩りや魚釣りも許可された。 日本敗戦後の1945年11月に閉鎖されたが、収容者の大部分は財産を失い帰る家もなかったため、同所への在留を希望した。 収容所では延べ135名が死亡し、そのうち15名が同所に埋葬され、残りは故郷の墓地に埋葬された。


< 写真 >

私は、2003年5月31日、マンザナール収容所跡を訪れました。




マンザナール収容所跡地近くの風景です。




次の写真は、マンザナール収容所資料より抜粋











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( 6月度の風景画 )

★ 町田市の「薬師池公園」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )



( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )



( キャンバス 油彩 6号 330x410mm )



薬師池(薬師池公園)は、
1982年に「新東京百景」、1998年には「東京都指定名勝」に指定されています。
さらに、2007年に「日本の歴史公園100選」に選定された町田市を代表する公園です。 園内中心部には池があり、梅、椿、桜、花しょうぶ、大賀ハス、新緑・紅葉等、四季折々の彩が訪れる人々を楽しませてくれます。 園内には萬葉集に詠まれている70種の草花のほか260種の山野草が植栽されておりそれらをまじかに楽しめる「萬葉草花苑」や 野津田薬師といわれ薬師如来様が祀られ長く親しまれる薬師堂があります。 江戸時代の古民家2棟(旧永井家住宅と旧荻野家住宅)が移築されており、 町田市フォトサロンでは展示室において多彩なミュージアム活動が展開されています。 また、園内には市制施行40周年記念モニュメント「自由民権の像」も建立されています。


























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