希望の中に生き抜く



第二次世界大戦後の混乱期を経験した私は、二人の小説家に注目して来ました。
それは、名家に生まれながら、自分の人生に絶望し自殺した小説家の太宰治と、
両目を失明するも、未来に希望を抱き続けた哲学者であるサルトルの人生です。



☆ 小説「人間失格」 ☆
~ 1948年、太宰治の作品 ~






『 恥の多い生涯を送って来ました 』
(太宰治著「人間失格}の冒頭の言葉)


 恥の多い生涯を送って来ました。
 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜《あかぬ》けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。

 また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。

 自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。

 また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。

 自分だって、それは勿論《もちろん》、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。

 自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお膳《ぜん》を二列に向い合せに並べて、末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。それに田舎の昔|気質《かたぎ》の家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛《か》みながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。

 めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋《かいじゅう》で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。

 つまり自分には、人間の営みというものが未《いま》だに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾《てんてん》し、呻吟《しんぎん》し、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。

 自分には、禍《わざわ》いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負《せお》ったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。

 つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨《せいさん》な阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快《そうかい》なのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。・・・・・・・・・・
(以下は省略します)


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『人間失格』は、小説家・太宰治による中編小説。『ヴィヨンの妻』『走れメロス』『斜陽』に並ぶ太宰の代表作の1つである。
1948年(昭和23年)3月より書き始め、5月12日に脱稿した。太宰は、その1か月後の6月13日に山崎富栄とともに玉川上水で入水自殺した。
同年、雑誌『展望』6月号から8月号まで3回にわたって掲載された本作品は、著者死亡の翌月の7月25日、筑摩書房より短編「グッド・バイ」と併せて刊行された。定価は130円。

他人の前では面白おかしくおどけてみせるばかりで、本当の自分を誰にもさらけ出すことのできない男の人生(幼少期から青年期まで)をその男の視点で描く。この主人公の名前は、太宰の初期の小説『道化の華』に一度だけ登場している。
戦後の売り上げは新潮文庫版だけでも累計発行部数670万部を突破しており、夏目漱石の『こころ』と何十年にもわたり累計部数を争っている。





太宰治
(1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)



本名、津島修治。青森県津軽の大地主の家に生まれる。父親は貴族院議員も務め、邸宅には30人の使用人がいた。小学校を首席で卒業。14歳の時に父親が病没し、長兄が家督を継ぐ(太宰は六男)。16歳の頃から小説やエッセイをクラスメートと作った同人雑誌に書き始めた。高校では芥川、泉鏡花に強く傾倒し、中高を通して書き記した習作は200篇にも及ぶという。18歳の時に敬愛する芥川が自殺。猛烈に衝撃を受けた太宰は学業を放棄、義太夫を習い花柳界に出入りし、青森の料亭で15歳の芸妓(げいぎ)・小山初代と知り合い深い仲になる。1929年(20歳)、秋頃から急激に左翼思想に傾斜し、12月10日深夜に最初の自殺未遂。資産家の子という自己の出身階級に悩み、下宿で睡眠薬(カルモチン)による自殺を図り昏睡状態に陥ったのだ

翌年、東大仏文科に入学。かねてから『山椒魚』等で井伏鱒二を尊敬していた太宰は、上京後すぐ井伏のもとを訪れ弟子入り。治安維持法によって非合法化されていた左翼活動にも、具体的に係わっていく。秋頃、愛人関係にあった小山初代に、地元有力者からの身請け話が持ち上がり、動揺した太宰は彼女を上京させる。名家の息子が芸妓を呼び寄せたことが郷里で騒ぎになり「全ての肉親を仰天させ、母に地獄の苦しみをなめさせた」(東京八景)という。2人が同棲し始めると、生家から長兄が上京し、“(初代が芸妓でも)結婚は認めるが本家からは除籍する”と言い渡される。これを受けて兄と初代は落籍の為にいったん帰郷、11月19日に分家を届出、除籍された。11月24日、長兄が太宰の名で小山家と結納を交す。

一方の太宰は、この結納の翌25日に銀座のカフェの女給・田部あつみ(19歳、理知的で明るい美貌の人妻。夫は無名の画家)と出会い、そのまま浅草見物など3日間を共に過ごした後、11月28日夜、神奈川県小動崎(こゆるがさき)の畳岩の上でカルモチン心中を図る。翌朝地元の漁師に発見され、田部は間もなく絶命、太宰は現場近くの恵風園療養所に収容される。驚いたのは長兄。すぐさま津島家の番頭を鎌倉へ送った。番頭は田部の夫に示談金を渡したり、太宰の下宿にあった左翼運動に関する大量の秘密書類を、警察の調査前に焼却したりと走り回った(実際、翌日に警察が踏み込んでいる)。亡くなった田部を見た番頭曰く“大変な美人で、私は美人とはこういう女性のことをいうのかと思いました”。事件後、太宰は自殺幇助罪に問われたが、起訴猶予となる。 翌12月、一命を取り留めた太宰は青森碇ヶ関温泉で小山初代と仮祝言をあげた。

22歳、長兄は初代を芸妓の境遇から解放して上京させ、太宰との新所帯を応援。太宰は屈折した罪悪感から左翼運動に没頭し、反帝国主義学生同盟に加わった。大学にはほとんど行かず、転々と居を移しながらアジトを提供し、ビラ撒き、運動へのカンパなどを行なった。太宰が用意したアジトで機関紙の印刷や中央委員会が開かれた。ビルの上からビラを撒くことを太宰は「星を振らせる」といい、後年「チラチラチラチラ、いいもんだ」と回想している。23歳、青森の実家に警察が訪れ、太宰の行動について問いただしたことから左翼活動のことがバレ、激怒した長兄(県議をしていた)から「青森警察署に出頭し左翼運動からの離脱を誓約しない限り、(仕送りを停止し)一切の縁を絶つ」という手紙が届く。こうして足掛け3年間の太宰の左翼運動は終わった…組織の友人たちを裏切ったという深い後ろめたさと共に。 以後、井伏の指導で文学に精進し、檀一雄や中原中也らと同人雑誌を創刊、『思い出』を始めとして、堰を切ったように執筆活動を開始する。

1935年(26歳)、授業料未納により大学から除籍され、都新聞社の入社試験にも落ち、3月16日夜、鎌倉八幡宮の山中にて縊死を企てたが失敗(3回目の自殺未遂)。その直後、盲腸炎から腹膜炎を併発、入院先で鎮痛のため使用した麻酔剤(パビナール)をきっかけに薬物中毒になる。同年、芥川賞が創設され、太宰は『逆行』により第一回芥川賞の5人の候補者に入った。結果は、石川達三が受賞し太宰は次席。選考委員の一人、川端康成は太宰について「目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる恨みあった」と評した。これを読んで逆上した太宰は『川端康成へ』との一文を記し、文中で「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。小鳥を飼い(川端の小説“禽獣”への皮肉)、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と怒りをぶちまけた。この頃から佐藤春夫に師事する。 ※川端の返事は「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい。(中略)“生活に厭な雲云々”も不遜の暴言であるならば私は潔く取消す」と大人の対応。

翌年(27歳)、太宰は“遺書のつもりで書いた”という作品集『晩年』を刊行、芥川賞の選考前に川端へ本を郵送する。次の手紙をつけて--『何卒(芥川賞を)私に与へて下さい。一点の駈け引きございませぬ。深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが、右の懇願の言葉を発っせしむる様でございます。(中略)私に希望を与へて下さい。私に名誉を与へて下さい。(中略)「晩年」一冊のみは恥かしからぬものと存じます。早く、早く、私を見殺しにしないで下さい。きっとよい仕事できます』。 ド真ん中直球ストレートの、泣きつくような懇願文だ。上京以後、心中事件で相手を死なせてしまったり、芸伎と結婚したり、非合法活動に係わったり、大学も卒業出来ず就職に失敗するなど、故郷の生家に数々の迷惑をかけたことから、芥川賞の受賞で名誉挽回を果たそうとしたのだ。それに薬物中毒でかさんだ薬屋の借金を払う為にも賞金が必要だった。だが、選考の過程で「すでに新人に非ず」と最終候補から外され深く打ちのめされる。 同年秋、太宰の薬物依存があまりに深刻な為、心配した井伏ら周囲の者は太宰に“結核を療養しよう”と半ば騙すような形で、武蔵野病院の精神病病棟に入院させた。一カ月後、完治して退院したものの、太宰は「自分は人間とは思われていないのだ、自分は人間を失格してしまっているのだ」と深く傷つく(この体験は8年後『人間失格』に結実する)。太宰が退院すると、妻初代は入院中に他の男と間違いを犯したことを告白した。

1937年(28歳)、浮気にショックを受けた太宰は、初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチン自殺を図ったが今回も未遂となり離婚する(4回目の未遂)。一年ほど杉並のアパートで下宿生活し、10ヶ月近く筆を絶つ。井伏は太宰のすさんだ生活を変える為に、自分が滞在していた富士のよく見える山梨県御坂峠に招待する。こうした気分転換が功を奏し、徐々に太宰の精神は安定していく。翌年、井伏が紹介した高校教師・石原美知子と見合い、婚約。1939年(30歳)、井伏家で結婚式をあげ、東京・三鷹に転居、以後死ぬまでここに住む。 太宰の作品は明るく健康的な作風となり名作『女生徒』『富嶽百景』を生み、川端から「“女生徒”のやうな作品に出会へることは、時評家の偶然の幸運」と激賞される。31歳、『駈込み訴え』『走れメロス』を執筆。1941年(32歳)、太平洋戦争開戦。翌年発表した『花火』(後に「日の出前」と改題)が、当局の検閲によって“時局に添わない”と全文削除を命ぜられる。1944年(35歳)、故郷への郷愁を綴った『津軽』を脱稿。

1945年(36歳)、空襲下で執筆し始めたパロディ『お伽草紙』を疎開先の甲府で完成。敗戦を津軽の生家で迎える。翌年、坂口安吾や織田作之助と交流を深めた。1947年(38歳)、2月に神奈川まで太田静子(太宰に文章の指導を受けていた愛人)を訪ね5日間滞在。太田をモデルに没落貴族の虚無を描いた『斜陽』を書き始め6月に脱稿する。11月には太田との間に娘が誕生し、「太田治子(はるこ、“治の子”)、この子は私の可愛い子で父をいつでも誇ってすこやかに育つことを念じている」との認知証を書く。同年、三鷹駅前のうどん屋台で山崎富栄(当時28歳、戦争未亡人)と出会う。『ヴィヨンの妻』『おさん』を発表。『斜陽』は大反響となり太宰は名声と栄光に包まれた。 1948年、過労と乱酒で結核が悪化し、1月上旬喀血。富栄の懇親的な看病のもと、栄養剤を注射しつつ5月にかけて、人生の破綻を描いた『人間失格』を執筆。また『如是我聞』で志賀直哉ら文壇批判を展開する。太宰は文壇の頂点にいた老大家・志賀を「成功者がつくる世界の象徴」と敵視し、「も少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。(中略)君は代議士にでもなればよかつた。その厚顔、自己肯定」「芥川の苦悩がまるで解つていない。日蔭者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。」「本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である」と噛み付いたのだ。

6月13日深夜、太宰は机に連載中の『グッド・バイ』の草稿、妻に宛てた遺書、子どもたちへのオモチャを残し、山崎富栄と身体を帯で結んで自宅近くの玉川上水に入水する。現場には男女の下駄が揃えて置かれていた。6日後の19日早朝(奇しくも太宰の誕生日)に遺体が発見される。帯はすぐに切られ、太宰は人気作家として立派な棺に移され運ばれたが、富栄はムシロを被せられたまま半日間放置され、父親が変わり果てた娘の側で一人茫然と立ち尽くしていたという。 死後、『桜桃』『家庭の幸福』『人間失格』『グッド・バイ』などが次々と刊行される。娘の津島佑子、太田治子は共に小説家となった。


青森県金木町にある太宰治(津島修治)の生家






~○ 小説家・太宰治を偲んで ○~

2018年6月19日、
太宰治の自死70周年の忌日=桜桃忌
( 東京都三鷹市の太宰治文学サロンにて)



2018年6月19日、JR三鷹駅近くの、太宰治が愛した跨線橋にて


2018年6月19日、三鷹市玉川上水で、太宰治の入水場所を見る



2018年6月19日、三鷹市の禅林寺で、太宰治の墓所に詣でる






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☆ サルトルの「実存主義とは何か」 ☆





第二次世界大戦後の世界にあって、常にその一挙手一投足が注目を集め、世界中に巨大な影響を与え続けた20世紀最大の哲学者ジャン=ポール・サルトル。彼の思想は「実存主義」と呼ばれ、多くの人々に生きる指針として読みつがれてきました。そのマニフェストであり入門書といわれているのが「実存主義とは何か」です。

「実存主義とは何か」は1945年10月、パリのクラブ・マントナンで行われた講演がもとになっています。この講演には多数の聴衆が押しかけ中に入りきれない人々が入り口に座り込んだほどだといわれます。翌日の新聞には大見出しで掲載され大きな「文化的な事件」として記録されました。その後、この講演は世界各国で翻訳・出版され一世を風靡し、時ならぬサルトル・ブームを巻き起こしました。サルトルの思想はなぜそこまで人々を魅了したのでしょうか。

大戦直後のヨーロッパでは、戦前まで人々を支えてきた近代思想や既存の価値観が崩壊し多くの人々は生きるよりどころを見失っていました。巨大な歴史の流れの中では、「人間存在」など吹けば飛ぶようなちっぽけなものだという絶望感も漂っていました。そんな中、「人間存在」の在り方(実存)に新たな光をあて、人々がさらされている「根源的な不安」に立ち向かい、真に自由に生きるとはどういうことを追求したサルトルの哲学は、人間の尊厳をとりもどす新しい思想として注目を浴びたのです。

若い頃サルトル思想の洗礼を受け大きな影響を受けたというフランス文学者、海老坂武さんは、既存の価値観が大きくゆらぐ中で、多くの人々が生きるよりどころを見失いつつある現代にこそ、サルトルを読み直す意味があるといいます。サルトルの思想には、「不安への向き合い方」「社会との向き合い方」「生きる意味の問い直し」など、現代人が直面せざるを得ない問題を考える上で、重要なヒントが数多くちりばめられているというのです。


< 実存は本質に先立つ>
第二次世界大戦という未曾有の経験によって、既存の価値観が大きくゆらいでいたヨーロッパ。人々は、たよるべきよすがを失い「根源的な不安」に直面していた。意味や必然性を剥ぎ取られ不条理にさらされたとき、人は一体どう生きていったらよいのか? サルトルは、その「根源的な不安」に向き合い乗り越えるために、「実存主義」という新たな思想を立ち上げた。「人間の本質はあらかじめ決められておらず、実存(現実に存在すること)が先行した存在である。だからこそ、人間は自ら世界を意味づけ行為を選び取り、自分自身で意味を生み出さなければならない」と高らかに宣言した講演「実存主義とは何か」は、その後世界中で著作として出版され、戦後を代表する思想として広まっていた。

<人間は自由の刑に処せられている>
世界や存在にはそもそも意味はない。だがだからこそ人間は根源的に「自由」なのだ。人間の根源的条件をそう考えたサルトル。だがそれは同時に人間に大きな不安を与えるものでもある。自分自身があらゆる行動の意味を決めなければならないからだ。そこには絶対的な孤独と責任が伴う。その状況をサルトルは「我々は自由の刑に処せられている」と表現した。人間はともするとこの「自由」に耐え切れず「自己欺瞞」に陥ってしまう。

<地獄とは他人のことだ>
決して完全には理解し合えず相克する「他者」との関係。だが、その「他者」なしには人間は生きていけない。「他者」と相克しながらも共生していかなければならない状況をサルトルは「地獄」と呼ぶ。こうした根源的な状況の中で、人は「他者」とどう向き合ったらよいのか? 自分の「自由」の前に立ちはだかる「他者」という「不自由」を見つめ、主体性を失うことなく「他者」と関わりあうことがいかにして可能か。




☆ サルトルの「希望の中に生きよ」 ☆



人間は根源的に与えられている「自由」をどう生かしていけばいいのか。サルトルは「実存主義とは何か」で、「アンガージュマン」(参加・拘束)という概念を提唱し、人間は積極的に《状況》へと自らを《投企》していくべきだと訴える。社会へ積極的に参加し、自由を自ら拘束していくことが、自由を最も生かす方法だと主張するのだ。それは、サルトルが生涯をかけて、身をもって実践した思想でもあった。

サルトルは、最後まで「希望」を語り続けた人でした。 人間とは投企である、未来に向かって自分を投げ出す存在である、とは言っても、 前にあるものが希望ではなく絶望だけであるならば、何も自分を投げ出したりしません。 何かしら希望を含んでいるから、希望を垣間見るからこそ、未来に向かって自分を投げ出すのです。 どんなに重病の人であっても、もしかしたら明日は苦しみが減るかもしれない 、明日は友人が見舞いに来るかもしてないと、そうした細やかな希望があって始めて病と闘うことが出来る。 例えば、薬を飲むという行動一つの中にも、すでに希望が含まれている訳です。そのように考えると 、この「希望」もまた、実存主義と言う思想の核心にあるのだと言えるでしょう。

「世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、こうした世界の中で死のうとしている老人の静かな絶望さ。 だがまさしく、私はこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望の中で死んでいく。ただ、この希望、これをつくり出さなければならない」 (対話「今、希望とは」より)





サルトル


ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(仏: Jean-Paul Charles Aymard Sartre [ʒɑ̃pɔl ʃaʁl ɛmaːʁ saʁtʁ]、1905年6月21日 - 1980年4月15日)は、フランスの哲学者、小説家、劇作家。内縁の妻はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。右目に強度の斜視があり、1973年にはそれまで読み書きに使っていた左目を失明した。自分の意志でノーベル賞を拒否した最初の人物である。

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<生涯>
1905年、ジャン=ポール・サルトルは、フランスの首都であるパリの16区に生まれる。生後15ヶ月で、海軍将校であった父親が熱病に倒れて逝去したため、母方の祖父であるドイツ系フランス人のシャルル・シュヴァイツァー(1844 - 1935)の家に引き取られる。シャルルはドイツ語の教授であり、深い教養を備えていたので、ジャン=ポール・サルトルの学問的探究心は大いに刺激された。
また、3歳のとき右目をほぼ失明し、強度の斜視として生活を送ることになった。
ジャン=ポール・サルトルは、フランス・パリのブルジョワ知識人階級の中で育った。

1964年、ジャン=ポール・サルトルは、ノーベル文学賞に選出されたが、「作家は自分を生きた制度にすることを拒絶しなければならない」として受賞を拒否・辞退して式を欠席した。このときは、候補に挙がっていたことを知ってあらかじめ辞退の書簡をノーベル委員会に送付していたが、書簡の到着が遅れたためノーベル賞受賞決定後に辞退することとなった。なお、サルトルは公的な賞をすべて辞退しており、この数年前にはレジオンドヌール勲章も辞退している。

1973年に激しい発作に襲われ、さまざまな活動を制限することになる。また、斜視であった右目は3歳からほぼ失明していたが、残る左目からの眼底出血により、この時期に両目とも失明する。ただし、光、ものの形、色までは視えると1975年にインタビューで語る(『シチュアシオンⅩ』所収「70歳の自画像」)。

失明によりギュスターヴ・フローベールの評伝(『家の馬鹿息子』)の完成の不可能を悟る。ボーヴォワールとの対話の録音を開始する(のち、『別れの儀式』に収録)。晩年、自力による執筆が不可能となったサルトルは「共同作業」によっていくつかの著作を完成させようとするが、いずれの試みも失敗に終わっている。特にユダヤ人哲学者ベニ・レヴィと取り組んだ、ユダヤ教思想に影響を受けた倫理学についての著作には意気込みを示し、「いま、希望とは( L'espoir maintenant)」と題されたレヴィとの対話記録を新聞に発表していた。

「いま、希望とは」ではかつての主体を重視した実存主義思想から大きな転換がはかられていた。その転換に戸惑ったボーヴォワールはこの対話を、レヴィが加齢により判断力を失ったサルトルをかどわかし書かせたものだとし、取り消しを迫ったが、サルトルはこれは歴とした自身の思想であるとして退けた。また、この時期に作家フランソワーズ・サガンとの交流があったことが、サガンの「私自身のための優しい回想」に記されている。

1980年、肺水腫により74年の生涯を閉じたときにはおよそ5万人がその死を弔った(その群集の中にはベルナール=アンリ・レヴィやミシェル・フーコーもいた)。遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬されている。サルトルの死後、主にボーヴォワールおよび養女である アルレット・エル・カイム(Arlette Elkaïm。34歳年下で1956年以降愛人、1965年に養女、遺言執行人)らの編集により多数の著作が出版された。


サルトルとボーヴォワールの墓




私は、1993年5月13日にモンパルナスの墓地を訪れました。
モンパルナスの墓地には、サルトルはじめボードレール、
モ-パッサン、サン・サーンスなどの多くの芸術家が眠っている。









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~ 「自由」について考察 ~

大戦後に私達は「自由」を手に入れました



 自由とは何か(1) 

自由とはまず第一に、強制や束縛を受けずに気ままにふるまえることを意味する。旅に出て自由を味わうといった場合の自由は、こうした「……からの自由」であるが、これは動物や事柄にも適用され、たとえば籠(かご)の鳥は不自由だといったり、韻律に束縛されない詩を自由詩とよんだりする。憲法では、さまざまな事柄に関して個人の自由が保障されているが、これもそうした事柄に関して国家や他人からの不当な干渉を排除するという意味では、強制、束縛からの自由とみることができる。

 だが自由には、もう一つ、消極的な「……からの自由」ではなくて、積極的な「……への自由」という意味もある。哲学において選択や決断の自由とよばれるもので、古来この自由は自由意志の問題として論議されてきた。ここで選択や決断の自由を環境や状況との関連でとらえる哲学説に触れると、たとえばシェーラー(1874―1928)は、動物の行動はその環境世界の体制によって一義的に決定されているが、人間は逆に世界に対して無限に公開的に働きかけることができ、ここに人間に独特な自発的自由がみいだされるとする。またニコライ・ハルトマン(1882―1950)によると、人間もまた彼が位置するそのつどの状況によって制約されており、その限りでは人間はまったくの自由ではない。とはいえ、状況は人間をある一つの行為へと決定するのではなく、あれやこれやといった特定のいくつかの行為に関してその選択、決断を強いる。つまり人間は決断へと強制されているが、決断もまた一つの自由である。ハルトマンは、そこで、選択、決断の自由は状況による束縛、拘束と両立しうると考えた。

 視点は異なるが、状況内での自由という考えは、サルトルにもみいだされる。サルトルによると、人間はそのつどの状況において時々刻々自らの実存を自由に創造していかなければならない。つまり自由は状況のうちにのみ存し、また状況は自由によってのみ存在する。また選択、決断の自由を本来の自己への自由とみるヤスパースによると、人間の根源的にして実存的な自由は、人間各自がその現存在において自己自身であろうと決意することのうちに存する。「決意のうちで私は自由を経験し、この自由のうちでは選択と自我との分離は不可能であって、私自身がこの選択の自由である」という。なおマルクス主義は人間の疎外からの自由と解放を説くが、その場合にもその根本には人間の全能力の開花を目ざした本来的人間への自由が置かれているといえよう。







自由とは何か(2)


英語のfreedomまたはlibertyなどの訳語。基本的には,ある行動の実現に当たって外的障害や拘束のないこと。さらに抽象化すれば一定の因果系列について,その系列に属する原因の働きが,他の因果系列または条件に妨げられないで結果を生むことをいう。一般に自由は人間の意志と行動に関する価値判断を含んだものとして考えられる。

行動の自由は内面的自由または意志の自由を認めない決定論の立場と必ずしも相反しないが,その行動を決定する意志が,一つの行動(目的)と他の行動(目的)をひとしく選択し得るか否かにかかる。
西洋にあって通常,自由の問題は,初め神(絶対者)の前での人間の自由として取り上げられ,中世・近世を通じて神学的な命題の一つであったが,カント以来,自然の必然性に対する自由が問題とされるようになるとともに,近代政治社会の担い手たる個人の侵すべからざる権利として考えられるようになった。

フランス革命の標語〈自由・平等・友愛〉にそれが典型的に示されている。日本では1862年,堀達之助の《英和対訳袖珍辞書》で〈自由〉をfreedomの訳としているが,〈専恣横暴〉という負の評価を含む漢語の伝統もあった






自由の意味


 「自由」、それは非常に魅力的な響きをもつ言葉だ。私たちはたびたびある種の憧れと期待に満ちた声色で発音する。「自由」の二文字は街中のいたるところに氾濫し、私たちの目に触れない日はないといってもいいほどだ。しかし、「自由」とは実際のところなんなのかということになると、それに解答を与えることはかなり困難であるだろう。それがいったいどういうことを意味するのか、あるいは自分は自由であるといえるのか、そんな疑問を抱いた経験があなたにはないだろうか。

 もし仮に、「私は自由です」などと唐突に他人から打ち明けられたなら、あなたはきっと面喰ってしまうだろう。それは当たり前のことである。「私は自由です」、これだけでは彼がいったいどういう意味で自由であるといえるのか、それは普通相手には理解できない。彼が打ち明けている内容は、実は驚くほどわずかでしかないのである。「私は空腹です」という文ならば、おそらく唯一の意味を持ち、あなたにもその意味がよく理解できるだろう。それに対して「私は自由です」は様々な解釈を可能にし、相手を混乱させてしまう。「自由」とは私たちによく知られているようでいて、実にあいまいな言葉なのである。

一般的に、「自由」という言葉の持つ概念は消極的なものであるといえる。つまり、なにかが「ある」ということではなくて、なにかが「ない」ことをいい表しているのである。たとえば力学で自由落下といえば、これは物体が落ちるとき引力以外のどんな力も加わらないことであり、落下に際して外からの障害がなにもないことを意味している。同じように人間の行動に関しても、一般的には、自由であるということは外的な障害や拘束、強制などの条件がないことであり、「・・・からの自由」という言葉で表すことができる。だから「なにから」自由なのかということによって、それぞれの場合に用いられる「自由」という言葉の意味がはっきり決まることになる。

人間は様々な自然的あるいは社会的な条件のもとで生活しているから、そうした条件のすべてから自由であることはできない。だから絶対的な自由ということはありえない。それで人間に関して「自由」ということがいわれる場合、なにか特定の条件から自由であるかないかということが問題になるわけである。そのため条件しだいで人間の自由には様々な意味があることになるのであり、「自由」という言葉の使用は常に相対的なものであるのだ。






意志の自由という問題

 

 私たちは社会の一員として、自分自身の判断に基づいて自由に行動できる主体であるとされている。そうでなければ個人の主体性や責任というものが失われてしまう。しかし他方で私たちは普段よく、思い通りにゆかない、不自由だということを口にする。人生はままならぬばかりでなく、ほんのちょっとした習慣を変えることすら容易ではない。

  また私たちの欲求や感情は、そのほとんどが自分で自由に生じさせうるものではなくて、なんらかの外からの要因によって与えられるものであり、自分でも不可解な欲求や感情に苦しめられることさえある。

 私たちには純粋に自由な意志や判断などというものが本当にあるのだろうか。たとえば囚人が様々な障害をもろともせずに脱獄に成功するとすれば、その行為は外的な条件から逃れているという意味で自由であるといえるだろう。しかしここで問題としたい自由は、脱獄を決意するかそれとも別の道を選ぶかという自由、つまり善をも悪をもなしうる自由である。そのような自由が認められなければ、そもそも善悪というものは存在しえないだろう。

 しかしよく考えてみると、私たちの行為は私たちの性格が決定しているともいえ、またその性格が両親から受け継いだ遺伝的素質や育った環境の作用によって決定されているのだとすれば、私たちが自由な意志で行為を選択したつもりでいても、果たしてそれを本当に自由であるといえるのだろうかという疑問も生じる。

 人間の行動または意志に実際に自由が存在するかどうかというこの問題は、古来の大きな哲学の問題のひとつである。これは、人間の意志は原因・結果の必然的な系列に縛られている(決定論)のか、それとも自分から原因・結果の系列をはじめることができるのかという問題であるといい表すことができる。​







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★ 移動の自由 ★


     < 日本列島各地への旅行/居住記録 >

  北海道地方 通算10回旅行
  東北地方  約3年間居住(宮城県3年)
  関東地方  約57年間超居住 (神奈川県6年、東京都51年)
  中部地方  100回超旅行し数えきれない
  近畿地方  約8年間居住(京都府1年、兵庫県7年)
  中国地方  約20年間居住(島根県18年、鳥取県2年)
  四国地方  通算3回旅行
  九州地方  通算6回旅行
  沖縄地方  通算5回旅行





  < 転居先記録 >

諸般の事情により、生涯に21回転居しました

  1952年~1957年
  東京都世田谷区東玉川
  東京都世田谷区若林
  東京都台東区下谷
  東京都品川区中延
  東京都大田区田園調布

  1957年~1962年
  東京都港区麻布笄町
  京都市下京区六条室町
  鳥取県東伯郡三朝町
  鳥取県米子市博労町
  東京都世田谷区桜丘

  1962年~1975年
  横浜市神奈川区白楽仲町
  東京都町田市玉川学園
  宮城県仙台市青葉区北山
  東京都台東区入谷
  東京都目黒区目黒本町


  1975年~1993年
  兵庫県西宮市仁川
  兵庫県芦屋市西蔵町
  東京都狛江市東野川
  東京都町田市玉川学園
  神奈川県横須賀市野比

  1993年~
  東京都町田市玉川学園











(閻魔大王=別名:地蔵菩薩)



『 弱き者、汝の名は老耄/吉川和夫なり 』



2017年11月28日、中国蘇州にて










☆ 大腸癌の切除手術 ☆ 




   その日は、2018年1月16日だった
   その場所は、町田市民病院の外科病棟だった

   私は、極度の便秘が続いた為に
   障害だった大腸腫瘍の切除手術を受けた
   医師の見立ては、大腸癌とのことだった
   手術方法は、腹腔鏡手術であった
   S状結腸部分を20cm切除して貰った

   医師は、癌腫瘍の進行度ステージⅡだという
   ステージⅡの5年相対生存率は90.0%である
   癌細胞の他臓器への転移は発見できなかった
   その為、抗がん剤服用の必要性はなかった
   お陰様で、便秘は解消し快適な生活に戻った

   しかし、ステージⅡの再発率は12.5% だという
   今後の定期的身体検査は必要になった
   3か月ごとに、採血による検体検査を受ける
   6ヶ月ごとに、CT撮影の検査を受ける
   1年ごとに、内視鏡検査を受ける

   自分の健康管理は、担当医と相談しながら
   自分自身で行うのが基本原則だと断ずる
   治療情報は、新聞やテレビ番組のみならず
   図書館やインターネット検索で、情報を集めている
   友人や知人からの情報も参考にしている

   いま、わが心の旅をし、美術に没頭している
   あと、何年、生き延びるか分からないけれど、
   健康を維持し、日々の生活を楽しみながら、
   しなやかに、爽やかに、生き続けるつもりである。









☆ 健康長寿への感謝 ☆

~ 大腸癌の切除手術を終えて ~



    私を此の世に出現させ育んでくれた
    両親には何より深く感謝している
    私の姉や兄は、未熟人間の私を
    普通の健康的な人間に導いてくれた

    厳しい世にありながらも
    私は平凡な家庭を築いて来ました
    いま、老弱の私を支えいる家族に
    感謝の気持ちでいっぱいである

    自分史を顧みれば
    私は皆様の激励を糧に生きてきました
    お世話になった人々に、いまだに、ご恩に
    報いていない自分を恥ずかしく思っている

    私は多くの関係者の御蔭で、この浮世で、
    老いて尚、さわやかに生き続けている
    これまで、私を支援して下さった皆様に
    あらためて感謝の意を申し上げます









~ 光陰矢のごとし ~ 

希望の中で




(2013年5月、長崎市の浦上天主堂を訪問)



(浦上天主堂に保存されている被爆マリア像)



(2013年5月20日、長崎市東出津町の遠藤周作文学館にて)







~ 時が進むにつれて ~

孤独を楽しむ



(2014年7月16日、長野県志賀高原にて)


(2015年6月16日、カザフスタンの首都アスタナにて)


(2016年6月12日、アイスランドの首都レイキャビックにて)


(2017年7月12日、北海道室蘭市地球岬にて)






~ 変貌 老い耄れて行く ~ 

泡沫(うたかた)を見る




(2018年7月9日、中国の万里長城にて)




(2019年3月10日 東京六本木の国立新美術館にて)


(2020年2月23日 町田市国際版画美術館にて)



(2021年4月19日 町田市 芹ヶ谷公園にて)










★ 眩暈(めまい)の発症 ★




    2021年春・初夏の出来事
    3月28日、日曜日、朝食後、眩暈と吐き気・嘔吐
    4月02日、金曜日、朝食前、眩暈
    4月14日、水曜日、朝食後、眩暈と吐き気・嘔吐
    4月17日、土曜日、朝食前、眩暈
    4月23日、金曜日、朝食後、眩暈と吐き気・嘔吐
    4月30日、金曜日、朝食後、眩暈と吐き気・嘔吐

    5月06日、木曜日、午前8時頃・起床時、眩暈と吐き気・嘔吐
    5月14日、金曜日、午前5時頃(就寝中)、眩暈
    5月20日、木曜日、朝食中、眩暈と吐き気・嘔吐

    6月16日、水曜日、午前6時~7時(就寝中)、眩暈と吐き気・嘔吐

    備考:4月19日、月曜日、稲垣耳鼻咽喉科医院へ行く
             診断結果=良性発作性頭位眩暈症

    6月12日、土曜日、コロナ予防のワクチン接種(1回目)
    7月03日、土曜日、2回目のコロナ予防のワクチン接種











変貌する面相

私は、人物画を描くので、顔には特別の興味があります。
『40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て』と主張する人物が居た。

大概、人間の習慣や癖そして性格は、顔に影響を及ぼすものだと言う説明である。 自分の顔面は好きではないし、嫌いでもないが、時と場所で変化する自分の面相を ありのままに観察している。

自分の顔を直接的に見る事はできないので、間接的に鏡や写真を通じて見るが、 見るたびに、自分の顔面は変化している。本当の自分の顔はどれなのか不明である。 そして、自分が如何なる人間なのか、 いまだ解明できないで、今日に至っている。







無頼悠遊浪人四十五面相














波乱の多い生涯を送って来ました
(八十八歳の記)

私は、すっかり老いぼれに成りました。
顧みれば、生まれてきた時から今日までに、事故や病気などで、幾度となく、 心身は傷つき、時には生死の境をさ迷いましたが、幸いにも奇跡的に生きています。


2021年9月1日~13日
老弱老耄老醜の風貌








☆ 希望の中に生き抜く ☆
~コロナ禍の下で~


~ 2020年 ~ 2021年 ~

  私は、コロナ禍の浮世に、しなやかに生きています。
  老い耄れになりましたが、さわやかに生きています。

  あいかわらず、気儘な散歩旅と絵描きをしながら、
  いま、元気で生きている事の慶びを享受しています。

  時々、老人特有の疾病を実感する事がありますが、
  「しなやかな強さ」を構築しながら、肉体の劣化を防ぎ、
  健康第一を心掛けて、長い老春の旅を続けています。

  お陰様で、アートの世界で、修行悠遊しております。
  今後も、希望を持って、生きて生きて、生き抜きます。
  ありがとうございます。










※ 雑記帳
心の旅~表現の世界






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