画家の堀文子と絵師の葛飾北斎



私には、尊敬する画家が沢山に存在します。しかし、
その中でも、画家・堀文子と浮世絵師・葛飾北斎の
二人の画家に、特別な関心と魅力を感じています。



画家・堀文子氏は、
私が最も尊敬している画家の一人です。




         私は、数冊の堀文子の著作品を閲覧/拝読しました。
         心が洗われるような箴言の書物と美しい絵画集でした。

         更に、日本各地の美術館で、
         堀文子氏の絵画作品を直接鑑賞しました。
         私は、見事な素晴らしい作品にすっかり感動しました。






画家・堀文子さんが、残された名言を集めました


☆私どもは、自分と言うものが、 大体分からないんです。 やはり一生涯、自分は何者であるか探り続ける。 そして、彷徨っているのが人間ではないでしょうか。

☆生きるとは、変わっていくこと。

☆一生は一回しかないんですよ。

☆人間は欠陥が大事なのです。

☆いつも「現在」に興奮していたい。


 ☆「過去の自分」より「現在の自分」を信じる。

 ☆自分が一番だと傲慢にさえならなければ、
 常に得るものはあるのです。

 ☆自然界は、すべてよし。
 自然の命は、どの瞬間も良いものです。
 いけないと言うものは自然界にはありません。
 自然をきちんと見ていれば学ぶことばかりです。

 ☆忘れないことも、忘れることも、 今を生きる人間としてはどちらも大切。

 ☆「知る」欲求が絶えないから、人生に飽くことがありません。

 ☆”生命”は、生きる時は生きるし、死ぬときは死ぬ。
 今を一心不乱に生きていれば、いいのだと思います。

 ☆体が衰えるのは自然の摂理。でも、感性は衰えない、と感じています。

 ☆価値観はその人個人のもの。千差万別でいいはずです。

 ☆自分の志を守るためには、嫌われることも恐れてはいけない。

 ☆「恥を残して死にたくない。」なんて焦ったこともありましたが、
   この恥を見て笑った人もいずれ死ぬんですから、「まあいいや」
   と思うようになり、整理の出来ないまま年をとりました。

 ☆人は日々のしくじりと悔恨を背負いながら、
 二度と帰らぬ時の流れに身を委ねて生きるのだ。
 修正のできぬ過去をきっぱりと捨て、
 何が起こるか分からぬ未知の明日を,心を空にして迎えたいと思う。

 ☆他人がどう生きようと、その人の勝手。もし価値観が合わないのなら、
 その人から遠ざかればいいだけの話です。

 ☆誰だって、他人に言いたくないことがあります。
 お互いに向いている方向も育ちも違います。
 知人であれ、友人であれ、
 他人に深く入り込まないのが、おつきあいの礼儀。

 ☆親しき仲こそ、互いの領域に立ち入らない。

 ☆いつでも感動していたい。
 そのためにも、私は自由に生きたいのです。

 ☆天性、人間はひとりぼっちです。 一人が当たり前なのです。
 だからこそ、友人も必要ですが、それと同時に、自分の人生は
 自分で決めるしかないという孤独と向き合わなくてはなりません。

 ☆何も持たないことは、すべてを持っていること。

 ☆群れない、慣れない、頼らない。

 ☆老人は忙しい。近づいた死を想い煩うほど、
 私の終末はなかなか、忙しくなってきたのです。

 ☆身体が衰えてきますと、
 誰でもが何も出来ない諦めの老人と思うでしょう。
 けれども、私は知らなかったことが日に日に増えてきます。
 いままで「知っている」と思っていたことが、
  本当は「知らなかった」と。それが、だんだん分ってくるのです。

 ☆息の絶えるまで感動していたい。

 ☆人間も、環境も、常に変化する。だから、面白いのだと思います。

 ☆私の中に潜む未知の能力が、まだ芽を吹いてないんじゃないかと、
 諦めきれないでいるんです。

 ☆現状を維持していれば無事平穏ですが、
 新鮮な感動からは見捨てられるだけです。

 ☆反省なんてしないで、自分のことを「バカー!」って叱るのがいちばん。
 バカでいたくなければ、自分でなんとかするでしょう。

 ☆奢らず、誇らず、羨まず、欲を捨て、
 時流をよそに脱俗を夢みて、私は一所不在の旅を続けてきた。

 ☆自分の無能を恥じ、己との一騎打ちに終始し、
 知識を退け、経験に頼らず、
 心を空にして日々の感動を全身で受けたいと心掛けた。

 ☆肩書きを求めず、ただ一度の一生を美にひれ伏す、
 何者でもない者として送ることを志してきた。

 ☆人を見る時も本能で、好きか嫌いかで、損得では決めません。
  地位や名誉、肩書きなんて移ろいやすいもので、
 それに振り回されないようにすることです。

 ☆恥を笑われることの心配をしているより、
 折角生きているのだから、したいことをしたいと思います。
 もう時間は残りすくないのです。

 ☆「旅はひとり」と言う信条に従って、
 言葉も出来ぬのに、海外での一人旅を続けてきた。

 ☆主張せず、押し付けもせず、
 雲や水のように形を求めず、行方もしれない絵。
 修練や努力も役立たず、定義の仕様もない。

 ☆私は絵で自己主張しょうという意思もなく、名を揚げようという気も無く、
 心に響く美しいものを記録しながら此処まで来た。

 ☆その時その時をどう生きているか、
 その痕跡を絵に表すので、一貫したした画風が私にないのだ。
  結果として画風が様々に変わって見えても、
 それはすべて私自身なのである。

 ☆「絵とは?」年とともに
 益々その意味も効用も解らなくなる、この原始的行為。
 言葉の助けも借りず、絵は通訳なしに時空を超えて、
 人の感性と交信することができ、その働きは自由この上ない。

 ☆絵は結果です。排泄物みたいなものです。
 何故此の絵かと言われても、本人だって分からないのです。
 文字も言葉も生まれない時から人は何かを刻んだり記録していたり
 したのではないでしょうか。踊ったり、走ったり、食べたりする事
 と同じじゃないでしょうか。

 ☆大切なことは人に相談しない。大事なことは自分で責任を持つ。

 ☆あるものは、無くなる。
  独りで生きられるようにしなければならない。

 ☆人はみな、自分と言うものが分からないものです。
  一生涯、自分は何者であるかを探り続け、
   彷徨っているのが人間なのではないでしょうか。

 ☆それに耐えるだけの体力と気力がないと、真剣に遊ぶことも出来ない。

 ☆人間に屈服しないためには、闘わなければなりませんが、
  私は闘うのが嫌いです。そうなると、脱走するしかない。
 こんな子供じみた解決をする自分を恥じながら、私はその後も、
 「闘わず屈服せず」という姿勢で、生きてしまいました。

 ☆吹雪となって花は散っていった。すべてが夢か幻だったように。
 どんなに惜しんでも、時の流れのなかに
 かき消えていかねばならぬ花の命のはかなさを、
 私達は己の行く末の姿として見据えているのではないか。

 ☆生きるものはやがて死に、会うものは別れ、
 財宝も名利も仮の世の一時の驕りであることが
 否応なく見えて来る今日この頃である。

 ☆此の先、どんなことに驚き熱中するのか。
 私の中の未知の何かが芽を吹くかもしれないと、
 これからの初体験に期待がわく、
 私にはもう老年に甘えている暇などないのだ。

 ☆私も機嫌よく死にたい。
  生き生きと死にたいということは、沢山の先輩から学びました。
 そういう方がこの世からどんどん消えてゆきます。

 ☆死は、人間に課せられた一度きりの初体験であり、
 誰の真似もできず、誰の助けを借りることも出来ない。
 私が、これから、どのような過程で死を迎えるのか、
 私は私の成り行きを眺めるつもりである。

 ☆九十の歳を迎えた今、逆らう事を忘れ、成り行きのままに
  生きる安らぎの時が、いつの間にか来たようだ。

 ☆自分など、もともと、無かったのだ。心さえ妄想だ、と、しきりに思う。

 ☆私は、その日、その日の現在に熱中し、
 無欲脱俗を忘れず、何物にも執着せず
 私流の生き方を求めて歩き続けて参りました。
 これが、私の生きた道です。

 ☆死は、終わりでなく、次の生命の始まりです。






画家・堀文子が描いた自画像です。




堀文子の作品














堀文子氏の来歴

永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府立第五高等女学校(現・都立富士高等学校)、女子美術専門学校師範科日本画部(現・女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)を卒業。府立第五高等女学校時代に自宅近くで二・二六事件に遭遇した。 女子美術専門学校在学中の1938年に第2回新美術人協会展入選。1940年に女子美術専門学校を卒業し新美術人協会会員。『キンダーブック』(フレーベル館)、『ふたば』などで挿画や装幀を描き生計を立てる。 29歳の時に外交官の箕輪三郎と結婚するも43歳のときに死別。

1961年から1963年にかけ世界放浪の旅へ出る。旅の中でアンフォルメル、シュルレアリスムの影響を離れ、日本画の持つ色彩や顔料の美しさに回帰する。 1967年に神奈川県大磯に転居。1974年創画会の結成に参画。

1974年に多摩美術大学日本画科教授に就任。その後、多摩美術大学客員教授として日本画の指導を行う。1999年に多摩美術大学客員教授を退任。 1981年に軽井沢にアトリエを構える。1987年にイタリアアレッツォにアトリエを構える。1992年にアレッツオ市で堀文子個展を開催。1995年にアマゾン川、マヤ遺跡・インカ遺跡へスケッチ旅行。1999年に創画会を退会。 2011年に女子美術大学より名誉博士の称号を得る。

2000年、82歳の時に幻の高山植物ブルーポピーを求め、ヒマラヤ山脈の高地を踏破(「アーティストたちの挑戦 ヒマラヤ 高き峰をもとめて 日本画家 堀文子」(NHK収録/放送、2000年)。2001年に解離性動脈瘤で倒れて以降、長期間の取材旅行に出かけられなくなったことから微生物に着目し、海中に生きる命をモチーフとする作品を発表。これらの作品は画文集や個展で発表された。

自然の中に存在する命や花鳥をモチーフとする作品を多く制作し「花の画家」と呼ばれた。専門の日本画の他、装幀、随筆でも多くの作品を発表した。神奈川県大磯町に在住していた(2012年時点)。 2019年2月5日午前0時56分、心不全のため平塚市内の病院で死去。100歳没。


主な著作
*楽園幻想 (吉行和子 文 講談社 1997年5月)
*ホルトの木の下で(幻戯書房、2007年)
*対談集 ―堀文子 粋人に会う―(清流出版、2009年)
*ひとりで生きる 堀文子の言葉 (求龍堂 「生きる言葉」シリーズ 2010年2月)
*堀文子美の旅人 画家のまなざしと心を追って 飯島幸永写真集 (実業之日本社 2010年4月)
*老いて、若返る 人生、90歳からが面白い (日野原重明共著 小学館 2011年4月)




私は、 画家・堀文子氏の肖像を描きました。




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私が模写し描いた浮世絵師・葛飾北斎の自画像


神奈川沖波裏                     凱風快晴




葛飾北斎


没年:嘉永2.4.18(1849.5.10)
生年:宝暦10.9.23?(1760.10.31)
江戸後期の浮世絵師。浮世絵師のなかで最も長い70年余の作画期中,画風を次々と変転させながらも各分野に一流を樹立した浮世絵派を代表する絵師。のみならず印象派をはじめとする近代の世界美術に多大な影響をおよぼし,今日国際的に評価されている。

江戸本所割下水の川村家に生まれ,幕府の御用鏡磨師中島伊勢の養子となる。俗称鉄蔵,晩年は三浦屋八右衛門と名乗る。(勝川)春朗(1779~94頃),宗理(1794~98),北斎(1796~1814),戴斗(1811~20),為一(1820~34),卍(1834~49)の主要な画号のほか,画狂人(1800~08)など三十余の号を使用した。

画業は主要画号の使用時期を基準に6期に区分するのが一般的である。春朗期は,勝川春章に入門したとされる安永7(1778)年から勝川派を出る寛政6(1794)年ごろまで。初作は安永8年の細判役者絵3点。細判役者絵を中心に多種多様な画作をしており,習作期ということができる。次が寛政10年までの宗理期。狂歌本の挿絵,摺物,肉筆美人画を主とし,北斎独自の「宗理型美人」を創出して人気絵師となる。この宗理期から次の北斎期にかけては積極的に諸派諸流を研鑽しており,狩野融川,3代堤等琳,住吉広行らに学んだと伝えられている。

続いて文化11(1814)年ごろまでの北斎期。この期は,北斎の画業の一大進展期,様式の確立期であり,あらゆる分野に活躍したが,『隅田川両岸一覧』(1806頃)などの絵入狂歌本,長判を主体とする摺物,「くだんうしがふち」に代表される洋風風景版画,『小説比翼文』(馬琴作,1804)にはじまる読本の挿絵,宗理型美人をさらに発展円熟させた肉筆美人画はそのなかでも特筆に価しよう。

その後の戴斗期は短いが,『北斎漫画』(初編は1814年刊)を続刊するなど,絵本・絵手本に主力を注いだ時代である。為一期の前半は色紙判の狂歌シリーズ摺物が注目され,後半は「富岳三十六景」(1831~34頃)46枚に代表される風景版画・花鳥版画の大成期であり,著名な風景版画のシリーズはこの時期に集中している。最晩年の卍時代は,『富岳百景』(初編は1834年刊)などの絵本・絵手本類と肉筆画に専念した。卍期の肉筆画には超俗的で異様な妖気が漂い,老いてますます絵に没入する北斎の面目躍如たるものがある。

生涯に30度以上居を変え,金銭に無頓着で身なりかまわず,人を驚かすことが好きであった北斎は,自らの造形力の向上を信じて画業一筋に生きた“画狂人”であった。『富岳百景』初編には自ら「九十歳にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん歟百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん」云々と記している。

<参考文献>飯島虚心『葛飾北斎伝』,楢崎宗重『北斎論』,鈴木重三『人間北斎』,安田剛蔵『画狂北斎』,永田生慈『葛飾北斎年譜』 (浅野秀剛)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版/朝日日本歴史人物事典について 情報





葛飾北斎の自画像





葛飾北斎の作品








世界的に有名な葛飾北斎


北斎の絵はすでに江戸時代末期から外国で知られていて、例えばオランダ商館の医師として来日したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年から1866年まで)が、1832年から1851年までにかけて出版した自著『Nippon』の挿図に『北斎漫画』の図柄を用いています。
しかしながら、その名がより広範に知れ渡ったのは、1867年のパリ万国博覧会を皮切りにジャポニスム(日本趣味)が起こってからです。この博覧会で数多くの美術工芸品とともに浮世絵が紹介され、その大胆な構図や明るい色彩は、従来のヨーロッパの絵画にはなかったものであり、ヨーロッパの芸術家たちに大きな影響を与え、印象派誕生のきっかけとなっています。

北斎に影響を受けた画家には、ビンセント・ヴァン・ゴッホ(1853年から1890年まで)やエドガー・ドガ(1834年から1917年まで)などがいて、ドガは『北斎漫画』を参考にした人物像を描いています。また、アンリ・リヴィエール(1864年から1951年まで)は、「冨嶽三十六景」を下敷きに「エッフェル塔三十六景」という版画シリーズを制作し、アール・ヌーヴォーを代表するガラス工芸家のエミール・ガレ(1846年から1904年まで)は、『北斎漫画』の鯉を図案に取り入れた花瓶を世に送り出しています。音楽家のクロード・ドビュッシー(1862年から1918年まで)も「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」に発想を得て、交響詩「海」を作曲したとされています。

このようにヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えた北斎は、世界における評価が高く、1960年には、ウィーンで開催された世界平和評議会の席上において、世界の文化巨匠として顕彰され、また1998年には、アメリカの有名なフォトジャーナル誌『LIFE』が発表した『ザ ライフ ミレニアム』の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」の中で、日本人で唯一北斎が選ばれています。

出典:すみだ北斎美術館






私が模写し描いた浮世絵師・葛飾北斎の自画像









★ 葛飾北斎の情念を探して ★



 私は、遅蒔きの自称:悠遊浪人ですが、
 画狂人と称した浮世絵師・葛飾北斎のように、
 弐万点を超える絵画を制作してみたいです。
 そして、自分流独特の様式を確立してみたいです。

 私は、平凡な愚者ですが、
 浮世の評判など気にせずに
 放埓老人と言われるほどに
 自由奔放な生活をしてみたいです。
 
 私は「生と死」の狭間を幾度も彷徨しましたが、
 お陰様で、不思議にも奇跡的に生き続けています。
 折角、元気で生かされているのですから、
 残りの人生で、したいことを、してみたいです。






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吉川和夫の変化~空間と面相

(年年歳歳=時の流れ)



富嶽三十六景で有名な浮世絵師である葛飾北斎ですが、
実は引越し魔としても有名でした。 その生涯での引越し回数はなんと93回! 90歳という長命でもあったのですが、 単純計算で1年に1回以上引越しをしていたことになります。
私は、生涯において23回転居しました。



  < 転居先の記録 >

1933年に浜田市で生まれ、18年間ほど育って
1952年、島根県立浜田高等学校を卒業してから、
諸般の事情により、生涯に23回転居しました。


  1952年~1958年
  1952年、東京都世田谷区奥沢
  1952年、東京都世田谷区東玉川
  1953年、東京都世田谷区若林
  1954年、東京都台東区下谷
  1955年、島根県浜田市三隅町
  1955年、東京都品川区中延
  1955年、東京都大田区田園調布

  1958年~1962年
  1958年、東京都港区麻布笄町
  1958年、京都市下京区六条室町
  1959年、鳥取県東伯郡三朝町
  1960年、鳥取県米子市博労町
  1961年、東京都世田谷区桜丘

  1962年~1975年
  1962年、横浜市神奈川区白楽仲町
  1964年、東京都町田市玉川学園
  1968年、宮城県仙台市青葉区北山
  1971年、東京都台東区入谷
  1971年、東京都目黒区目黒本町


  1975年~1993年
  1975年、兵庫県西宮市仁川
  1979年、兵庫県芦屋市西蔵町
  1980年、東京都狛江市東野川
  1983年、東京都町田市玉川学園
  1987年、神奈川県横須賀市野比

  1993年~
  1993年、東京都町田市玉川学園





     < 日本列島各地への旅行/居住記録 >

  北海道地方 通算10回旅行
  東北地方  約3年間居住(宮城県3年)
  関東地方  約57年間超居住 (神奈川県6年、東京都51年)
  中部地方  100回超旅行し、回数は数えきれない
  近畿地方  約8年間居住(京都府1年、兵庫県7年)
  中国地方  約20年間居住(島根県18年、鳥取県2年)
  四国地方  通算3回旅行
  九州地方  通算6回旅行
  沖縄地方  通算5回旅行




~ ある日、長崎市へ旅する ~


(2013年5月、長崎市の浦上天主堂を訪問)



(浦上天主堂に保存されている被爆マリア像)



(2013年5月20日、長崎市東出津町の遠藤周作文学館にて)







~ 時が進むにつれて ~

孤独を楽しむ



(2014年7月16日、長野県志賀高原にて)


(2015年6月16日、カザフスタンの首都アスタナにて)


(2016年6月12日、アイスランドの首都レイキャビックにて)


(2017年7月12日、北海道室蘭市地球岬にて)






~ 変貌 老い耄れて行く ~ 

泡沫(うたかた)を見る




(2018年7月9日、中国の万里長城にて)


(2019年3月10日、東京六本木の国立新美術館にて)


(2020年2月23日 町田市国際版画美術館にて)



(2021年4月19日 町田市 芹ヶ谷公園にて)





★★★ 未来に希望を持って ★★★ 

しなやかに生きる




2022年03月16日
国際版画美術館/友の会展にて




2023年02月26日
国際版画美術館/町田市民美術展にて



2024年02月24日 町田三田会美術展
町田市民ホール ギャラリーにて







無頼悠遊浪人の百面相
~~~~~~~~~~~~~~~~

私は、人物画を描くので、顔=面相には特別の興味があります。
『40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て』と主張する人物が居ます。 大概、人間の習慣や癖そして性格は、顔=面相に影響を及ぼすものだと言う説明・主張です。

自分の顔面は好きではないし、嫌いでもないですが、時と場所で変化する自分の面相を ありのままに観察し、受け入れています。 自分の顔を直接的に見る事はできないので、間接的に鏡や写真を通じて見ていますが、 見るたびに、自分の顔面は変化しています。本当の自分の顔=面相はどれなのか不明なのです。 そして、加えて、自分が如何なる人間なのか、いかなる性格なのか。 いまだに解明できないままで、今日に至っています。



1~4


5~8


9~12


13~16


17~20


21~24


25~28


29~32


33~36


37~40


41~44


45~48


49~52


53~56


57~60


61~64


65~68


69~72


73~76


77~80


81~84


85~88


89~92


93~94




☆ したたかに生きるとは ☆



 強かさの本質は、
 先ずは自分の目の前で起こっていることを
 どう見るかである。

 そこが借り物では全てが崩れる。
 感覚を磨く。
 事態を直覚する。

 知識の呪縛を排除する。
 自分の心をゼロにする。
 ここに強かさを発揮する真理がある。









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