KK少年は、太平洋戦争中に国民学校において
「天皇陛下のために、命を捧げろ」と教育された



KK少年は、大東亜戦争中、毎日、毎日、必ず、義務として、
現御神(天皇)が御座なさる皇居(奉安殿)に向かい遙拝をしました。

☆奉安殿とは

​ 学校に下賜された「御真影(ごしんえい)」や教育勅語など勅語類を安置する建物。天皇・皇后の写真である「御真影」と勅語の諸学校への下賜は1890年(明治23)に始まるが、その下賜数がしだいに増加するとともにその管理規定も厳重となり、管理の不行き届きは学校長などの重大な責任問題とされるに至った。「御真影」などは当初校舎内の奉安所に安置されていたが、学校の火事に際して「御真影」を守って焼死する校長などが相次ぐなかで、校舎から離れた地点に堅固な奉安殿を建設し、「御真影」などを安置することが大正期から始まった。奉安殿の建設は1935年(昭和10)以降全国的に実施され、「御真影」はますます神格視された。

~昭和16年=1941年~

★1941年3月、 国民学校令が公布された。
1941年4月からそれ以前の小学校が国民学校に改められた。 「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的とした。 すなわち、国民学校は戦時体制に即応した国家主義的な天皇制軍国主義教育を行なった。

★1941年9月6日、
昭和天皇(現御神=アキツミカミ)と重臣らによる御前会議で、陸軍大臣東条英機が強硬に日米開戦を主張、 「帝国国策遂行要領」を決定、日米交渉が10月上旬までに打開されない場合は、開戦を決意するとされた。
近衛文麿首相は日米交渉の継続を希望し、みずからフランクリン=ローズヴェルト大統領と折衝したがかなわず、 ついに、10月18日に総辞職した。

★1941年10月18日、
昭和天皇は熟慮の末に、現役陸軍大将である東条英機に内閣総理大臣の大命を下した。

★1941年11月5日,
昭和天皇(現御神=アキツミカミ)と重臣らは、御前会議で対米交渉打ち切りの場合、12月初旬の開戦を決断した。


★1941年12月1日、
昭和天皇は御前会議において、日米交渉決裂の結果、東條内閣は日本時間12月8日の開戦を最終決定した。 (佐賀藩出身の海軍大将百武三郎侍従長の日記によれば、昭和天皇は日米開戦について、迷うことなく前向きであったと記述している。)

★1941年12月8日、
昭和天皇は日米開戦に迷うことなく前向きだった。イギリス帝国とアメリカ合衆国の2国に対して宣戦布告しました。 最初の作戦であるマレー作戦と、それとほぼ同時並行に行われた真珠湾攻撃を実施しました。 日本とイギリス、アメリカとの間に戦争が発生しました。




*その時、昭和天皇(現御神=アキツミカミ)が統帥する軍隊が、
「米国のハワイ真珠湾」を奇襲攻撃した時には、KK少年は8歳でした。

~昭和17年=1942年~

★1942年6月、
大日本帝国海軍がミッドウェー海戦で敗れる。=(戦局の転機)
太平洋戦争が始まってから約7ヵ月後、南雲忠一中将率いる「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母四隻を撃沈され、 開戦以来はじめての大敗を喫した。

★1942年7月2日~3日、
南太平洋のマキン、タワラ両島の日本軍守備隊が全滅。

★1942年8月7日から1943年2月7日にかけて、
西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島で行われた戦いで、日本軍は敗れた。 交戦勢力はアメリカ・オーストラリア・ニュージーランド・イギリスなどの連合軍だった。 これ以降、日本軍の敗戦色がますます濃厚になっていった。

~昭和18年=1943年~

★1943年5月、アッツ島玉砕
アッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日に玉砕した。 太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、 また第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた地上戦である。

★1943年10月21日、
東京の明治神宮外苑競技場では文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、 東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。 東条英機首相は「天皇陛下♪バンザイ♪」と大声で叫んで、学徒を戦地に送り込みました。


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*KK少年は、大東亜戦争中において、来る日も来る日も、月月火水木金金の休日なしの勤労奉仕という過酷の肉体労働をしました。 通学用品は、ランドセル、教科書、ノート、鉛筆などではありませんでした。草刈り鎌、農耕用鍬、荷運びの竹製笈こそが必携の学用品でした。 校舎内教室で、教科書を開いて勉強した記憶はありません。

*KK少年は、国民学校では、堆肥つくり、田植え、芋栽培、稲刈り、麦刈り、カボチャ栽培、大豆栽培などの農業に従事しました。 それから、稲草履つくり、草鞋つくり、山からのマキ燃料の運搬、日本海の浜辺での塩田作業、養蚕用桑の皮剥ぎ作業 、軍事用皮革製造に必要なウサギ飼育などの労働に従事しました。

*KK少年は、国民学校では、登校・下校においては、集落の児童がグループを結成して、二列縦隊で行進しました。行進では、軍歌「露営の歌」などを唄いました。 「勝って来るぞと勇ましく、誓って故郷(くに)を出たからにや、手柄立てずに死なりょうか。進軍ラッパ聞くたびに、瞼に浮かぶ旗の波。」 「思えば昨日の戦いに朱(あけ)に染まって、にっこりと、笑って死んだ戦友が、天皇陛下万歳と残した声が忘すらりょうか。」と、 雨の日も、風の日も、雪の日も、広大な田圃の中の通学路を、大声で唄いました。

*KK少年は、国民学校では、毎朝、奉安殿(現御神の御真影)に向かって最敬礼を致しました。 東に向かって、皇居(昭和天皇の居所)への遙拝は最重要義務でした。 明治節(明治天皇の偉勲を讃える日)や天長節(昭和天皇への忠誠日)などの儀式があるときは、 国家「君が代」は勿論のこと、天皇陛下の御為に名誉の戦死を讃える歌として「海ゆかば」の 歌を厳粛に唄いました。「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、帰りみはせじ」と。 儀式の予行練習では、学校教頭が、必ず、行儀の悪い児童にビンタ暴力を実行しました。

~昭和19年=1944年~

★1944年7月9日、サイパン島陥落、玉砕


★1944年7月9日、東条内閣は総辞職した。
後継には、小磯国昭が首相に就任した。
マリアナ沖海戦とそれに伴うサイパン陥落によりアメリカ軍による本土爆撃(日本本土空襲)が容易になったことから、岸信介商工相(戦後に首相も歴任)が「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言し、「ならば辞職せよ」という東條首相の要求を岸が拒絶したため閣内不一致となり、1944年(昭和19年)7月9日のサイパン陥落の責任を取る形で7月18日に東條内閣は総辞職した。後継には小磯國昭が首相に就任し、小磯内閣が成立した。

★1944年7月、インパール作戦失敗

★1944年8月11日、
グアム島では、追い詰められた小畑中将と 部下の将兵60人は、 叉木山の壕で 自決。これをもってグアムの日本軍守備隊による組織的戦闘は終結した。 のちに、生き残った横井庄一氏によって、大日本帝国軍隊の蛮行が語られている。 占領下において、日本軍によるグアム島住民への無差別殺人があったと語られている。

★1944年9月15日、
アメリカ軍はペリリュー島に、そして二日後にアンガウル島に上陸しました。 アンガウル島では、約1,200人の守備隊が2万人を超えるアメリカ軍と戦い、およそ1か月後、負傷し捕虜となった60人を除いて玉砕しました。すなわち「天皇陛下バンザイ」と言って犬死した。
ペリリュー島では、守備隊約1万人に対しアメリカ軍は延べ4万人で挑みました。 すぐに島を落とせるとアメリカ軍指揮官は楽観していましたが、洞窟陣地にこもり、火力を集中する日本軍に甚大な被害を被りました。 激戦は約2か月続き、最終的にアメリカ軍は死者1,684人、負傷者7,160人、日本軍は戦死10,022人、捕虜となり生還した兵は446人でした。

★1944年10月19日、
日本海軍が神風特攻隊を編成しアメリカ軍艦への体当たりを計画する。 10月20日、アメリカ軍第4個師団がフィリピンのレイテ島に上陸する。神風特攻隊が初めて出撃する。 レイテ沖海戦で日本海軍は壊滅被害を受けた。



*国民学校では、昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に戦地へ出征する兵士を鉄道駅の駅頭まで見送りしました。その駅頭では 「海ゆかば」の歌を唄って、出征兵士の名誉を讃えました。まさに、その駅頭から、英霊として帰還した兵士の葬列に加わり、 悲しい想いをしました。肉親や親戚、近所の人達が戦争犠牲者となりました。人間の生命は鴻毛よりも軽く、 昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に死ぬことこそ、大変な名誉であるという価値観を強要した教育が行われました。

*国民学校では、教室で、国語・算数・理科などの教科書などを開いた記憶が無く、鉛筆や筆類を握った記憶すら皆無です。 英語は敵国語として扱われて、ABCの文字すら知りませんでした。もちろん、図画という美術教育など全くありませんでした。

*国民学校の体育教室(講堂)や野外演習場(校庭)では、教官や上級生は、「天皇陛下の命令と思え」と、 軍隊規律を悪用して、ビンタや鉄拳で、 時には木刀で、弱い者イジメを公然としていました。鉄拳制裁で暴力を振るう教官に対して、 KK少年は大変な恐怖心を覚えました。

「玉砕」の記事における「本土決戦と一億玉砕」の解説

戦局が絶望的となると、軍部は「本土決戦」を主張し、「一億玉砕」や「一億(総)特攻」、「神州不滅」などをスローガンとした。なお既に1941年(昭和16年)から「進め一億火の玉だ」とのスローガンが使用されていたが、これらの「一億」とは、当時日本の勢力下にあった満洲・朝鮮半島・台湾・内南洋などの日本本土以外の地域居住者(その大半が朝鮮人や台湾人)を含む数字であり、日本本土の人口は7000万人程であった。
1944年(昭和19年)6月24日、大本営陸軍部戦争指導班は機密戦争日誌に以下の記載をした。 もはや希望ある戦争政策は遂行し得ない。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄を待つのみ — 半藤一利「聖断 ―昭和天皇と鈴木貫太郎―」PHP研究所 p269 1944年(昭和19年)9月、岡田啓介は「一億玉砕して国体を護る決心と覚悟で国民の士気を高揚し、其の結束を固くする以外方法がない」と主張した。
1945年(昭和20年)1月24日、近衛文麿は「昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候」と昭和天皇に警告した(近衛上奏文参照)。同年4月、戦艦大和の沖縄出撃は、軍内の最後通告に「一億玉砕ニサキガケテ立派ニ死ンデモライタシ」(一億玉砕に先駆けて立派に死んでもらいたい)との表現が使用され、「海上特攻」または「水上特攻」とも呼ばれた。

【参考】
1944年秋、連合国軍が国境を越えてドイツに進攻すると、ナチス・ドイツ政権は第三帝国の防衛のため、 「国民突撃隊」と呼ばれる部隊に、60歳を超える高齢者と共に10歳以上16歳未満の子供を徴兵しました。

ナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)による支配下の、 1933年から1945年までのドイツ国に対する呼称である。 社会のほぼ全ての側面においてナチズムの考え方が強制される全体主義国家と化した。

1939年9月1日にポーランドに侵攻しヨーロッパにおける第二次世界大戦を引き起こすも、 戦況の悪化の末ヒトラーが自殺し、1945年5月に連合国軍に敗北、解体され滅亡した。

~昭和20年=1945年~
「本土決戦と一億玉砕」

★1945年2月14日、
近衛文麿公爵は吉田茂などと相談し、米英との早期講和を謀り「上奏文」を昭和天皇に提出した。 昭和天皇は早期講和ではなく、一度華々しい戦果=「本土決戦での勝利」をあげ、米英に対し有利な状況で講和を模索するべきだという、 いわゆる「一撃講和」を唱え、近衛公爵による上奏を退けたのであった。

*「一撃講和」を唱えた昭和天皇は、「本土決戦」「一億玉砕」を強行した場合には、 多くの国民が犠牲になる事など考慮したでしょうか。 近衛公爵や吉田茂などの意見を無視し、陸軍上層部の意見を信用し採用して「本土決戦での勝利」を目論んでいたと考えられます。

*国民学校では「本土決戦」に備えて軍事訓練が実施されました。鬼畜米英兵士を殺す竹ヤリ突撃演習が連日行われました。 耳を破裂させるような怒号に近い、教官の軍事命令には閉口しました。 その怒号には、KK少年にとって、時には、恐怖心で、頭が真っ白になってしまう事がありました。

*国民学校は、上級生児童に鬼畜米英兵士を殺すための訓練場でした。 やんちゃで遊び盛りのKK少年にとっては、国民学校は不愉快極まりない場所でした。
昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に、 竹ヤリを持って突撃して敵国アメリカ兵を殺す訓練を受けたことは、永遠に忘れる事ができません。 なお、ひ弱なKK少年は、軍事教練に就いてゆけない落伍者でした。

★1945年2月、島根県立浜田中学校の受験の試験科目は軍事教練だった。戦時中の紙不足の為、ペーパー試験はなかった。 その試験中に、㏍少年は教官の軍事命令に即座に反応できず、怒号のような軍事命令に困惑した。暫しの間、㏍少年考えていた。 軍事教官の大声「命令が分からんのか」怒号が飛んで来た。KK少年は蒼白になったまま立ち尽くした。その結果、 敵の鬼畜アメリカ兵と戦う精兵としての能力がないと判定されて、中学校への入試は不合格だった。

★1945年3月、硫黄島陥落、玉砕

★1945年3月10日、東京大空襲


東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、 特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。 その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)を指す。 この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。 東京大空襲の惨状をご視察なされた昭和天皇(現御神=アキツミカミ)のご気分は、如何ばかりだったでしょうか。

★1945年3月26日~9月7日、沖縄戦

沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は4月2日に開始、6月23日に終了した。

*戦争はふつう、軍隊と軍隊、軍人と軍人が戦うものだが、沖縄戦は、10代前半の子どもも含む住民が、 足りない軍人の代わりや手伝いをさせられたりした。軍人も、武器をもたない住民も、ごっちゃになったまま地上戦が続いた。 日本軍が南部に追い詰められてからは特に、米軍の無差別な攻撃に、軍人も、住民も次々と命を奪われていきました。 こうしたことで、沖縄戦では、軍人よりも住民の命が多く失われたと言われる。

*沖縄戦の教訓として「日本軍隊は沖縄住民を守らなかった」と語りつがれている。日本兵に命を助けられた人はいるが、 でも、日本兵に命を脅かされたり、スパイとみなされ、実際に命を奪われたりした沖縄住民が沢山にいる。

*1945年5月末に、沖縄戦において、日本軍・第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退したが、6月下旬までに組織的戦力を失い、 6月23日には牛島満司令官らが自決しました。 その後も掃討戦は続き、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、 最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日である。

*1945年6月23日、義勇兵役法が公布され、即日に施行された。
この時に、太平洋戦争末期に連合軍の日本本土侵攻が切迫した状況にあった。これに対処(「本土決戦」)するため、兵役法の徴兵対象を拡大して「真に一億国民を挙げて光栄ある天皇親率の軍隊に編入」し全国民を軍事組織化することを意図して制定された。小磯内閣の掲げた「一億玉砕」の具現化である。 幼いKK少年も、天皇陛下の御為に「玉砕」せよとの命令と受け止めました。

*私の父に、赤紙・召集令状が来た。(当時、彼は42歳だったが在郷軍人会の会長をしていた。) 直ちに、大日本帝国陸軍の浜田連隊へ入隊した。 この夏には、朝鮮半島全羅南道の守備隊へ転戦して行った。

★1945年7月26日、
米英華の3か国(のちにソ連も参加)はポツダム宣言を発したが、 昭和天皇を頂点に戴く日本政府はこれを「黙殺」した。アメリカのトルーマン大統領は、本土決戦による犠牲者を減らすためと、 日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制を目的として、史上初の原子爆弾の使用を決定した。

★1945年8月6日、天気は晴れ。
島根県浜田地方に住んでいるKK少年は、遠く南の空が、広島方面の上空が異様な黒雲に覆われている光景を目にしました。 のちに、それが新型爆弾=原子爆弾の広島市への投下による雲の発生だという事を知りました。暫く、日が経って、 原子爆弾の犠牲者が、我が寒村に帰郷して来ました。その人の顔面は見るに忍びないケロイド状の黒焦げた様相でした。



★1945年8月8日、ソ連が満州侵攻

★1945年8月9日、長崎に原爆投下



★1945年8月15日、
昭和天皇は、 ポツダム宣言を受諾しました。無条件降伏でした。
あの日は、近所に住むMKさんが、帝国陸軍の歩兵第21連隊(島根県浜田市)に出征するので駅頭まで見送った日でした。 天皇陛下の玉音放送を、駅前の知人宅で聴きました。 生き神様である昭和天皇のお言葉は、KK少年には難解で重々しくて理解不能でした。 周囲の大人の話で、大東亜戦争が終わったことを知らされました。

*遂に、天皇陛下(現御神=アキツミカミ)のための戦争が終わりました。 天皇制軍国主義国家が崩壊した事を知りました。


★1945年9月2日、
日本の降伏調印式は、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われました。 その状況はラジオの実況中継で全世界に流されました。 米国トルーマン大統領は、ラジオの実況中継後、全国民向けのラジオ放送で演説しました。 その中で9月2日を正式にVJデー(対日戦勝記念日)とし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのでした。

*戦時中には、わが村落出身の多くの兵隊さんが戦死しました。 昭和天皇が開戦した大東亜戦争が、昭和天皇のポツダム宣言受諾で戦争が終わった。



*大東亜戦争は、昭和天皇が統師する大日本帝国陸海軍が敗れて終戦になりました。 昭和天皇が前向きに考えた米英との開戦は、国力の差を無視した無謀な賭けでした。 そして、それぞれの作戦にも数々の無謀さがありました。昭和天皇には、この戦争を途中でやめ、 講和に向かうという判断力や冷静さが働くことはありませんでした。

*天皇制軍国主義の象徴である奉安殿は解体された。
わが村落の小学校東側の丘の中腹に鎮座していた奉安殿は解体されました。 日本が第二次世界大戦で敗れた年の1945年(昭和20年)12月15日、GHQの神道指令により奉安殿は廃止が決定。同月22日、文部省次官名による実施要領の発令、さらに1946年(昭和21年)6月29日付文部省次官通牒によって、全国の奉安殿を小学校から全面撤去する具体的な指示が出た。御真影は焼却されたほか、建物の多くは解体された。

(備考)
この大戦で、天皇陛下のために
約310万人以上の日本人の生命が失われています。

天皇陛下のために、戦時中、死亡した人々の心情は、
いま思えば、計り知れないものがあると思っています。

昭和天皇は、戦争責任をどのように考えていたのだろうか。
昭和天皇は、戦争での犠牲者への罪悪感はなかったのだろうか。


KK少年は、太平洋戦争中に、天皇陛下のために、
自分の命を捧げることなく、生き延びる事ができた。






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昭和天皇の戦争責任論



戦争当時の日本では国家主権は天皇に帰属し、日本国内でも外国でも天皇は日本の元首であり最高権力者であると認識されていて、戦争を始めとする全ての政治的な決定は天皇の名のもとで下され、遂行されたという歴史的事実から、天皇に戦争責任があったとする主張がある。

極東国際軍事法廷(東京裁判)では天皇は起訴されなかったが、裁判長のウィリアム・ウェブは、個人的な意見として天皇の戦争責任を言及した。
一、天皇の権威は、天皇が戦争を終結された時、疑問の余地が無いほど証明されている。(略)
一、天皇が裁判を免除された事は、国際軍事法廷が刑を宣告するに当たって、当然配慮すべきことだったと私は考える。
一、天皇は常に周囲の進言に基づいて行動しなければならなかったという意見は、証拠に反するか、またかりにそうであっても天皇の責任は軽減されるものではない。
一、私は天皇が処刑されるべきであったというのではない。これは私の管轄外であり、天皇が裁判を免れた事は、疑いも無く全ての連合国の最善の利益に基づいて決定されたのである。 ウェブはこう述べて、天皇には戦争責任があるが、政治的配慮によって起訴されていない事を明らかにした。

また、天皇自身も戦争責任を意識している節は各種証言や手記によって確認されている。ポツダム宣言受諾の際の1条件(国体護持)を巡る回答や、(中曽根らの進言に沿って戦後に退位を望む意向を示したことなど。
天皇の戦争責任を問う声は、敗戦直後からすでに緩やかな形で存在しており、三好達治は人間宣言した天皇について、「神にましまさぬ陛下は、人の子として世の中の道理にお従いになるがよろしい」と述べ、人としての責任を問い、アメリカから帰国した大山郁夫は天皇の退位を論じた。
1948年の『中央公論 昭和23年7月号』に大山郁夫が寄稿した『戦争責任と天皇の退位』では、「それ(=戦争についての天皇の責任)は単純に個人道徳上のそれにあるにとどまるものではなく、さらに・・・政治道徳上の責任に渡るものだと思う」と書いている。

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国内や他国からの反応

具体的には、昭和天皇をアメリカ軍の捕虜として管理し、さらにその捕虜を通して内閣総理大臣及び最高裁判所長官の任命に関与し、内政干渉するという計画書が策定された。

一方で、イギリス、オランダ、中国の各国世論大半からは枢軸国の指導者としてアドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニに並んで、昭和天皇を憎悪の対象として見られた。

1971年(昭和46年)に昭和天皇がヨーロッパを訪問した際、ベルギー、フランスでは歓迎を受けたが日本と交戦国であったイギリス(日英同盟での旧同盟国)、オランダでは昭和天皇に憎悪感情を抱く退役軍人等からの抗議に遭い、イギリスでは馬車に乗っている最中に「天皇は帰れ!!」と抗議を受けた。

イギリスの場合、大衆紙の『ザ・サン』は「血に染まった独裁者」として昭和天皇の写真を掲載し、昭和天皇を「バッキンガム宮殿からVIP待遇を受けた血に染まった独裁者達」として特集していた。1989年2月24日、大喪の礼の際にメディアでは昭和天皇の戦争責任を問う報道があった。

オランダでは昭和天皇が乗車する車に卵や魔法瓶や手植え苗を投げるほど反日感情が根強く、昭和天皇が在位中の1986年のベアトリクス女王の日本訪問はオランダ国内で反対を受けた。

アメリカでは戦争終結直前の1945年6月29日に行われた世論調査によれば、「昭和天皇を処刑するべき」とする意見が33%、「裁判にかけるべき」とする意見が17%、「終身刑とすべき」とする意見が11%であった。

1975年(昭和50年)に訪問したアメリカでは、侍従長入江相政によると「天皇に対する激しい憎しみを露わにしたアメリカ人もいた」といい関係者を悩ませたものの、歓迎ムードであり、後にディズニーランドにも訪問した。また昭和天皇はアメリカ兵犠牲者の慰霊碑に訪問して、アメリカ人を喜ばせている。

しかし後にハーバート・ビックスは著書『昭和天皇』において「昭和天皇が戦争に積極的に関与した」という主張を提示し、論争を引き起こした。

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京都大学の歴史学教授・井上清の主張

昭和天皇は帝国憲法第1条、第3条、第4条において、統治者であること、神聖さ、元首である事が規定されており、大日本帝国の唯一最高の統治者であった。もし裕仁個人が戦争を欲しなくて、臣下に仕向けられたとしても、「結局は天皇が戦争を決意することによってしか」戦争はできない。

「天皇は日本軍隊唯一絶対の統帥権者であった」。天皇は憲法第11条と勅諭によって軍の統帥権者であるとともに忠君の道徳が強調され、上官の命令は天皇の命令として遂行する事が正当化された。参謀本部等は天皇のみの命令を受ける機関であり、規定、命令等は全て天皇に報告され、裁可を受けて天皇の命令として伝達・実施された。統帥権者である天皇が命令指揮しない戦争はないのであり、これだけでも「責任は疑う余地がない」。

さらに天皇は憲法第1条と第3条に規定される神的権威をもっていた。1868年(新暦における明治元年)に天皇が統治者となった時から、政府は「天皇が神の子孫であり、正当支配者であり、日本の国民は天皇を無限に尊崇し、絶対に従わなければならない」という思想・信仰を憲法と教育勅語に経由し3代(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)にわたって国民に植え付けた。こうして「天皇の権威が日本国民をあの戦争へと駆り立てた」のである。1931年から1945年に至るまでの戦争は「犯罪的侵略戦争」であり、天皇は責任を負わなければならない。

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昭和天皇の戦争責任・・・・・山田朗著

昭和天皇の大元帥としての役割、実際の戦争指導の実態をふまえ、その戦争責任を鋭く究明する。第一部では、天皇と軍隊・靖国神社・植民地支配の関係、第二部では、天皇の戦争指導の素養や能力を実例をもとに分析する。第三部では、昭和天皇の回想録である『独白録』と宮内庁編の公式伝記『実録』なども活用し、平和主義者イメージをくつがえす。

目次や構成
まえがき
第一部 大元帥としての昭和天皇

第一章 近代天皇制における天皇
 一 天皇と軍隊
 二 天皇と靖国神社
 三 植民地と天皇

第二章 昭和天皇の満州・朝鮮観と膨張主義思想
 一 張作霖爆殺事件における昭和天皇
 二 満州事変の勃発と昭和天皇
 三 熱河侵攻作戦と天皇の失敗
 四 昭和天皇の朝鮮観

第二部 昭和天皇の戦争指導

第三章 昭和天皇と軍事情報:大本営による戦況把握と戦況奏上
 一 天皇に対する戦況奏上資料
 二 台湾沖航空戦における幻の「大戦果」の奏上
 三 大本営の戦果判定能力
 四 フィリピン沖海戦における損害と「特攻隊」についての奏上

第四章 昭和天皇の戦争指導・作戦指導
 一 ガダルカナル攻防戦と天皇の督戦
 二 天皇による中部ソロモン撤退論批判
 三 天皇の決戦要求と戦略眼

第三部 昭和天皇の戦争責任

第五章 徹底検証『昭和天皇独白録』
 一 『独白録』をつらぬく弁明の論理
 二 『独白録』にみる昭和天皇の戦争指導
 三 『独白録』で語られなかった問題

第六章 徹底検証『昭和天皇実録』
 一 『実録』の軍事面での記述の特徴
 二 『実録』に見る軍事面での新たな発見
 三 『実録』に見る昭和戦前期の諸事件と天皇

第七章 天皇の戦争責任を考えることの意味
 一 現代における戦争責任の追及とは
 二 天皇をめぐる戦争責任論とその歴史的位置
 三 天皇の法的機能からの戦争責任否定論
 四 天皇の「実態」を根拠とする戦争責任否定論

あとがき 日本の戦争 略年表

著者情報
山田朗
1956年、大阪府生まれ。明治大学文学部教授、歴史教育者協議会委員長。主な著書に『日本帝国主義の満州支配』(共著、時潮社、86年)『昭和天皇の戦争指導』(昭和出版、90年)『大元帥・昭和天皇』(新日本出版社、94年)『外交資料近代日本の膨張と侵略』(編、新日本出版社、97年)『歴史教育と歴史研究をつなぐ』(編、岩波書店、07年)『日本近現代史を読む』(共著、新日本出版社、10年)『兵士たちの戦場』(岩波書店、15年)『近代日本軍事力の研究』(校倉書房、15年)『昭和天皇の戦争』(岩波書店、17年)、『日本の戦争:歴史認識と戦争責任』(17年)『日本の戦争Ⅱ:暴走の本質』(18年)『日本の戦争Ⅲ:天皇と戦争責任』(19年)『帝銀事件と日本の秘密戦』(20年、ともに新日本出版社)など多数。









 ※ 天孫降臨を基に「万世一系」が続く
皇統の歴史や問題点に関して考察する









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神は死んだが、天皇は生きのびた
敗戦後のKK少年は、迷走していました




~昭和21年=1946年~

★1946年1月1日、
昭和天皇は、詔書で、天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念であると述べ、 自らの神性を否定しました。これは、のちに、天皇の地位が根本的な変更をもたらせる布石ともなりました。 同日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、この詔書に対する声明を発表し、 天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと、高く評価しました。
神様から人間になった昭和天皇は、自らの戦争責任については、どのように考えていたでしょうか。



★1946年4月から、島根県立浜田中学校に入学しました。
KK少年は戦後派中学生として、次男坊らしく自由奔放に育ちました。
世間で言う「やや悪戯小僧・悪ガキ」の一人だったと、自虐的に称しています。中学1年生の時、隣席に優秀なNS君がいました。 都会育ちの明朗で、真面目な少年でした。彼とは汽車通学が一緒でした。 彼と仲良しの友達になりました。中学2年生の時、NS君は、突然、愛知県拳母市(現在の豊田市)へ 引っ越しました。尊敬する友人を失って、ちょっと寂しくなりました。

~昭和22年=1947年~

★1947年5月、
日本国憲法が施行されました。
憲法の前文では「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである。われらは,これに反する一切の憲法,法令及び詔勅を排除する。」と書いてありました。

~昭和23年=1948年~

★1948年4月から、
中学3年生の時には、同じ教室で、成績優秀なYN君と友達になりました。 YN君は、都会育ちのダンディー少年でした。反抗期の自称「蛮カラ少年」だったKK少年にとって、YN君の心ある友情を とても嬉しく思いました。ある日の日曜日、浜田中学校前にあるカトリック教会へ、YN君と二人で行きました。 僕たちは、人生を如何に生きるべきか、模索していました。

★1948年12月23日
太平洋戦争の戦争犯罪者処分について
皇太子明仁殿下(のちに平成天皇)の誕生日に、次の7名に死刑が執行された。

1,板垣征四郎
   =陸軍大将 陸相(第1次近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、
   関東軍参謀長 中国侵略・米国に対する平和の罪
2,木村兵太郎
   =陸軍大将 ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)
   英国に対する戦争開始の罪
3,土肥原賢二
   =陸軍大将 奉天特務機関長、第12方面軍司令官、中国侵略の罪
4,東條英機
   =陸軍大将 第40代内閣総理大臣 ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、
   米国軍隊と一般人を殺害した罪
5,武藤章
   =陸軍中将 第14方面軍参謀長(フィリピン) 一部捕虜虐待の罪
6,松井石根
   =陸軍大将 中支那方面軍司令官(南京攻略時) B級戦犯、
   捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)
7,広田弘毅
   =文官 第32代内閣総理大臣 近衛内閣外相として南京事件での
   残虐行為を止めなかった不作為の責任

~昭和24年=1949年~

★1949年4月から、
島根県立浜田高等学校の1年生になってから、自我に目覚めました。 文学、歴史、哲学などの書物を多読するようになりました。そして、クラブ活動として、 YN君の誘いを受けて化学部に入りました。

★1949年には、
京都大学の湯川秀樹博士が、ノーベル物理学賞を受賞しました。 受賞理由は、陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想したことにありました。
そこで、KK少年は書店へ行き、「量子力学論」の専門書を買って勉強しました。KK少年にとって、難解な理論でしたが、 丁寧に読み進めて原子核の仕組みを理解することが出来ました。

KK少年の将来の夢は決定しました。
それは、ノーベル化学賞を受賞した湯川秀樹博士のような学者になる事でした。 クラブ活動としては、最初の課題は、上級生のNさんの指導の下で、 化学部の実験室で「定性分析」「定量分析」に挑戦する事でした。

急遽、高校校舎の移転が決まり、化学実験室は取り壊しになる事が決まりました。 KK少年の化学実験も一時停止に追い込まれました。新しい高校校舎は、 島根県立浜田高校の校舎は、旧帝国陸軍歩兵第21連隊の兵舎へ移転することになりました。

*1949年7月5日、国鉄、下山事件が起こる、未解決

*1949年7月15日、国鉄、三鷹事件が起こる、未解決

*1949年8月17日、国鉄、松川事件が起こる、未解決

~昭和25年=1950年~

★1950年3月、
高校1年生が終わった春休みに、両親に無断で家出しました。
目的地は京都市でした。湯川秀樹博士を輩出した京都大学の化学教室を見たかったのでした。

★1950年6月25日、
朝鮮戦争が勃発しました。
北朝鮮が突然に韓国に対して奇襲攻撃して来ました。 この戦争で、およそ 300万人が命を落した。米軍を主体とする国連軍が韓国側に立って戦争に参加し,また中国が最終的に北朝鮮支援に動いた。


★1950年8月、
愛知県拳母市(現豊田市)のNS君の家を訪問しました。
NS君の父がトヨタ自動車の工場を見学案内して下さいました。

★1950年10月、
突然のことだが、浜田市議会の決議のよって、浜田高校の校舎が、警察予備隊(現在の自衛隊)の兵舎になるとの情報があり、 この警察予備隊の誘致に反対するために、生徒会執行部13名が、無期限ハンガーストライキに突入した。 KK少年も、その執行部13名の一人だった。その夜に、当時の岡本市長が「自分の命を懸けても自衛隊の誘致を 阻止する」とのことで、翌朝にはハンガーストライキを解除した。
このストライキ事件を切っ掛けに、KK少年は反戦平和運動や革新的思想に興味を覚えました。 そして、経済学者・川上肇博士(元京都大学教授)の「貧乏物語」や 進歩的思想家の羽仁五郎(自由学園創始者の女婿)などの著書/書籍を読み漁りました。 kk少年の興味と関心は、自然科学の世界から社会科学の世界に移りました。

~昭和26年=1951年~

★1951年8月、
東京神田の研数学館で、大学受験の為に、英語・数学・国語の夏季講習を受けました。

★1951年9月8日、
サンフランシスコ講和条約が締結された。
1952年4月28日発効。日本代表は吉田茂。前文のほか27ヵ条よりなり日本の主権・平等を承認したが,外国軍隊の日本駐留継続を認めた。また朝鮮の独立,台湾・澎湖諸島,千島・南樺太の放棄を規定したが,帰属先は不明確のままで紛争の種を残した。沖縄・小笠原は米国を唯一の施政権者とする国際連合の信託統治下に入ることが予定され,それまでは米国の支配下に置かれることになった。中国・インド・ビルマ・ユーゴ・ソ連・ポーランド・チェコとは締結しない片面講和条約であり,同時に締結の日米安全保障条約とともに日本を対米従属下においた。翌1953年中華民国(国民政府)と日華平和条約を結び,インドなど6ヵ国とも1957年までに国交を回復。

(備考)
朝鮮戦争の勃発とその継続によって、
社会環境は、大きな変化をしました、 KK少年の興味と関心は、
自然科学の世界から社会科学の世界へ移りました。






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☆ 青春の揺れる心 ☆
~ 東西冷戦時代の背景で ~




~昭和27年=1952年~

1952年3月、島根県立浜田高等学校を卒業しました。
1952年4月、慶應義塾大学文学部に入学しました。

★1952年5月1日に、
血のメーデー事件がありました。
サンフランシスコ講和条約が発効した直後のメーデーで、 条約反対のデモ隊が使用不許可となっていた皇居前広場に入り、警官隊と衝突しました。 警察は催涙ガスを使用し、また武器を持たないデモ参加者に向けて銃を発砲したため、 その年のメーデーは流血の惨事となり、多くの死傷者が出ました。 憲法に保護された形の政治的表現を行使していたデモ参加者に対して、 警察が殺傷力のある武器を使用したのは、戦後日本で初めてのことでした。




血のメーデー事件が起きた時には、KK少年は実兄・長男YK兄が既に在籍している慶應義塾大学に入学して間もない時でした。 当時は、朝鮮戦争の真只中にあり、社会不安が漂う時代でした。 KK少年は、東西冷戦時代の不確実な未来社会を、日本国の社会体制の行く末を案じていました。 そこで、大学のクラブ活動の社会科学研究会に属して、少壮の経済学者を チューターにして、近代日本資本主義経済史を研究し始めました。

~昭和28年=1953年~

★1953年7月、朝鮮戦争の休戦協定が締結されました。

★1953年9月、大学2年生の後半時に、肺結核に罹り、さらに結核性脈絡網膜炎を患いました。 眼結核で左眼の視力を失い、盲目の危機にさらされました。KK少年は闘病中に自分の将来を悲観して自殺さえ考えました。

★1953年11月、学友YY君の紹介で慶応病院系列の下谷病院に入院しました。 下谷病院の医師は、病院長始め殆どの医師が慶應義塾医学部の出身者で占めていました。 病院長が学友YY君の叔父だったので、とても親切に面倒を見て頂きました。 約1年半の療養中、父母・親戚・友人から多くの援助を受けました。物心両面の温かい援助の効があって、肉体的にも精神的にも、 健康を回復しました。

~昭和29年=1954年~

★1954年、 復学を考えていた時に、父から勉強をやり直して医師の道を選ぶよう幾度も言われました。 地方の私立医科大学の受験を勧められましたが、医師コースに挑戦することはしませんでした。 医師と言う職業は激務だという事でしたので、KK青年は健康を損ねた経験から、医師の道は 適当な職業とは思いませんでした。加えて、医師という職業は社会的地位も高く経済的には安定しているものの、 我が故郷・寒村での開業医は、超多忙で、短命で、夢のない仕事だと、当時、思っていました。

~昭和30年=1955年~

★1955年4月から、
教室授業では興味の湧いた民法や国際関係論の講座に出席し聴講しました。 主として、三田山上にある大学図書館に通いました。政治、経済、法律、社会などに関する数多の書籍・雑誌を通じて、国内外の新しい情報を求めました。 現代世界史の流れは、米国を中心としたものであり、世界一の大国である米国の政治・経済・社会に関心を持って研究しました。 そこで、「アメリカ近現代史」を研究の専門分野として選択しました。

病後における大学生活は、
三田山上の学友たちと親交を深め、多くの幅広い友人をつくりました。彼らとの談論・交遊を通じて 新たなる自由と民主主義のもとで、厳しい社会でありながら、独立自尊の学風で、独立して生きる力を 自ら育成しました。

★1955年10月、
日本社会党はそれまで左右両派に分裂していたのを統一した。 同年11月には自由党と日本民主党が保守合同して自由民主党を結成した。 以後、日本政治は、自民党が代表する保守と社会党が代表する革新の対決という構図で展開した。 これは米国とソ連による東西対決の代理戦争という性格を持っていた。また、財界対労組の反映でもあった。 自民党、社会党の両党は激しく対立する半面、底流では通じ合う癒着構造もつくられた。

~昭和31年=1956年

★1956年3月、学友NS君の招待により、名門S家を訪問し、長期滞在しました。 学友 NS君の父親の事業は、多岐にわたり、山陰地方の随一の財閥と言われていました。

病後における大学生活は、
繰り返しになりますが、 三田山上の学友たちと親交を深め、多くの幅広い友人をつくりました。彼らとの談論・交遊を通じて 新たなる自由と民主主義のもとで、厳しい社会でありながら、独立自尊の学風で、独立して生きる力を 自ら育成しました。
★1956年8月、学友NS君など友人5名と、約1週間の伊豆半島周遊旅行をしました。
旅行について言えば、毎年の春休み、夏休み、冬休みには、長野、新潟や京都、大阪などに行きました。 九州や北海道などにも行きました。観光旅行が殆どでしたが、スキー、スケートなどでも楽しみました。

★1956年12月、国連が日本国の加盟を承認しました。
日本は、サンフランシスコ講和条約が発効して主権が回復した1952年に国際連合に加盟を申請した。しかし、冷戦の最中であり、ソビエト連邦など社会主義諸国の反対によってなかなか実現しなかった(安全保障理事会では常任理事国5か国が拒否権を有しており、そのうちの1か国であるソ連が反対する限り、日本は国際連合に加盟できなかった)。1956年10月の日ソ共同宣言とソ連との国交回復によってこの障害がなくなったため、同年12月12日の安保理決議121での承認勧告の後、12月18日の総会における全会一致の承認でもって80番目の加盟国として国際連合に加盟した。

~昭和32年=1957年~

病後における大学生活は、
更なる繰り返しになりますが、 三田山上の学友たちと親交を深め、多くの幅広い友人をつくりました。彼らとの談論・交遊を通じて 新たなる自由と民主主義のもとで、厳しい社会でありながら、独立自尊の学風で、独立して生きる力を 自ら育成しました。
★1957年8月、ひとりで、約10日間の北海道地方を周遊旅行しました。
旅行について言えば、全国各地に散在する学友たちを訪問して、友人宅で居候することが多かった。 春休み、夏休みで、故郷での滞在期間が少なかったので、父母から苦情があったほどでした。

~昭和33年=1958年~

★1958年2月、大学の卒業論文の提出時期が来ました。
KK青年の卒業論文は、1920年のアメリカ合衆国のウォレン・ハーディング第29代大統領が施政した時代から、 1929年のウォール街の恐慌までの、1920年代の米国近代史を研究したものでした。

<論文の概要=1920年代の米国史>

 第一次世界大戦を機に、世界的な女性の社会進出が進んだが、アメリカ合衆国においても1920年に女性参政権が実現し、民主主義が一段と徹底された。1920年代のアメリカは、共和党政権下の経済の繁栄がもたらされた時代。アメリカの国民総生産は年5%以上成長し続け、インフレはほとんど無く、ひとりあたりの所得は30%以上増えた。こうした経済の拡大をもたらしたのは、科学技術と産業が有機的に結合し、これを政府が支持する「現代アメリカ」のシステムであった。

人種のるつぼ
 その反面、経済の繁栄は世界中から移民を引き寄せることになり「人種のるつぼ」化が進んだ。そのなかで従来のワスプ(WASP)といわれる西欧系の移民と、新移民といわれる東欧・南欧からの移民、さらにアジア系移民との間で格差が広がり、新たな対立が生じ、特に日露戦争頃から増加した日本人移民に対する排除の動きが強まり、1924年5月には移民法が制定された。これは南・東欧系ヨーロッパ人は数の上での制限であったが、日本人に対しては実質的な移民禁止という厳しいものであったので「排日移民法」ともいわれた。また、南部の黒人差別は事実上の黒人選挙権の剥奪と、いわゆる分離政策が平然と行われ、一旦沈静化していた白人至上主義者の秘密結社であるクー=クラックス=クランが1920年代に復活し、激しい黒人攻撃をくりかえしていた。

大量生産・大量消費・大衆文化
 20世紀前半、アメリカ資本主義は工業化が急速に増大した。アメリカ合衆国の1920年代の経済成長の中で、大量生産・大量消費が行われ、アメリカ人は物質的な豊かさを経験した。それを牽引したのが自動車産業であり、フォード社のT型モデルがベルトコンベアシステムで大量生産され、価格の低下によって一般大衆が購入できるようになった。同時に関連した石油産業が急速に成長し、道路建設やタイヤ産業も興った。また月賦販売が一般化して、セールスマンが花形職業として脚光を浴び、宣伝業も一大市場となった。このような大量消費社会の形成を反映して、文化の面でもラジオや新聞などのマスメディアが発展し、音楽・演劇でジャズの流行のように大衆化が著しく、また新たな大衆娯楽として映画なども生まれた。1920年代は経済の繁栄を背景とした、「ローリング・トゥエンティ」といわれる現代大衆文化が開花した時代でもあった。

共和党の三代
 1920年代、「繁栄の時代」にはハーディング・クーリッジ・フーヴァーの三代の共和党大統領が続いた。
•ハーディング:在任1921~23 ワシントン会議を提唱して協調外交では功績を挙げたが、内政では汚職が多発したり、自身の女性スキャンダルもあって低迷した。任期途中に死去し、副大統領のクーリッジが昇格した。
•クーリッジ:在職1923~29 無口で愛想が悪く「何もしない大統領」と言われたが、未曾有の経済の繁栄はその自由放任主義がちょうどよかった。外交面では国務大臣ケロッグが活躍して、1928年に不戦条約を成立させた。
•フーヴァー:在任1929~33 商務長官として企業や高額所得者への税制優遇など企業よりの政策を推進し、1929年「永遠の繁栄」を謳歌するアメリカの大統領として当選したが、直後に世界恐慌が始まる。それにたいしては彼は政府は経済になるべく介入しない方がいいという信念から、対策を立てなかった。


★1958年3月、慶應義塾大学文学部史学科を卒業しました。
大學では、課外授業で、図書館で、学友との討論で、 政治、経済、法律、社会に関する学問を勉強しました。

(備考)
大學生活は、優しい識見のある友人に恵まれました。
親しくなった学友たちは、独立心とヒューマニズムの持ち主でした。
在学中に、肺結核に罹り、さらに結核性脈絡網膜炎を患いましたが、
学友たちの温かい友情のお陰で、充実した楽しい大学生活を送ることができました。