太平洋戦争中のKK少年



KK少年は、大東亜戦争中、毎日、毎日、必ず、義務として、
現御神(天皇)が御座なさる皇居(奉安殿)に向かい遙拝をしました。

☆奉安殿とは

​ 学校に下賜された「御真影(ごしんえい)」や教育勅語など勅語類を安置する建物。天皇・皇后の写真である「御真影」と勅語の諸学校への下賜は1890年(明治23)に始まるが、その下賜数がしだいに増加するとともにその管理規定も厳重となり、管理の不行き届きは学校長などの重大な責任問題とされるに至った。「御真影」などは当初校舎内の奉安所に安置されていたが、学校の火事に際して「御真影」を守って焼死する校長などが相次ぐなかで、校舎から離れた地点に堅固な奉安殿を建設し、「御真影」などを安置することが大正期から始まった。奉安殿の建設は1935年(昭和10)以降全国的に実施され、「御真影」はますます神格視された。

~昭和16年=1941年~

★1941年3月、 国民学校令が公布された。
1941年4月からそれ以前の小学校が国民学校に改められた。 「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的とした。 すなわち、国民学校は戦時体制に即応した国家主義的な天皇制軍国主義教育を行なった。

★1941年9月6日、
昭和天皇(現御神=アキツミカミ)と重臣らによる御前会議で、陸軍大臣東条英機が強硬に日米開戦を主張、 「帝国国策遂行要領」を決定、日米交渉が10月上旬までに打開されない場合は、開戦を決意するとされた。
近衛文麿首相は日米交渉の継続を希望し、みずからフランクリン=ローズヴェルト大統領と折衝したがかなわず、 ついに、10月18日に総辞職した。

★1941年10月18日、
昭和天皇は熟慮の末に、現役陸軍大将である東条英機に内閣総理大臣の大命を下した。

★1941年11月5日,
昭和天皇(現御神=アキツミカミ)と重臣らは、御前会議で対米交渉打ち切りの場合、12月初旬の開戦を決断した。


★1941年12月1日、
昭和天皇は御前会議において、日米交渉決裂の結果、東條内閣は日本時間12月8日の開戦を最終決定した。 (佐賀藩出身の海軍大将百武三郎侍従長の日記によれば、昭和天皇は日米開戦について、迷うことなく前向きであったと記述している。)

★1941年12月8日、
昭和天皇は日米開戦に迷うことなく前向きだった。イギリス帝国とアメリカ合衆国の2国に対して宣戦布告しました。 最初の作戦であるマレー作戦と、それとほぼ同時並行に行われた真珠湾攻撃を実施しました。 日本とイギリス、アメリカとの間に戦争が発生しました。




*その時、昭和天皇(現御神=アキツミカミ)が統帥する軍隊が、
「米国のハワイ真珠湾」を奇襲攻撃した時には、KK少年は8歳でした。

~昭和17年=1942年~

★1942年6月、
大日本帝国海軍がミッドウェー海戦で敗れる。=(戦局の転機)
太平洋戦争が始まってから約7ヵ月後、南雲忠一中将率いる「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母四隻を撃沈され、 開戦以来はじめての大敗を喫した。

★1942年7月2日~3日、
南太平洋のマキン、タワラ両島の日本軍守備隊が全滅。

★1942年8月7日から1943年2月7日にかけて、
西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島で行われた戦いで、日本軍は敗れた。 交戦勢力はアメリカ・オーストラリア・ニュージーランド・イギリスなどの連合軍だった。 これ以降、日本軍の敗戦色がますます濃厚になっていった。

~昭和18年=1943年~

★1943年5月、アッツ島玉砕
アッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日に玉砕した。 太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、 また第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた地上戦である。

★1943年10月21日、
東京の明治神宮外苑競技場では文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、 東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。 東条英機首相は「天皇陛下♪バンザイ♪」と大声で叫んで、学徒を戦地に送り込みました。


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*KK少年は、大東亜戦争中において、来る日も来る日も、月月火水木金金の休日なしの勤労奉仕という過酷の肉体労働をしました。 通学用品は、ランドセル、教科書、ノート、鉛筆などではありませんでした。草刈り鎌、農耕用鍬、荷運びの竹製笈こそが必携の学用品でした。 校舎内教室で、教科書を開いて勉強した記憶はありません。

*KK少年は、国民学校では、堆肥つくり、田植え、芋栽培、稲刈り、麦刈り、カボチャ栽培、大豆栽培などの農業に従事しました。 それから、稲草履つくり、草鞋つくり、山からのマキ燃料の運搬、日本海の浜辺での塩田作業、養蚕用桑の皮剥ぎ作業 、軍事用皮革製造に必要なウサギ飼育などの労働に従事しました。

*KK少年は、国民学校では、登校・下校においては、集落の児童がグループを結成して、二列縦隊で行進しました。行進では、軍歌「露営の歌」などを唄いました。 「勝って来るぞと勇ましく、誓って故郷(くに)を出たからにや、手柄立てずに死なりょうか。進軍ラッパ聞くたびに、瞼に浮かぶ旗の波。」 「思えば昨日の戦いに朱(あけ)に染まって、にっこりと、笑って死んだ戦友が、天皇陛下万歳と残した声が忘すらりょうか。」と、 雨の日も、風の日も、雪の日も、広大な田圃の中の通学路を、大声で唄いました。

*KK少年は、国民学校では、毎朝、奉安殿(現御神の御真影)に向かって最敬礼を致しました。 東に向かって、皇居(昭和天皇の居所)への遙拝は最重要義務でした。 明治節(明治天皇の偉勲を讃える日)や天長節(昭和天皇への忠誠日)などの儀式があるときは、 国家「君が代」は勿論のこと、天皇陛下の御為に名誉の戦死を讃える歌として「海ゆかば」の 歌を厳粛に唄いました。「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、帰りみはせじ」と。 儀式の予行練習では、学校教頭が、必ず、行儀の悪い児童にビンタ暴力を実行しました。

~昭和19年=1944年~

★1944年7月9日、サイパン島陥落、玉砕


★1944年7月9日、東条内閣は総辞職した。
後継には、小磯国昭が首相に就任した。
マリアナ沖海戦とそれに伴うサイパン陥落によりアメリカ軍による本土爆撃(日本本土空襲)が容易になったことから、岸信介商工相(戦後に首相も歴任)が「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言し、「ならば辞職せよ」という東條首相の要求を岸が拒絶したため閣内不一致となり、1944年(昭和19年)7月9日のサイパン陥落の責任を取る形で7月18日に東條内閣は総辞職した。後継には小磯國昭が首相に就任し、小磯内閣が成立した。

★1944年7月、インパール作戦失敗

★1944年8月11日、
グアム島では、追い詰められた小畑中将と 部下の将兵60人は、 叉木山の壕で 自決。これをもってグアムの日本軍守備隊による組織的戦闘は終結した。 のちに、生き残った横井庄一氏によって、大日本帝国軍隊の蛮行が語られている。 占領下において、日本軍によるグアム島住民への無差別殺人があったと語られている。

★1944年9月15日、
アメリカ軍はペリリュー島に、そして二日後にアンガウル島に上陸しました。 アンガウル島では、約1,200人の守備隊が2万人を超えるアメリカ軍と戦い、およそ1か月後、負傷し捕虜となった60人を除いて玉砕しました。すなわち「天皇陛下バンザイ」と言って犬死した。
ペリリュー島では、守備隊約1万人に対しアメリカ軍は延べ4万人で挑みました。 すぐに島を落とせるとアメリカ軍指揮官は楽観していましたが、洞窟陣地にこもり、火力を集中する日本軍に甚大な被害を被りました。 激戦は約2か月続き、最終的にアメリカ軍は死者1,684人、負傷者7,160人、日本軍は戦死10,022人、捕虜となり生還した兵は446人でした。

★1944年10月19日、
日本海軍が神風特攻隊を編成しアメリカ軍艦への体当たりを計画する。 10月20日、アメリカ軍第4個師団がフィリピンのレイテ島に上陸する。神風特攻隊が初めて出撃する。 レイテ沖海戦で日本海軍は壊滅被害を受けた。



*国民学校では、昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に戦地へ出征する兵士を鉄道駅の駅頭まで見送りしました。その駅頭では 「海ゆかば」の歌を唄って、出征兵士の名誉を讃えました。まさに、その駅頭から、英霊として帰還した兵士の葬列に加わり、 悲しい想いをしました。肉親や親戚、近所の人達が戦争犠牲者となりました。人間の生命は鴻毛よりも軽く、 昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に死ぬことこそ、大変な名誉であるという価値観を強要した教育が行われました。

*国民学校では、教室で、国語・算数・理科などの教科書などを開いた記憶が無く、鉛筆や筆類を握った記憶すら皆無です。 英語は敵国語として扱われて、ABCの文字すら知りませんでした。もちろん、図画という美術教育など全くありませんでした。

*国民学校の体育教室(講堂)や野外演習場(校庭)では、教官や上級生は、「天皇陛下の命令と思え」と、 軍隊規律を悪用して、ビンタや鉄拳で、 時には木刀で、弱い者イジメを公然としていました。鉄拳制裁で暴力を振るう教官に対して、 KK少年は大変な恐怖心を覚えました。

「玉砕」の記事における「本土決戦と一億玉砕」の解説

戦局が絶望的となると、軍部は「本土決戦」を主張し、「一億玉砕」や「一億(総)特攻」、「神州不滅」などをスローガンとした。なお既に1941年(昭和16年)から「進め一億火の玉だ」とのスローガンが使用されていたが、これらの「一億」とは、当時日本の勢力下にあった満洲・朝鮮半島・台湾・内南洋などの日本本土以外の地域居住者(その大半が朝鮮人や台湾人)を含む数字であり、日本本土の人口は7000万人程であった。
1944年(昭和19年)6月24日、大本営陸軍部戦争指導班は機密戦争日誌に以下の記載をした。 もはや希望ある戦争政策は遂行し得ない。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄を待つのみ — 半藤一利「聖断 ―昭和天皇と鈴木貫太郎―」PHP研究所 p269 1944年(昭和19年)9月、岡田啓介は「一億玉砕して国体を護る決心と覚悟で国民の士気を高揚し、其の結束を固くする以外方法がない」と主張した。
1945年(昭和20年)1月24日、近衛文麿は「昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候」と昭和天皇に警告した(近衛上奏文参照)。同年4月、戦艦大和の沖縄出撃は、軍内の最後通告に「一億玉砕ニサキガケテ立派ニ死ンデモライタシ」(一億玉砕に先駆けて立派に死んでもらいたい)との表現が使用され、「海上特攻」または「水上特攻」とも呼ばれた。

【参考】
1944年秋、連合国軍が国境を越えてドイツに進攻すると、ナチス・ドイツ政権は第三帝国の防衛のため、 「国民突撃隊」と呼ばれる部隊に、60歳を超える高齢者と共に10歳以上16歳未満の子供を徴兵しました。

ナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)による支配下の、 1933年から1945年までのドイツ国に対する呼称である。 社会のほぼ全ての側面においてナチズムの考え方が強制される全体主義国家と化した。

1939年9月1日にポーランドに侵攻しヨーロッパにおける第二次世界大戦を引き起こすも、 戦況の悪化の末ヒトラーが自殺し、1945年5月に連合国軍に敗北、解体され滅亡した。

~昭和20年=1945年~
「本土決戦と一億玉砕」

★1945年2月14日、
近衛文麿公爵は吉田茂などと相談し、米英との早期講和を謀り「上奏文」を昭和天皇に提出した。 昭和天皇は早期講和ではなく、一度華々しい戦果=「本土決戦での勝利」をあげ、米英に対し有利な状況で講和を模索するべきだという、 いわゆる「一撃講和」を唱え、近衛公爵による上奏を退けたのであった。

*「一撃講和」を唱えた昭和天皇は、「本土決戦」「一億玉砕」を強行した場合には、 多くの国民が犠牲になる事など考慮したでしょうか。 近衛公爵や吉田茂などの意見を無視し、陸軍上層部の意見を信用し採用して「本土決戦での勝利」を目論んでいたと考えられます。

*国民学校では「本土決戦」に備えて軍事訓練が実施されました。鬼畜米英兵士を殺す竹ヤリ突撃演習が連日行われました。 耳を破裂させるような怒号に近い、教官の軍事命令には閉口しました。 その怒号には、KK少年にとって、時には、恐怖心で、頭が真っ白になってしまう事がありました。

*国民学校は、上級生児童に鬼畜米英兵士を殺すための訓練場でした。 やんちゃで遊び盛りのKK少年にとっては、国民学校は不愉快極まりない場所でした。
昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に、 竹ヤリを持って突撃して敵国アメリカ兵を殺す訓練を受けたことは、永遠に忘れる事ができません。 なお、ひ弱なKK少年は、軍事教練に就いてゆけない落伍者でした。

★1945年2月、島根県立浜田中学校の受験の試験科目は軍事教練だった。戦時中の紙不足の為、ペーパー試験はなかった。 その試験中に、㏍少年は教官の軍事命令に即座に反応できず、怒号のような軍事命令に困惑した。暫しの間、㏍少年考えていた。 軍事教官の大声「命令が分からんのか」怒号が飛んで来た。KK少年は蒼白になったまま立ち尽くした。その結果、 敵の鬼畜アメリカ兵と戦う精兵としての能力がないと判定されて、中学校への入試は不合格だった。

★1945年3月、硫黄島陥落、玉砕

★1945年3月10日、東京大空襲


東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、 特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。 その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)を指す。 この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。 東京大空襲の惨状をご視察なされた昭和天皇(現御神=アキツミカミ)のご気分は、如何ばかりだったでしょうか。

★1945年3月26日~9月7日、沖縄戦

沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は4月2日に開始、6月23日に終了した。

*戦争はふつう、軍隊と軍隊、軍人と軍人が戦うものだが、沖縄戦は、10代前半の子どもも含む住民が、 足りない軍人の代わりや手伝いをさせられたりした。軍人も、武器をもたない住民も、ごっちゃになったまま地上戦が続いた。 日本軍が南部に追い詰められてからは特に、米軍の無差別な攻撃に、軍人も、住民も次々と命を奪われていきました。 こうしたことで、沖縄戦では、軍人よりも住民の命が多く失われたと言われる。

*沖縄戦の教訓として「日本軍隊は沖縄住民を守らなかった」と語りつがれている。日本兵に命を助けられた人はいるが、 でも、日本兵に命を脅かされたり、スパイとみなされ、実際に命を奪われたりした沖縄住民が沢山にいる。

*1945年5月末に、沖縄戦において、日本軍・第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退したが、6月下旬までに組織的戦力を失い、 6月23日には牛島満司令官らが自決しました。 その後も掃討戦は続き、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、 最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日である。

*1945年6月23日、義勇兵役法が公布され、即日に施行された。
この時に、太平洋戦争末期に連合軍の日本本土侵攻が切迫した状況にあった。これに対処(「本土決戦」)するため、兵役法の徴兵対象を拡大して「真に一億国民を挙げて光栄ある天皇親率の軍隊に編入」し全国民を軍事組織化することを意図して制定された。小磯内閣の掲げた「一億玉砕」の具現化である。 幼いKK少年も、天皇陛下の御為に「玉砕」せよとの命令と受け止めました。

*私の父に、赤紙・召集令状が来た。(当時、彼は42歳だったが在郷軍人会の会長をしていた。) 直ちに、大日本帝国陸軍の浜田連隊へ入隊した。 この夏には、朝鮮半島全羅南道の守備隊へ転戦して行った。

★1945年7月26日、
米英華の3か国(のちにソ連も参加)はポツダム宣言を発したが、 昭和天皇を頂点に戴く日本政府はこれを「黙殺」した。アメリカのトルーマン大統領は、本土決戦による犠牲者を減らすためと、 日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制を目的として、史上初の原子爆弾の使用を決定した。

★1945年8月6日、天気は晴れ。
島根県浜田地方に住んでいるKK少年は、遠く南の空が、広島方面の上空が異様な黒雲に覆われている光景を目にしました。 のちに、それが新型爆弾=原子爆弾の広島市への投下による雲の発生だという事を知りました。暫く、日が経って、 原子爆弾の犠牲者が、我が寒村に帰郷して来ました。その人の顔面は見るに忍びないケロイド状の黒焦げた様相でした。



★1945年8月8日、ソ連が満州侵攻

★1945年8月9日、長崎に原爆投下



★1945年8月15日、
昭和天皇は、 ポツダム宣言を受諾しました。無条件降伏でした。
あの日は、近所に住むMKさんが、帝国陸軍の歩兵第21連隊(島根県浜田市)に出征するので駅頭まで見送った日でした。 天皇陛下の玉音放送を、駅前の知人宅で聴きました。 生き神様である昭和天皇のお言葉は、KK少年には難解で重々しくて理解不能でした。 周囲の大人の話で、大東亜戦争が終わったことを知らされました。

*遂に、天皇陛下(現御神=アキツミカミ)のための戦争が終わりました。 天皇制軍国主義国家が崩壊した事を知りました。村落の人々の顔には、安堵の明るい表情がありました。 その日、出会った下級兵士には笑顔がありました。


★1945年9月2日、
日本の降伏調印式は、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われました。 その状況はラジオの実況中継で全世界に流されました。 米国トルーマン大統領は、ラジオの実況中継後、全国民向けのラジオ放送で演説しました。 その中で9月2日を正式にVJデー(対日戦勝記念日)とし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのでした。

*戦時中には、わが村落出身の多くの兵隊さんが戦死しました。 昭和天皇が開戦した大東亜戦争が、昭和天皇のポツダム宣言受諾で戦争が終わったことを多くの村民は喜んでいました。



*大東亜戦争は、昭和天皇が統師する大日本帝国陸海軍が敗れて終戦になりました。 昭和天皇が前向きに考えた米英との開戦は、国力の差を無視した無謀な賭けでした。 そして、それぞれの作戦にも数々の無謀さがありました。昭和天皇には、この戦争を途中でやめ、 講和に向かうという判断力や冷静さが働くことはありませんでした。

*天皇制軍国主義の象徴である奉安殿は解体された。
わが村落の小学校東側の丘の中腹に鎮座していた奉安殿は解体されました。 日本が第二次世界大戦で敗れた年の1945年(昭和20年)12月15日、GHQの神道指令により奉安殿は廃止が決定。同月22日、文部省次官名による実施要領の発令、さらに1946年(昭和21年)6月29日付文部省次官通牒によって、全国の奉安殿を小学校から全面撤去する具体的な指示が出た。御真影は焼却されたほか、建物の多くは解体された。

生き神様(昭和天皇)は、一体全体、いかなる神様だったのか。 この大戦で、約310万人以上の日本人の生命が失われています。 海外のアジア地域の犠牲者は、2000万人以上とも言われています。 大東亜戦争において、神様である天皇陛下のために死んだ人々の心情は、どのようなものだったでしょうか。 昭和天皇には、戦争での犠牲者への罪悪感はないのだろうか。





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日本国の天皇家



日本国のヤマト朝廷・天皇家の祖先は、
「古事記」と「日本書紀」によって位置づけされている。

大戦後の日本古代史研究によれば、
継体天皇(450年~531年)が実在する天皇家の最初の祖先だという。


☆ 継体天皇(450年~531年)とは ☆

6世紀初頭、すなわち、今から1500年あまり前に即位した継体天皇は、謎の大王ともいわれ、古代史上でも極めて特異な天皇である。

この天皇の出自については、遠く越前から入ってきたこと、大和に入るまで20年を経ていること、応神五世孫とされているがその間の系譜が明示されていないことから、地方の一豪族で、武烈亡きあとの大和王権の混乱に乗じて皇位を簒奪(さんだつ)した新王朝の始祖とする見解が有力である。

応神天皇五世孫というのは、自称にすぎず、実際は近江や越前と言った地方出身の、それまで王統の血をひかない有力豪族が20年かけ、大和にいた反対勢力を制圧し即位したと言われている。

熾烈な王位継承争いによって中央の王族の多くが命を落としてしまった中で、地方に土着し、琵琶湖から北陸、朝鮮半島にかけての水運や交易で 豊かな経済基盤を獲得していたことが、継体が天皇に選ばれた背景があったと考えられている。

概略
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記紀によれば、応神天皇の来孫であり、『日本書紀』の記事では越前国、『古事記』の記事では近江国を治めていた。本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、四従兄弟にあたる第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村・物部麁鹿火などの推戴(すいたい)を受けて即位した。先帝とは4親等以上離れて, かつ傍系で即位した最初の天皇とされている。

大東亜戦争の敗戦後、天皇研究に関するタブーが解かれると、5世王というその特異な出自と即位に至るまでの異例の経緯が議論の対象になった。
その中で、ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪して現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに論議されるようになった。
越前国の豪族・継体天皇こそが、現在の天皇家の祖先であるという学説が正当化されている。


日本書紀と古事記における継体天皇の記事の相違
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<記事の共通点>
共通点はおおよそ次の通りである。
*武烈天皇が崩御し、天皇の跡継ぎが居なくなった。
*継体天皇は、遠くの地方(畿外の北東部)からやってきた。
*継体天皇は、遠い傍系の血筋である。(応神の五世孫)
*応神天皇から継体天皇までの系譜は不明である。
*手白香皇女と婚姻関係を結んだ。

<記事の相違点>
*武烈天皇について『日本書紀』では武烈は悪行が数多く詳細に記され、暴君として書かれ、継体は立派な名君として書かれている。 『古事記』では武烈の悪行の記事は無く、武烈が行政を行なった記事なども無い。

*系図について『日本書紀』には継体の詳しい系図は記されていないものの、黛弘道が指摘しているように、『日本書紀』には天皇の系図一巻が添えられていたため、編纂者が天皇の系図を知らなかったということはあり得ない。 『古事記』には継体の系図は記されていないため、編纂者が継体の系図を認知していたかは不明である。

*出身地について『日本書紀』では生誕地は近江だが、幼い頃に父親の彦主人王が亡くなったので、母親の振媛の実家である越前で育ち、所在も越前である。 『古事記』では生誕地、所在は近江である(越前は出てこない)。

*後継候補者について『日本書紀』では継体天皇よりも有力な候補者、第14代仲哀天皇の五世孫、倭彦王が登場するが、迎えに来た軍隊を見て、逃げ出して行方不明になる。 『古事記』では倭彦王自体の記事も、他の候補者の記事も無い。

*天皇即位について『日本書紀』では、最初は天皇の即位を拒否し、諸豪族や河内馬飼首荒籠が何度も説得し、止む無く即位に応じている。『古事記』では、即位を拒否した記事も河内馬飼首荒籠の記事も無い。

*宮の位置『日本書紀』では樟葉宮、筒城宮、弟国宮、磐余玉穂宮の4箇所が記されている。 『古事記』では磐余玉穂宮で天下を治めたという記事のみ。

*磐井の乱について『日本書紀』では、新羅が筑紫の磐井に賄賂を贈り、大和朝廷に反旗を翻している。『古事記』では、磐井が天皇の命に従わないので殺した。

* 誕生年、崩年、没年齢の違い『日本書紀』では、生年は450年、崩年は531年、没年齢は82歳とされる。『古事記』では、生年は485年、崩年は527年、没年齢は43歳とされる。







古代天皇は朝鮮系と言われている
「天智・天武は朝鮮系の天皇」



宮内庁が「天皇陵」の学術的調査を認めない理由は何であろうか。その答えを具体的に言えば、「天皇家の祖先」が「朝鮮半島から渡って来た証拠が出て来る恐れ」があるからだという。日本の歴代天皇の中で最も活躍した天皇の一人「桓武天皇(737年~806年)」の母 高野新笠(たかのにいがさ)は、百済の名王 「武寧王の後裔」であることは日本史の常識になっている。ちなみに、「桓武天皇」は朝鮮系天皇「天智天皇」のひ孫である。

歴代天皇の中で最も活躍したとされる天皇「天智天皇(626~672)」「天武天皇」の母「斉明天皇」は、「朝鮮人豪族 吉備王朝」の出である。吉備王朝は、朝鮮式山城を根城に、大和王朝以前 倭国最大の勢力をもっていたという。吉備には、大和王朝以前としては、日本最大の古墳があるという。従って、「天智・天武は朝鮮系の天皇」であるということになる。「白村江の戦い」で、百済救援のために、斉明天皇の後を追って、天智が3万人に近い兵を送ったということは、「百済と倭国は姻戚関係にあったからだ」と金達寿 佐々克明 洪思俊<扶余博物館館長>らは述べている。

西暦663年、「白村江の戦い」で新羅にやぶれた百済から五万人が渡来したという。このことに関して、司馬遼太郎は「百済 国ごとの引っ越し」と語っている。「日本書紀」によれば、天智天皇は、当時の亡命者を、近江の蒲生郡あたりに3000人近く住ませ、無償で農地を与え、官食を三年間も与えたという。百済の高官66名が政務次官なみに登用され、「法務大臣(法官大輔)」「文部科学大臣(学頭職)」になった人もいる。西暦667年、「天智天皇は都を近江」に移している。「額田王の父 鏡王は 近江の蒲生郡に住んでいた」と言われている。

額田王が天智の妃なったことと、くしくも、額田王が朝鮮人であったことは、天智による近江遷都には朝鮮の匂いをただよわせるものがある。額田の義母 斉明天皇が朝鮮人であり、斉明天皇の子供(天智)が朝鮮系の天皇であり、その妻が朝鮮人であることは、「近江」と「朝鮮」の関係の深さを彷彿とさせる。百済人が倭国へ亡命したのは、亡命以前から、倭国と百済には縁戚関係が成り立っていたからである。日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、「白村江の戦いの敗北で渡来した百済人」で、彼らによって「日本という国号」がつくられた。

「大化の改新」は、藤原鎌足(百済の渡来人)を筆頭に、安倍内麻呂 金春秋 高向玄理などの渡来人によって行われた。また、「藤原不比等」は鎌足の子で「大宝律令制定」の中心メンバーであった。不比等は「本妻の娘を文武天皇」「後妻の娘を聖武天皇」の妃とさせ、藤原氏の基盤を築いた大人物とされている。アジア古代歴史学会の会長 上田正昭らの対談集によれば、「日本書紀」は「百済人を主軸に書かれ、天皇・朝廷のプロモーター藤原氏の都合がいいように整理されている」という。

「天皇家と藤原氏は、血縁的に見れば、また遺伝子的に見れば、区別がない」という。天皇と藤原氏の娘の子である天皇が、藤原氏の娘の子を次の天皇にしていくということを繰り返したので、天皇家固有の「血」などはなくなったのである。つまり、「天皇家と藤原家は一体」である。藤原氏は強大な政治力をもち、実質天皇とも言える実権をもっていた。梅原猛は「奈良の都の政治は不比等の独壇場であった。不比等の下に集められたのは、智謀豊かな、法律、歴史に詳しい朝鮮人であった。」と述べている。

「高句麗」や「百済」にも天孫降臨の神話がある。これは「天皇家朝鮮起源説」を裏づけるものであるという。天皇の礼服の紋章には円形の中に「八咫烏」の刺繍が施されているという。「八咫烏」は「高句麗」のシンボルである。従って、「天皇の始祖は高句麗」にあるという説がある。「八咫烏」は日本古来の文化ではなく、直接的には朝鮮から渡来した文化である。

ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催された。アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開され、「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」との記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、日韓の天孫はいずれも山頂に降臨しており、共通点が多いと主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘している。日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。

京都産業大学文化学部国際学科の井上満郎教授は、韓国の檀君神話と伽耶の首露王は、日本神話に登場する天孫ニニギと同じような要素を持っている。「日本の天孫降臨神話が朝鮮半島系ということは疑う余地がない」と述べている。また、韓日天孫文化研究所所長のホン・ユンギ氏は、「日本の建国神話は、天孫が降臨する檀君神話を織り交ぜて作られたもの」であり、「三種の神器」も「三種の宝器」として「檀君神話」に登場すると述べている。日本の代表的な民族学者 東京都立大学の岡正雄教授も、1949年に、これを認める発表をしているという。

学者ならぬ凡人にでもわかることは、日本にも朝鮮にも、「仏教」以前からあった「神道」の存在である。「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れが日本にもあるということになる。弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道をもちこんだ」のはごく自然な流れでしょう。「天皇家が古代から現在に至るまで神道を一貫して信奉していることは、天皇家が朝鮮由来の姿を留めている現れ」である。

「天皇家のルーツが朝鮮半島」にあることを示すものの一つとして、志賀島の金印「漢倭奴国王」の時代から、志賀島周辺が朝鮮半島南部の国の支配下にあったのではないかというのがある。6~7世紀に新羅によって滅ぼされた百済から大量の渡来人が倭国に亡命してきたが、彼らが倭国への侵略者に転じなかったのも、すでに確立していた同胞国家である大和朝廷に迎え入れられたからであると言われている。百済からの渡来人にとって、倭国が本拠地になり、渡来人は新しい国づくりに邁進し始めたのである。

「蘇我氏(朝鮮渡来人)」は、六世紀後半には今の奈良県高市郡明日香近辺を勢力下においていた。飛鳥が政治の中心地であったことは、「蘇我氏が政治の実権を掌握」した時代以後、飛鳥に「集中的に天皇の宮がおかれるようになった」ことからもうかがわれる。朝鮮の渡来氏族がいかに大きな力で日本国を牛耳っていたかがわかる。「蘇我氏は皇室との姻戚関係を深めて政治的権力を強化」した。物部氏を滅ぼして国政の主導権を握った。「用明、推古などの蘇我系の天皇」を擁立した。渡来人によって「日本」という国号が作られ、「天智・天武・藤原氏などによる国家体制」がととのえられ、「大化の改新」「大宝律令」などによる新しい国造りが始められた。

実質天皇であった「蘇我氏」「藤原氏」が渡来人であったことは、彼らとの姻戚関係からしても、日本の天皇は朝鮮系の人であったことは明らかである。弥生時代以後、倭国の住民の90%以上が朝鮮渡来人であったことからしても、天皇の出自がどこにあるか自ずと知れるのである。大和朝廷の構成員は、トップスター「蘇我氏」「藤原氏」「秦氏」らがすべて渡来系氏族であるからして、職員は一人残らず渡来人であるとするのが自然であろう。その構成員の長たる天皇がいかなる存在にあったかは押して知るべしである。






古代史最大の争乱

大王家(天皇家)の争い=壬申の乱(672年)
天皇家の神格化の始まり



672年(壬申の年)の夏
大友皇子と大海人(おおあま)皇子とが皇位継承問題で戦った内乱。

大化改新を指導した天智(てんじ)天皇が,671年12月に近江大津(おうみおおつ)宮で病死するとき,皇位を長子の大友に継がせようとしたのを知った天皇の実弟大海人は,妻(後の持統天皇)・子や部下とともに吉野宮に引退した。

翌年6月,近江方の先制攻撃を察知した大海人は美濃へ脱出,部下が動員した兵や大和で呼応した豪族らとともに近江へ進撃,1ヵ月にわたる激戦の後に近江方は敗れ,大友は自殺,重臣は処分され,大海人は673年2月に飛鳥浄御原(あすかきよみはら)宮で即位して,天武(てんむ)天皇となった。

壬申の乱に勝利した大海人皇子は、この時に初めて、これまでの「大王」(おおきみ)に代わって「天皇」という称号が 用いられたと言われている。

乱の直接の原因はありふれた皇位継承問題だが,大乱に発展したのは大化以来の政情不安と体制不安定のためであり,この乱を境に天皇の神格化と律令体制の整備とが急速に進んだ。







聖武天皇(701年~756年)と仏教(大仏造り)



★御仏をシンボルにして~~
聖武天皇、西暦701年生まれ。聖武天皇の時代には、はやり病、地震や反乱と、いろいろな困難がおしよせてきました。そこで聖武天皇が考えたのが、自らが信じている御仏をシンボルにして、日本を救っていただこうということでした。

★世の中の乱れが続いた時代~~
今から1300年ほど前、現在の奈良県に都が置かれていました。「平城京」です。ここで、当時24歳の聖武天皇が即位します。しかし、聖武天皇の時代はトラブル続きでした。地震や日照りなどの災害が相次いだ上、天然痘というはやり病が広がり、多くの人がなくなりました。さらに、そんな世の中に不満を持った貴族が反乱を起こし、国はますます乱れます。

★「責めはわれ一人にあり」~~
都の場所をかえれば国が安定するのではないか。聖武天皇は次々と都をうつします。しかし、解決にはいたりません。どうして平和な世にならないのか。聖武天皇の苦しみが、『続日本紀』という書物に記されています。「責めはわれ一人にあり」――「わざわいの責任は、国を治める私にあるのだ」。

★不安定な世の救いとして仏教にたよった~~
そこで聖武天皇がすがったのが、仏教でした。不安定な世を、仏教の力で救おうとしたのです。聖武天皇は、国の一大事業として平城京に大仏を造ることを決心します。そして743年、民に向け、大仏造りへの協力をよびかける「詔」=(みことのり)を出すのです。――「国じゅうの銅を用いて大仏をお造りし、大きな山をけずって大仏殿をたて、仏の教えを広めよう」。

★民の信頼が厚い行基の力を利用した~~
大仏造りにはたくさんの人手が必要でした。そこで聖武天皇はある人物に目をつけます。僧、行基です。行基は仏教の教えを広めるだけでなく、貧しい人々に食べ物をあたえたり、川に橋をかけたり、日照りに備えて池を造ったりして人々のためにつくしていました。聖武天皇は協力をたのみ、行基はその思いに応えます。聖武天皇は、民の信頼が厚い行基の力を利用したのです。大仏造りは実現に向かって大きく進み始めます。全国からのべ260万人が集まり、国を挙げた一大プロジェクトが始まったのです。

★大仏ができるまで~~
クレーンもショベルカーもない時代、どうやって大仏を造ったのでしょう。まず、仏像の中心に柱を立て、竹や木で骨組みを作ります。まわりを粘土で固め、大仏の形を作ります。ここまでで1年2か月かかりました。仏像のまわりに土を盛って足場を作り、とかした銅を流しこんで形にしていきます。この作業に3年かかりました。1000℃に熱した銅を流しこむ、危険ととなり合わせの作業。それでも行基の号令のもと、人々は作業を続けました。しかし工事のとちゅう行基は病にたおれ、志半ばでなくなります。

★開眼式~~
聖武天皇の詔=(みことのり)から9年後の752年、1万人が見守るなか、いよいよ大仏披露のときです。位の高いインド人の僧が、大きな筆で大仏の眼を開く儀式を行いました。開眼式です。筆には長いひもがつけられていました。参列した人たちはひもをにぎることで、仏との縁を結んだといいます。聖武天皇はこのひもを、終生、宝としました。ひもは、今でも大切にのこされています。


桓武天皇(737年~806年)は朝鮮人系



桓武天皇は日本古代の天皇(在位781~806)である。父は天智(てんじ)天皇の孫光仁(こうにん)天皇、母は百済(くだら)系渡来氏族の出の高野新笠(たかののにいがさ)。諱(いみな)は山部(やまべ)。その資質を見抜いた藤原百川(ももかわ)の策謀により、773年(宝亀4)皇太子となり、781年(天応1)45歳で即位した。

 784年(延暦3)には、それまでの平城京から、山背(やましろ)国(京都府)の長岡京への遷都を断行した。翌年、遷都と絡んで、造営の中心人物藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、皇太弟早良(さわら)親王が廃位され死亡する事件があった。その後、親王の怨霊(おんりょう)の所為とされる近親の死亡が相次いだため、794年には同じ山背の葛野(かどの)に遷都、平安京と命名した。

天皇は他方、蝦夷(えみし)の抵抗を圧服して東北地方の支配を進め、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を起用、802年には胆沢(いさわ)城(岩手県)を築き、その平定に成功した。

天皇はまた、地方政治に意を用い、国司・郡司に対する監督を強化し、国司交替の円滑化を図って勘解由使(かげゆし)を置き、また交替式を定めた。班田を励行させ、辺要の地を除いて兵士を廃止して健児(こんでい)を置き、出挙(すいこ)の利率や雑徭(ぞうよう)の日数を軽減して農民の負担を省いたが、造都と征夷の二大事業には惜しみなく人民の労力と国家の財力とを投入した。

天皇は貴族勢力を抑えて国政を主導し、政局の転換に成功したが、晩年その政策は行き詰まり、805年、藤原緒嗣(おつぐ)の建議によって造都・征夷の事業を中止、翌年70歳で没し、山城国紀伊郡(京都市伏見(ふしみ)区)の柏原(かしわばら)山陵に葬られた。






神仏習合



神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。

当初は仏教が主、神道が従であり、平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為なども多くなった。日本で仏、菩薩が仮に神の姿となったとし、阿弥陀如来の垂迹を八幡神、大日如来の垂迹が伊勢大神であるとする本地垂迹説が台頭し、鎌倉時代にはその理論化としての両部神道が発生するが、神道側からは神道を主、仏教を従とする反本地垂迹説が出された。江戸時代に入ると神道の優位を説く思想が隆盛し、明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた

 <概要>
神々の信仰は本来土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るものであった。神は特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的だった。普遍宗教である仏教の伝来は、このような伝統的な「神」観念に大きな影響を与えた。仏教が社会に浸透する過程で伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、古代の王権が、天皇を天津神の子孫とする神話のイデオロギーと、東大寺大仏に象徴されるような仏教による鎮護国家の思想とをともに採用したことなどから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まった。

日本への仏教の伝来から、神と仏は同じものとして信仰されていた。その素朴な神仏習合観念は、やがて仏教の仏を本体とする本地垂迹説として理論化されるようになり、さらに戦国時代には天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった。

他方、日本における神仏習合は、すっかりと混ざり合って一つの新しい宗教となったのではなく、部分的に合一しながらも、なおそれぞれで独立性を保とうとして緊張関係が維持されていた即面もあった。また、近年では神仏習合の時代における神仏隔離現象も注目されており、宮中祭祀や伊勢神宮では仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰は仏教と異なる宗教システムとして自覚されていて、神仏関係が全て習合の観念で捉えられていたわけではなかった。
神仏習合は、仏教が優位に立ちながらも、神祇信仰が仏教に吸収されてしまうものでははなく、むしろ神祇信仰が仏教を媒介にして自立的な神道を形成していくものであった。


神仏習合が現存する神社
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* <奈良> 宝山寺
* <栃木> 日光東照宮
* <東京> 浅草寺と浅草神社
* <奈良> 談山神社
* <京都> 熊野神社
* <京都> 八坂神社
* <兵庫> 祇園神社










明治維新政府の国家神道



「国家神道」とは神道の一形態で、近代天皇制国家が政策的につくりだした事実上の国家宗教である。神社神道を一元的に再編成し、皇室神道と結び付けた祭祀中心の宗教である。王政復古を実現した新政府は、1868年(明治1)祭政一致、神祇官(じんぎかん)再興を布告して神道の国教化を進め、神仏判然令で神社から仏教的要素を除去して、全神社を政府の直接の支配下に置いた。71年、政府は全神社を国家の宗祀とし、社格を制定して、神社の公的地位を確立した。皇室の祖先神天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀(まつ)る神宮(伊勢(いせ)神宮)は、全神社の本宗(ほんそう)と定められた。82年、祭祀と宗教の分離が行われ、国家神道は、非宗教、超宗教の国家祭祀とされた。

 明治中期には、教派神道、仏教、キリスト教の3教が、国家神道に従属する事実上の公認宗教となり、国家神道体制が成立した。1889年大日本帝国憲法が制定され、その第28条は「信教ノ自由」を定めたが、それは、国家神道の枠内での宗教活動の容認にすぎなかった。天皇は神聖不可侵の現人神(あらひとがみ)とされ、国家神道の最高祭司として祭祀大権を保持する存在となった。翌年出された「教育勅語」は、国民に天皇制国家への忠誠を命じるとともに祖先崇拝を強調し、国家神道の事実上の教典となった。また各学校へ配布された天皇・皇后の「御真影(ごしんえい)」は、国家神道の事実上の聖像として礼拝の対象となった。1900年(明治33)内務省に神社局が設置され、神社行政と宗教行政が分離された。

 明治後期には、皇室祭祀を基準として神社祭式が定められ、神官神職は待遇官吏として公的身分を与えられた。神社の経営には、国および道府県市町村から供進金が支出された。国家神道のもとで、国内をはじめ植民地、占領地などに靖国(やすくに)神社、橿原(かしはら)神宮、明治神宮、朝鮮神宮、建国神廟(びょう)などの神社が相次いで創建された。国民は天皇崇拝と神社信仰を義務として課せられ地元の神社の氏子に組織された。1940年(昭和15)「紀元二千六百年」を機に神社局は神祇院に昇格し、戦争の激化とともに、国体の教義が鼓吹された。日本は万世一系の天皇が統治する万邦無比の神国とされ、世界征服を意味する八紘一宇(はっこういちう)が「聖戦」のスローガンとなった。






明治期の神仏分離と廃仏毀釈



大政奉還後に成立した新政府により、慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策を拡大解釈し、暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。

日本政府の神仏分離令や大教宣布は、あくまでも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈運動(廃仏運動)が全国的に発生した。特に長年仏教に虐げられてきたと考えていた神職者たちは各地で仏教を排撃し、仏像、経巻、仏具の焼却や除去を行った。平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が仏教の排斥につながった。廃仏毀釈は神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。

神仏分離がこれほど激しい廃仏毀釈に至った原因であるが、廃仏思想を背景とするもの、江戸幕府の間接統治のシステムとしての寺請制度下において管理・統制の実行者として与えられた特権に安住した仏教界への神官・庶民の反感、地方官が寺院財産の収公を狙ってのことなど、様々な社会的・政治的理由も窺える。日本政府は廃仏毀釈などの行為に対して「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ」ことと、「神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではない」との注意を改めて喚起した。また、一方でこれらの廃仏運動は、藩政時代の特権を寺院が喪失したことによって仏教界へ変革を促し、伝統仏教の近代化に結びついたとする意見もある。尾鍋輝彦は、近代国家形成期における国家と宗教の問題として、同時期にドイツ帝国首相オットー・フォン・ビスマルクが行った文化闘争との類似性を指摘している。

アーネスト・フェノロサは、明治政府の神仏分離令による仏像破壊に心を痛めていた。







明治天皇と7人の側室



明治天皇の奥さんといえば昭憲皇太后。
実は昭憲皇太后、大正天皇の実母ではないことをご存知でしょうか。
彼女との間に子ができなかった明治天皇は、7人の側室を置いたといわれています。
そこで今回は、明治天皇の側室と大正天皇の実母についてご紹介していきますね。

公になっている明治天皇の側室5人
7人いたとされる明治天皇の側室のうち、公になっているのは5人。
いずれも公家出身の女官でした。
それではそれぞれの方について、簡単に紹介します。

葉室光子
葉室はむろ光子は男児を出産しますが死産。
しかも光子自身も5日後に亡くなりました。
なお、このときシーボルト(※)の娘・楠本イネが出産に立ち会っています。
※ 江戸時代のオランダ商館医師。鳴滝塾で医学を教えたことで有名なドイツ人。

橋本夏子
橋本夏子と明治天皇の間には女児ができますが、死産。
そして、またもや夏子も出産の翌日に亡くなっています。
明治時代とはいえ、やはり出産は命懸けだったのですね。

柳原愛子
柳原愛子やなぎわらなるこは、明治天皇との間に2男1女をもうけました。
ですが、成人できたのは男の子1人だけ。
他の2人は夭逝ようせい(年が若くて死ぬこと)しています。
愛子本人は満84歳まで長生きし、大正天皇の妃・貞明皇后の教育係なども務めました。

園祥子
園祥子(さちこ)は、明治天皇の寵愛ちょうあいを最も受けた人物といわれています。
明治天皇の間には2男6女をもうけました。
そのうち2人の男児と2人の女児は夭逝しています。
なお、成人した昌子内親王は、テレビなどでお馴染みの竹田恒泰さんの曾祖母にあたります。

千種任子
千種任子ちぐさことこは明治天皇の間には2女をもうけました。
しかし二人とも夭逝しています。

大正天皇は皇后の子ではない
冒頭で大正天皇の実母は昭憲皇太后ではないことをお伝えしましたが、誰の子かもうお分かりですね。
明治天皇は側室たちとの間に5人の男児をもうけましたが、成人した子は一人しかいません。
ということで、大正天皇を産んだのは柳原愛子でした。
女性天皇問題が議論されて久しい昨今。
このように見ていくと、男の子が生まれて健康に育つことは大変なことなのですね。












連合国軍総司令部=GHQの神道指令
~ 天皇崇拝の国家神道は解体された ~



神道指令(しんとうしれい)は、1945年(昭和20年)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)の通称である。

覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院を解体し政教分離を果たすために出されたものである。

これにより公的機間による神社への支援、資金援助が禁止され、「大東亜戦争」や「八紘一宇」など、国家神道、軍国主義的・超国家主義的とされる用語の使用も禁止された。

成立経過
個人の信仰としての神道は干渉せず「上からの強制」である神道は廃止せよ、との国務長官ジェームズ・F・バーンズの命に基き、GHQ民間情報教育局のウィリアム・バンスが草案作成を担った。バンスは日本国内の神道学者・仏教学者の教示を受けつつ、D・C・ホルトム(英語版)の著作を深く参考にした。

総司令部に助言していた宗教学者岸本英夫によれば、総司令部は当初日本側に自主的な政教分離を促す方針だったが、1945年10月末から11月にかけてその方針を転換し、総司令部自身が指令を策定する方向に動きはじめた。岸本によれば、10月29日に民間情報教育局局長ケン・R・ダイクと宗教学の重鎮姉崎正治が会談した結果、自主的な政教分離を求める方針を断念したのではないかという。

12月10日に岸本英夫はバンスが作成した指令の草案についてのコメントを秘密裏に求められた。岸本は「国体」の用語の使用を禁ずる規定を草案から削除することを提案し、バンスはそれを受け入れた。岸本は国体論を禁じることによって国体を論じる『教育勅語』が神道指令を通じて不透明な形で廃止されるより、日本側の発意もしくはもっと直接的な指令により廃止されるべきだと考えた(岸本によればバンスらも『教育勅語』が慎重な取り扱いを要することは理解していたが、『教育勅語』に「国体」の語が含まれることを見落としていたのではないかという)。

ある時点の草案には靖国神社を廃止する記述、伊勢神宮を皇室の私的神殿として宮内庁管轄下に残す記述があったが、いずれも最終的には採用されなかった。

総司令部は神道指令を各種指令の中でも重要度の高いものと見なしていた。神道指令立案に関わったウィリアム・ウッダードは、国家による強制性のあった神道(国家神道)を廃止することで日本国民の信教の自由を守ることができると考え、これは「民主化の重要な第一歩」であったとした。

総司令部民間情報教育局局長ダイクと宗教課長ブンセは指令発表後に、国庫からの補助金がなくなった後の神社のありかたについて、寄付金で運営していくことができると考えていると述べ、伏見稲荷や琴平宮を実例として挙げた。

様々な経過を辿り、斯くして 、「神社神道」は国家的公的性格を失って、民間の宗教として再出発することとなり、1947年神社本庁(東京都渋谷区代々木)が設立された。




昭和天皇の戦争責任論



戦争当時の日本では国家主権は天皇に帰属し、日本国内でも外国でも天皇は日本の元首であり最高権力者であると認識されていて、戦争を始めとする全ての政治的な決定は天皇の名のもとで下され、遂行されたという歴史的事実から、天皇に戦争責任があったとする主張がある。

極東国際軍事法廷(東京裁判)では天皇は起訴されなかったが、裁判長のウィリアム・ウェブは、個人的な意見として天皇の戦争責任を言及した。
一、天皇の権威は、天皇が戦争を終結された時、疑問の余地が無いほど証明されている。(略)
一、天皇が裁判を免除された事は、国際軍事法廷が刑を宣告するに当たって、当然配慮すべきことだったと私は考える。
一、天皇は常に周囲の進言に基づいて行動しなければならなかったという意見は、証拠に反するか、またかりにそうであっても天皇の責任は軽減されるものではない。
一、私は天皇が処刑されるべきであったというのではない。これは私の管轄外であり、天皇が裁判を免れた事は、疑いも無く全ての連合国の最善の利益に基づいて決定されたのである。 ウェブはこう述べて、天皇には戦争責任があるが、政治的配慮によって起訴されていない事を明らかにした。

また、天皇自身も戦争責任を意識している節は各種証言や手記によって確認されている。ポツダム宣言受諾の際の1条件(国体護持)を巡る回答や、(中曽根らの進言に沿って戦後に退位を望む意向を示したことなど。
天皇の戦争責任を問う声は、敗戦直後からすでに緩やかな形で存在しており、三好達治は人間宣言した天皇について、「神にましまさぬ陛下は、人の子として世の中の道理にお従いになるがよろしい」と述べ、人としての責任を問い、アメリカから帰国した大山郁夫は天皇の退位を論じた。
1948年の『中央公論 昭和23年7月号』に大山郁夫が寄稿した『戦争責任と天皇の退位』では、「それ(=戦争についての天皇の責任)は単純に個人道徳上のそれにあるにとどまるものではなく、さらに・・・政治道徳上の責任に渡るものだと思う」と書いている。

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国内や他国からの反応

具体的には、昭和天皇をアメリカ軍の捕虜として管理し、さらにその捕虜を通して内閣総理大臣及び最高裁判所長官の任命に関与し、内政干渉するという計画書が策定された。

一方で、イギリス、オランダ、中国の各国世論大半からは枢軸国の指導者としてアドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニに並んで、昭和天皇を憎悪の対象として見られた。

1971年(昭和46年)に昭和天皇がヨーロッパを訪問した際、ベルギー、フランスでは歓迎を受けたが日本と交戦国であったイギリス(日英同盟での旧同盟国)、オランダでは昭和天皇に憎悪感情を抱く退役軍人等からの抗議に遭い、イギリスでは馬車に乗っている最中に「天皇は帰れ!!」と抗議を受けた。

イギリスの場合、大衆紙の『ザ・サン』は「血に染まった独裁者」として昭和天皇の写真を掲載し、昭和天皇を「バッキンガム宮殿からVIP待遇を受けた血に染まった独裁者達」として特集していた。1989年2月24日、大喪の礼の際にメディアでは昭和天皇の戦争責任を問う報道があった。

オランダでは昭和天皇が乗車する車に卵や魔法瓶や手植え苗を投げるほど反日感情が根強く、昭和天皇が在位中の1986年のベアトリクス女王の日本訪問はオランダ国内で反対を受けた。

アメリカでは戦争終結直前の1945年6月29日に行われた世論調査によれば、「昭和天皇を処刑するべき」とする意見が33%、「裁判にかけるべき」とする意見が17%、「終身刑とすべき」とする意見が11%であった。

1975年(昭和50年)に訪問したアメリカでは、侍従長入江相政によると「天皇に対する激しい憎しみを露わにしたアメリカ人もいた」といい関係者を悩ませたものの、歓迎ムードであり、後にディズニーランドにも訪問した。また昭和天皇はアメリカ兵犠牲者の慰霊碑に訪問して、アメリカ人を喜ばせている。

しかし後にハーバート・ビックスは著書『昭和天皇』において「昭和天皇が戦争に積極的に関与した」という主張を提示し、論争を引き起こした。

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京都大学の歴史学教授・井上清の主張

昭和天皇は帝国憲法第1条、第3条、第4条において、統治者であること、神聖さ、元首である事が規定されており、大日本帝国の唯一最高の統治者であった。もし裕仁個人が戦争を欲しなくて、臣下に仕向けられたとしても、「結局は天皇が戦争を決意することによってしか」戦争はできない。

「天皇は日本軍隊唯一絶対の統帥権者であった」。天皇は憲法第11条と勅諭によって軍の統帥権者であるとともに忠君の道徳が強調され、上官の命令は天皇の命令として遂行する事が正当化された。参謀本部等は天皇のみの命令を受ける機関であり、規定、命令等は全て天皇に報告され、裁可を受けて天皇の命令として伝達・実施された。統帥権者である天皇が命令指揮しない戦争はないのであり、これだけでも「責任は疑う余地がない」。

さらに天皇は憲法第1条と第3条に規定される神的権威をもっていた。1868年(新暦における明治元年)に天皇が統治者となった時から、政府は「天皇が神の子孫であり、正当支配者であり、日本の国民は天皇を無限に尊崇し、絶対に従わなければならない」という思想・信仰を憲法と教育勅語に経由し3代(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)にわたって国民に植え付けた。こうして「天皇の権威が日本国民をあの戦争へと駆り立てた」のである。1931年から1945年に至るまでの戦争は「犯罪的侵略戦争」であり、天皇は責任を負わなければならない。

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昭和天皇の戦争責任・・・・・山田朗著

昭和天皇の大元帥としての役割、実際の戦争指導の実態をふまえ、その戦争責任を鋭く究明する。第一部では、天皇と軍隊・靖国神社・植民地支配の関係、第二部では、天皇の戦争指導の素養や能力を実例をもとに分析する。第三部では、昭和天皇の回想録である『独白録』と宮内庁編の公式伝記『実録』なども活用し、平和主義者イメージをくつがえす。

目次や構成
まえがき
第一部 大元帥としての昭和天皇

第一章 近代天皇制における天皇
 一 天皇と軍隊
 二 天皇と靖国神社
 三 植民地と天皇

第二章 昭和天皇の満州・朝鮮観と膨張主義思想
 一 張作霖爆殺事件における昭和天皇
 二 満州事変の勃発と昭和天皇
 三 熱河侵攻作戦と天皇の失敗
 四 昭和天皇の朝鮮観

第二部 昭和天皇の戦争指導

第三章 昭和天皇と軍事情報:大本営による戦況把握と戦況奏上
 一 天皇に対する戦況奏上資料
 二 台湾沖航空戦における幻の「大戦果」の奏上
 三 大本営の戦果判定能力
 四 フィリピン沖海戦における損害と「特攻隊」についての奏上

第四章 昭和天皇の戦争指導・作戦指導
 一 ガダルカナル攻防戦と天皇の督戦
 二 天皇による中部ソロモン撤退論批判
 三 天皇の決戦要求と戦略眼

第三部 昭和天皇の戦争責任

第五章 徹底検証『昭和天皇独白録』
 一 『独白録』をつらぬく弁明の論理
 二 『独白録』にみる昭和天皇の戦争指導
 三 『独白録』で語られなかった問題

第六章 徹底検証『昭和天皇実録』
 一 『実録』の軍事面での記述の特徴
 二 『実録』に見る軍事面での新たな発見
 三 『実録』に見る昭和戦前期の諸事件と天皇

第七章 天皇の戦争責任を考えることの意味
 一 現代における戦争責任の追及とは
 二 天皇をめぐる戦争責任論とその歴史的位置
 三 天皇の法的機能からの戦争責任否定論
 四 天皇の「実態」を根拠とする戦争責任否定論

あとがき 日本の戦争 略年表

著者情報
山田朗
1956年、大阪府生まれ。明治大学文学部教授、歴史教育者協議会委員長。主な著書に『日本帝国主義の満州支配』(共著、時潮社、86年)『昭和天皇の戦争指導』(昭和出版、90年)『大元帥・昭和天皇』(新日本出版社、94年)『外交資料近代日本の膨張と侵略』(編、新日本出版社、97年)『歴史教育と歴史研究をつなぐ』(編、岩波書店、07年)『日本近現代史を読む』(共著、新日本出版社、10年)『兵士たちの戦場』(岩波書店、15年)『近代日本軍事力の研究』(校倉書房、15年)『昭和天皇の戦争』(岩波書店、17年)、『日本の戦争:歴史認識と戦争責任』(17年)『日本の戦争Ⅱ:暴走の本質』(18年)『日本の戦争Ⅲ:天皇と戦争責任』(19年)『帝銀事件と日本の秘密戦』(20年、ともに新日本出版社)など多数。







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神は死んだ、しかし天皇は生きた
敗戦後のKK少年




~昭和21年=1946年~

★1946年1月1日、
昭和天皇は、詔書で、天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念であると述べ、 自らの神性を否定しました。これは、のちに、天皇の地位が根本的な変更をもたらせる布石ともなりました。 同日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、この詔書に対する声明を発表し、 天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと、高く評価しました。
神様から人間になった昭和天皇は、自らの戦争責任については、どのように考えていたでしょうか。



★1946年4月から、島根県立浜田中学校に入学しました。
KK少年は戦後派中学生として、次男坊らしく自由奔放に育ちました。
世間で言う「やや悪戯小僧・悪ガキ」の一人だったと、自虐的に称しています。中学1年生の時、隣席に優秀なNS君がいました。 都会育ちの明朗で、真面目な少年でした。彼とは汽車通学が一緒でした。 彼と仲良しの友達になりました。中学2年生の時、NS君は、突然、愛知県拳母市(現在の豊田市)へ 引っ越しました。尊敬する友人を失って、ちょっと寂しくなりました。

~昭和22年=1947年~

★1947年5月、
日本国憲法が施行されました。
憲法の前文では「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである。われらは,これに反する一切の憲法,法令及び詔勅を排除する。」と書いてありました。

~昭和23年=1948年~

★1948年4月から、
中学3年生の時には、同じ教室で、成績優秀なYN君と友達になりました。 YN君は、都会育ちのダンディー少年でした。反抗期の自称「蛮カラ少年」だったKK少年にとって、YN君の心ある友情を とても嬉しく思いました。ある日の日曜日、浜田中学校前にあるカトリック教会へ、YN君と二人で行きました。 僕たちは、人生を如何に生きるべきか、模索していました。

★1948年12月23日
皇太子明仁殿下(のちに平成天皇)の誕生日に、次の7名に死刑が執行された。

1,板垣征四郎
   =陸軍大将 陸相(第1次近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、
   関東軍参謀長 中国侵略・米国に対する平和の罪
2,木村兵太郎
   =陸軍大将 ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)
   英国に対する戦争開始の罪
3,土肥原賢二
   =陸軍大将 奉天特務機関長、第12方面軍司令官、中国侵略の罪
4,東條英機
   =陸軍大将 第40代内閣総理大臣 ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、
   米国軍隊と一般人を殺害した罪
5,武藤章
   =陸軍中将 第14方面軍参謀長(フィリピン) 一部捕虜虐待の罪
6,松井石根
   =陸軍大将 中支那方面軍司令官(南京攻略時) B級戦犯、
   捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)
7,広田弘毅
   =文官 第32代内閣総理大臣 近衛内閣外相として南京事件での
   残虐行為を止めなかった不作為の責任

~昭和24年=1949年~

★1949年4月から、
島根県立浜田高等学校の1年生になってから、自我に目覚めました。 文学、歴史、哲学などの書物を多読するようになりました。そして、クラブ活動として、 YN君の誘いを受けて化学部に入りました。

★1949年には、
京都大学の湯川秀樹博士が、ノーベル物理学賞を受賞しました。 受賞理由は、陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想したことにありました。
そこで、KK少年は書店へ行き、「量子力学論」の専門書を買って勉強しました。KK少年にとって、難解な理論でしたが、 丁寧に読み進めて原子核の仕組みを理解することが出来ました。

KK少年の将来の夢は決定しました。
それは、ノーベル化学賞を受賞した湯川秀樹博士のような学者になる事でした。 クラブ活動としては、最初の課題は、上級生のNさんの指導の下で、 化学部の実験室で「定性分析」「定量分析」に挑戦する事でした。

急遽、高校校舎の移転が決まり、化学実験室は取り壊しになる事が決まりました。 KK少年の化学実験も一時停止に追い込まれました。新しい高校校舎は、 島根県立浜田高校の校舎は、旧帝国陸軍歩兵第21連隊の兵舎へ移転することになりました。

*1949年7月5日、国鉄、下山事件が起こる、未解決

*1949年7月15日、国鉄、三鷹事件が起こる、未解決

*1949年8月17日、国鉄、松川事件が起こる、未解決

~昭和25年=1950年~

★1950年3月、
高校1年生が終わった春休みに、両親に無断で家出しました。
目的地は京都市でした。湯川秀樹博士を輩出した京都大学の化学教室を見たかったのでした。

★1950年6月25日、
朝鮮戦争が勃発しました。
北朝鮮が突然に韓国に対して奇襲攻撃して来ました。 この戦争で、およそ 300万人が命を落した。米軍を主体とする国連軍が韓国側に立って戦争に参加し,また中国が最終的に北朝鮮支援に動いた。


★1950年8月、
愛知県拳母市(現豊田市)のNS君の家を訪問しました。
NS君の父がトヨタ自動車の工場を見学案内して下さいました。

★1950年10月、
突然のことだが、浜田市議会の決議のよって、浜田高校の校舎が、警察予備隊(現在の自衛隊)の兵舎になるとの情報があり、 この警察予備隊の誘致に反対するために、生徒会執行部13名が、無期限ハンガーストライキに突入した。 KK少年も、その執行部13名の一人だった。その夜に、当時の岡本市長が「自分の命を懸けても自衛隊の誘致を 阻止する」とのことで、翌朝にはハンガーストライキを解除した。
このストライキ事件を切っ掛けに、KK少年は反戦平和運動や革新的思想に興味を覚えました。 そして、経済学者・川上肇博士(元京都大学教授)の「貧乏物語」や 進歩的思想家の羽仁五郎(自由学園創始者の女婿)などの著書/書籍を読み漁りました。 kk少年の興味と関心は、自然科学の世界から社会科学の世界に移りました。

~昭和26年=1951年~

★1951年8月、
東京神田の研数学館で、大学受験の為に、英語・数学・国語の夏季講習を受けました。

★1951年9月8日、
サンフランシスコ講和条約が締結された。
1952年4月28日発効。日本代表は吉田茂。前文のほか27ヵ条よりなり日本の主権・平等を承認したが,外国軍隊の日本駐留継続を認めた。また朝鮮の独立,台湾・澎湖諸島,千島・南樺太の放棄を規定したが,帰属先は不明確のままで紛争の種を残した。沖縄・小笠原は米国を唯一の施政権者とする国際連合の信託統治下に入ることが予定され,それまでは米国の支配下に置かれることになった。中国・インド・ビルマ・ユーゴ・ソ連・ポーランド・チェコとは締結しない片面講和条約であり,同時に締結の日米安全保障条約とともに日本を対米従属下においた。翌1953年中華民国(国民政府)と日華平和条約を結び,インドなど6ヵ国とも1957年までに国交を回復。





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☆ 青春の揺れる心 ☆
~ 東西冷戦時代の背景で ~




~昭和27年=1952年~

1952年3月、島根県立浜田高等学校を卒業しました。
1952年4月、慶應義塾大学文学部に入学しました。

★1952年5月1日に、
血のメーデー事件がありました。
サンフランシスコ講和条約が発効した直後のメーデーで、 条約反対のデモ隊が使用不許可となっていた皇居前広場に入り、警官隊と衝突しました。 警察は催涙ガスを使用し、また武器を持たないデモ参加者に向けて銃を発砲したため、 その年のメーデーは流血の惨事となり、多くの死傷者が出ました。 憲法に保護された形の政治的表現を行使していたデモ参加者に対して、 警察が殺傷力のある武器を使用したのは、戦後日本で初めてのことでした。




血のメーデー事件が起きた時には、KK少年は実兄・長男YK兄が既に在籍している慶應義塾大学に入学して間もない時でした。 当時は、朝鮮戦争の真只中にあり、社会不安が漂う時代でした。 KK少年は、東西冷戦時代の不確実な未来社会を、日本国の社会体制の行く末を案じていました。 そこで、大学のクラブ活動の社会科学研究会に属して、少壮の経済学者を チューターにして、近代日本資本主義経済史を研究し始めました。

~昭和28年=1953年~

★1953年7月、朝鮮戦争の休戦協定が締結されました。

★1953年9月、大学2年生の後半時に、肺結核に罹り、さらに結核性脈絡網膜炎を患いました。 眼結核で左眼の視力を失い、盲目の危機にさらされました。KK少年は闘病中に自分の将来を悲観して自殺さえ考えました。

★1953年11月、学友YY君の紹介で慶応病院系列の下谷病院に入院しました。 下谷病院の医師は、病院長始め殆どの医師が慶應義塾医学部の出身者で占めていました。 病院長が学友YY君の叔父だったので、とても親切に面倒を見て頂きました。 約1年半の療養中、父母・親戚・友人から多くの援助を受けました。物心両面の温かい援助の効があって、肉体的にも精神的にも、 健康を回復しました。

~昭和29年=1954年~

★1954年、 復学を考えていた時に、父から勉強をやり直して医師の道を選ぶよう幾度も言われました。 地方の私立医科大学の受験を勧められましたが、医師コースに挑戦することはしませんでした。 医師と言う職業は激務だという事でしたので、KK青年は健康を損ねた経験から、医師の道は 適当な職業とは思いませんでした。加えて、医師という職業は社会的地位も高く経済的には安定しているものの、 我が故郷・寒村での開業医は、超多忙で、短命で、夢のない仕事だと、当時、思っていました。

~昭和30年=1955年~

★1955年4月から、
病後における大学生活は、教室授業では興味の湧いた民法や国際関係論の講座に出席し聴講しました。 主として、三田山上にある大学図書館に通いました。数多の書籍・雑誌を通じて、国内外の新しい情報を求めました。 現代世界史の流れは、米国を中心としたものであり、世界一の大国である米国の政治・経済・社会に関心を持って研究しました。 そこで、「アメリカ近現代史」を研究の専門分野として選択しました。

三田山上の学友たちと親交を深め、多くの幅広い友人をつくりました。彼らとの談論・交遊を通じて 新たなる自由と民主主義のもとで、厳しい社会でありながら、独立自尊の学風で、独立して生きる力を 自ら育成しました。

★1955年10月、
日本社会党はそれまで左右両派に分裂していたのを統一した。 同年11月には自由党と日本民主党が保守合同して自由民主党を結成した。 以後、日本政治は、自民党が代表する保守と社会党が代表する革新の対決という構図で展開した。 これは米国とソ連による東西対決の代理戦争という性格を持っていた。また、財界対労組の反映でもあった。 自民党、社会党の両党は激しく対立する半面、底流では通じ合う癒着構造もつくられた。

~昭和31年=1956年

★1956年3月、山陰地方の名門NS君の家を訪問しました。
NS君の父親の事業は、多岐にわたり、山陰地方の随一の財閥と言われていました。

★1956年8月、友人5名と、伊豆半島周遊の旅をしました。

★1956年12月、国連が日本国の加盟を承認しました。
日本は、サンフランシスコ講和条約が発効して主権が回復した1952年に国際連合に加盟を申請した。しかし、冷戦の最中であり、ソビエト連邦など社会主義諸国の反対によってなかなか実現しなかった(安全保障理事会では常任理事国5か国が拒否権を有しており、そのうちの1か国であるソ連が反対する限り、日本は国際連合に加盟できなかった)。1956年10月の日ソ共同宣言とソ連との国交回復によってこの障害がなくなったため、同年12月12日の安保理決議121での承認勧告の後、12月18日の総会における全会一致の承認でもって80番目の加盟国として国際連合に加盟した。

~昭和32年=1957年~

★1957年8月、ひとりで、北海道地方を周遊旅行しました。

~昭和33年=1958年~

★1958年2月、大学の卒業論文の提出時期が来ました。
KK青年の卒業論文は、1920年のアメリカ合衆国のウォレン・ハーディング第29代大統領が施政した時代から、 1929年のウォール街の恐慌までの、1920年代の米国近代史を研究したものでした。

<論文の概要=1920年代の米国史>

 第一次世界大戦を機に、世界的な女性の社会進出が進んだが、アメリカ合衆国においても1920年に女性参政権が実現し、民主主義が一段と徹底された。1920年代のアメリカは、共和党政権下の経済の繁栄がもたらされた時代。アメリカの国民総生産は年5%以上成長し続け、インフレはほとんど無く、ひとりあたりの所得は30%以上増えた。こうした経済の拡大をもたらしたのは、科学技術と産業が有機的に結合し、これを政府が支持する「現代アメリカ」のシステムであった。

人種のるつぼ
 その反面、経済の繁栄は世界中から移民を引き寄せることになり「人種のるつぼ」化が進んだ。そのなかで従来のワスプ(WASP)といわれる西欧系の移民と、新移民といわれる東欧・南欧からの移民、さらにアジア系移民との間で格差が広がり、新たな対立が生じ、特に日露戦争頃から増加した日本人移民に対する排除の動きが強まり、1924年5月には移民法が制定された。これは南・東欧系ヨーロッパ人は数の上での制限であったが、日本人に対しては実質的な移民禁止という厳しいものであったので「排日移民法」ともいわれた。また、南部の黒人差別は事実上の黒人選挙権の剥奪と、いわゆる分離政策が平然と行われ、一旦沈静化していた白人至上主義者の秘密結社であるクー=クラックス=クランが1920年代に復活し、激しい黒人攻撃をくりかえしていた。

大量生産・大量消費・大衆文化
 20世紀前半、アメリカ資本主義は工業化が急速に増大した。アメリカ合衆国の1920年代の経済成長の中で、大量生産・大量消費が行われ、アメリカ人は物質的な豊かさを経験した。それを牽引したのが自動車産業であり、フォード社のT型モデルがベルトコンベアシステムで大量生産され、価格の低下によって一般大衆が購入できるようになった。同時に関連した石油産業が急速に成長し、道路建設やタイヤ産業も興った。また月賦販売が一般化して、セールスマンが花形職業として脚光を浴び、宣伝業も一大市場となった。このような大量消費社会の形成を反映して、文化の面でもラジオや新聞などのマスメディアが発展し、音楽・演劇でジャズの流行のように大衆化が著しく、また新たな大衆娯楽として映画なども生まれた。1920年代は経済の繁栄を背景とした、「ローリング・トゥエンティ」といわれる現代大衆文化が開花した時代でもあった。

共和党の三代
 1920年代、「繁栄の時代」にはハーディング・クーリッジ・フーヴァーの三代の共和党大統領が続いた。
•ハーディング:在任1921~23 ワシントン会議を提唱して協調外交では功績を挙げたが、内政では汚職が多発したり、自身の女性スキャンダルもあって低迷した。任期途中に死去し、副大統領のクーリッジが昇格した。
•クーリッジ:在職1923~29 無口で愛想が悪く「何もしない大統領」と言われたが、未曾有の経済の繁栄はその自由放任主義がちょうどよかった。外交面では国務大臣ケロッグが活躍して、1928年に不戦条約を成立させた。
•フーヴァー:在任1929~33 商務長官として企業や高額所得者への税制優遇など企業よりの政策を推進し、1929年「永遠の繁栄」を謳歌するアメリカの大統領として当選したが、直後に世界恐慌が始まる。それにたいしては彼は政府は経済になるべく介入しない方がいいという信念から、対策を立てなかった。



★1958年4月、大学卒業して、資源エネルギー産業の会社に就職しました。 学友のNS君の父親が社長を務めるウラン鉱の開発事業に携わることになりました。 のちに、鳥取県と岡山県の県境にある人形峠/ウラン鉱の掘削事業に参加しました。 人形峠事務所では、私の直属上司はSS氏でしたが、尊敬できる素晴らしい上司でした。 彼は、東京の一中・一高・東大を出て、三菱金属鉱業に入社し、定年退職していた人でした。 彼はウラン鉱業を退職したあとには、日本大学の理工学部教授(博士号取得)となっていました。 それから、1960年には、私は東京・永田町の日本全国町村会館内の本社において総務畑で仕事をしました。 1962年3月、結婚するために、給料の高い会社への転職を考えて、ウラン鉱業を中途退職しました。
(備考)
1970年頃、人形峠のウラン鉱開発会社も、鉱業権を政府に売却して、解散整理したと 聞いています。



★1962年4月、エッソスタンダード石油に転職しました。 エッソ石油会社における約31年間の在職中は、ひたすらに、セールス・パーソンとして、石油製品の販売活動に従事し猛烈に働きました。 1993年3月に、60歳定年退職を迎えて、永年勤務したエッソ石油を退職しました。
(備考)
会社を退職後30年経過した今、90歳になり、昔日を振り返れば、会社での勤務は苦しく辛い労働の連続でした。 そして、利潤追求の販売活動を通じて「多種多様な人間模様」を認知しました。 自分は、激しい生存競争の世界で、善悪を超えて、「生きる」ことの厳しさを認識しました。 そこで、我慢と忍耐に徹した自分は「爽やかに、しなやかに、したたかに」生きることを学びました。