KK少年は、太平洋戦争中に国民学校において
KK少年は、大東亜戦争中、毎日、毎日、必ず、義務として、
☆奉安殿とは
学校に下賜された「御真影(ごしんえい)」や教育勅語など勅語類を安置する建物。天皇・皇后の写真である「御真影」と勅語の諸学校への下賜は1890年(明治23)に始まるが、その下賜数がしだいに増加するとともにその管理規定も厳重となり、管理の不行き届きは学校長などの重大な責任問題とされるに至った。「御真影」などは当初校舎内の奉安所に安置されていたが、学校の火事に際して「御真影」を守って焼死する校長などが相次ぐなかで、校舎から離れた地点に堅固な奉安殿を建設し、「御真影」などを安置することが大正期から始まった。奉安殿の建設は1935年(昭和10)以降全国的に実施され、「御真影」はますます神格視された。
~昭和16年=1941年~
★1941年3月、 国民学校令が公布された。
~昭和17年=1942年~
★1942年6月、
~昭和18年=1943年~
★1943年5月、アッツ島玉砕
*KK少年は、大東亜戦争中において、来る日も来る日も、月月火水木金金の休日なしの勤労奉仕という過酷の肉体労働をしました。
通学用品は、ランドセル、教科書、ノート、鉛筆などではありませんでした。草刈り鎌、農耕用鍬、荷運びの竹製笈こそが必携の学用品でした。
校舎内教室で、教科書を開いて勉強した記憶はありません。
~昭和19年=1944年~
★1944年7月9日、サイパン島陥落、玉砕
★1944年7月、インパール作戦失敗
*国民学校では、昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に戦地へ出征する兵士を鉄道駅の駅頭まで見送りしました。その駅頭では
「海ゆかば」の歌を唄って、出征兵士の名誉を讃えました。まさに、その駅頭から、英霊として帰還した兵士の葬列に加わり、
悲しい想いをしました。肉親や親戚、近所の人達が戦争犠牲者となりました。人間の生命は鴻毛よりも軽く、
昭和天皇陛下(現御神=アキツミカミ)の御為に死ぬことこそ、大変な名誉であるという価値観を強要した教育が行われました。
「玉砕」の記事における「本土決戦と一億玉砕」の解説
戦局が絶望的となると、軍部は「本土決戦」を主張し、「一億玉砕」や「一億(総)特攻」、「神州不滅」などをスローガンとした。なお既に1941年(昭和16年)から「進め一億火の玉だ」とのスローガンが使用されていたが、これらの「一億」とは、当時日本の勢力下にあった満洲・朝鮮半島・台湾・内南洋などの日本本土以外の地域居住者(その大半が朝鮮人や台湾人)を含む数字であり、日本本土の人口は7000万人程であった。
【参考】
~昭和20年=1945年~
★1945年2月14日、
*国民学校では「本土決戦」に備えて軍事訓練が実施されました。鬼畜米英兵士を殺す竹ヤリ突撃演習が連日行われました。
耳を破裂させるような怒号に近い、教官の軍事命令には閉口しました。
その怒号には、KK少年にとって、時には、恐怖心で、頭が真っ白になってしまう事がありました。
★1945年9月2日、
*大東亜戦争は、昭和天皇が統師する大日本帝国陸海軍が敗れて終戦になりました。
昭和天皇が前向きに考えた米英との開戦は、国力の差を無視した無謀な賭けでした。
そして、それぞれの作戦にも数々の無謀さがありました。昭和天皇には、この戦争を途中でやめ、
講和に向かうという判断力や冷静さが働くことはありませんでした。
*天皇制軍国主義の象徴である奉安殿は解体された。
KK少年は、太平洋戦争中に、天皇陛下のために、 |
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昭和天皇の戦争責任論
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※ 天孫降臨を基に「万世一系」が続く |
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神は死んだが、天皇は生きのびた
~昭和21年=1946年~
★1946年1月1日、
~昭和22年=1947年~
~昭和23年=1948年~
★1948年12月23日
~昭和24年=1949年~
★1949年4月から、
~昭和25年=1950年~
~昭和26年=1951年~
★1951年8月、
★1951年9月8日、 |
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☆ 青春の揺れる心 ☆
~昭和27年=1952年~
~昭和28年=1953年~
★1953年7月、朝鮮戦争の休戦協定が締結されました。
~昭和29年=1954年~
★1954年、
復学を考えていた時に、父から勉強をやり直して医師の道を選ぶよう幾度も言われました。
地方の私立医科大学の受験を勧められましたが、医師コースに挑戦することはしませんでした。
医師と言う職業は激務だという事でしたので、KK青年は健康を損ねた経験から、医師の道は
適当な職業とは思いませんでした。加えて、医師という職業は社会的地位も高く経済的には安定しているものの、
我が故郷・寒村での開業医は、超多忙で、短命で、夢のない仕事だと、当時、思っていました。
~昭和30年=1955年~
~昭和31年=1956年
★1956年3月、学友NS君の招待により、名門S家を訪問し、長期滞在しました。
学友 NS君の父親の事業は、多岐にわたり、山陰地方の随一の財閥と言われていました。
~昭和32年=1957年~
病後における大学生活は、
~昭和33年=1958年~
★1958年2月、大学の卒業論文の提出時期が来ました。
<論文の概要=1920年代の米国史>
第一次世界大戦を機に、世界的な女性の社会進出が進んだが、アメリカ合衆国においても1920年に女性参政権が実現し、民主主義が一段と徹底された。1920年代のアメリカは、共和党政権下の経済の繁栄がもたらされた時代。アメリカの国民総生産は年5%以上成長し続け、インフレはほとんど無く、ひとりあたりの所得は30%以上増えた。こうした経済の拡大をもたらしたのは、科学技術と産業が有機的に結合し、これを政府が支持する「現代アメリカ」のシステムであった。
~ 東西冷戦時代の背景で ~
1952年3月、島根県立浜田高等学校を卒業しました。
1952年4月、慶應義塾大学文学部に入学しました。
★1952年5月1日に、
血のメーデー事件がありました。
サンフランシスコ講和条約が発効した直後のメーデーで、
条約反対のデモ隊が使用不許可となっていた皇居前広場に入り、警官隊と衝突しました。
警察は催涙ガスを使用し、また武器を持たないデモ参加者に向けて銃を発砲したため、
その年のメーデーは流血の惨事となり、多くの死傷者が出ました。
憲法に保護された形の政治的表現を行使していたデモ参加者に対して、
警察が殺傷力のある武器を使用したのは、戦後日本で初めてのことでした。
血のメーデー事件が起きた時には、KK少年は実兄・長男YK兄が既に在籍している慶應義塾大学に入学して間もない時でした。
当時は、朝鮮戦争の真只中にあり、社会不安が漂う時代でした。
KK少年は、東西冷戦時代の不確実な未来社会を、日本国の社会体制の行く末を案じていました。
そこで、大学のクラブ活動の社会科学研究会に属して、少壮の経済学者を
チューターにして、近代日本資本主義経済史を研究し始めました。
★1953年9月、大学2年生の後半時に、肺結核に罹り、さらに結核性脈絡網膜炎を患いました。
眼結核で左眼の視力を失い、盲目の危機にさらされました。KK少年は闘病中に自分の将来を悲観して自殺さえ考えました。
★1953年11月、学友YY君の紹介で慶応病院系列の下谷病院に入院しました。
下谷病院の医師は、病院長始め殆どの医師が慶應義塾医学部の出身者で占めていました。
病院長が学友YY君の叔父だったので、とても親切に面倒を見て頂きました。
約1年半の療養中、父母・親戚・友人から多くの援助を受けました。物心両面の温かい援助の効があって、肉体的にも精神的にも、
健康を回復しました。
★1955年4月から、
教室授業では興味の湧いた民法や国際関係論の講座に出席し聴講しました。
主として、三田山上にある大学図書館に通いました。政治、経済、法律、社会などに関する数多の書籍・雑誌を通じて、国内外の新しい情報を求めました。
現代世界史の流れは、米国を中心としたものであり、世界一の大国である米国の政治・経済・社会に関心を持って研究しました。
そこで、「アメリカ近現代史」を研究の専門分野として選択しました。
病後における大学生活は、
三田山上の学友たちと親交を深め、多くの幅広い友人をつくりました。彼らとの談論・交遊を通じて
新たなる自由と民主主義のもとで、厳しい社会でありながら、独立自尊の学風で、独立して生きる力を
自ら育成しました。
★1955年10月、
日本社会党はそれまで左右両派に分裂していたのを統一した。
同年11月には自由党と日本民主党が保守合同して自由民主党を結成した。
以後、日本政治は、自民党が代表する保守と社会党が代表する革新の対決という構図で展開した。
これは米国とソ連による東西対決の代理戦争という性格を持っていた。また、財界対労組の反映でもあった。
自民党、社会党の両党は激しく対立する半面、底流では通じ合う癒着構造もつくられた。
病後における大学生活は、
繰り返しになりますが、 三田山上の学友たちと親交を深め、多くの幅広い友人をつくりました。彼らとの談論・交遊を通じて
新たなる自由と民主主義のもとで、厳しい社会でありながら、独立自尊の学風で、独立して生きる力を
自ら育成しました。
★1956年8月、学友NS君など友人5名と、約1週間の伊豆半島周遊旅行をしました。
旅行について言えば、毎年の春休み、夏休み、冬休みには、長野、新潟や京都、大阪などに行きました。
九州や北海道などにも行きました。観光旅行が殆どでしたが、スキー、スケートなどでも楽しみました。
★1956年12月、国連が日本国の加盟を承認しました。
日本は、サンフランシスコ講和条約が発効して主権が回復した1952年に国際連合に加盟を申請した。しかし、冷戦の最中であり、ソビエト連邦など社会主義諸国の反対によってなかなか実現しなかった(安全保障理事会では常任理事国5か国が拒否権を有しており、そのうちの1か国であるソ連が反対する限り、日本は国際連合に加盟できなかった)。1956年10月の日ソ共同宣言とソ連との国交回復によってこの障害がなくなったため、同年12月12日の安保理決議121での承認勧告の後、12月18日の総会における全会一致の承認でもって80番目の加盟国として国際連合に加盟した。
更なる繰り返しになりますが、 三田山上の学友たちと親交を深め、多くの幅広い友人をつくりました。彼らとの談論・交遊を通じて
新たなる自由と民主主義のもとで、厳しい社会でありながら、独立自尊の学風で、独立して生きる力を
自ら育成しました。
★1957年8月、ひとりで、約10日間の北海道地方を周遊旅行しました。
旅行について言えば、全国各地に散在する学友たちを訪問して、友人宅で居候することが多かった。
春休み、夏休みで、故郷での滞在期間が少なかったので、父母から苦情があったほどでした。
KK青年の卒業論文は、1920年のアメリカ合衆国のウォレン・ハーディング第29代大統領が施政した時代から、
1929年のウォール街の恐慌までの、1920年代の米国近代史を研究したものでした。
人種のるつぼ
その反面、経済の繁栄は世界中から移民を引き寄せることになり「人種のるつぼ」化が進んだ。そのなかで従来のワスプ(WASP)といわれる西欧系の移民と、新移民といわれる東欧・南欧からの移民、さらにアジア系移民との間で格差が広がり、新たな対立が生じ、特に日露戦争頃から増加した日本人移民に対する排除の動きが強まり、1924年5月には移民法が制定された。これは南・東欧系ヨーロッパ人は数の上での制限であったが、日本人に対しては実質的な移民禁止という厳しいものであったので「排日移民法」ともいわれた。また、南部の黒人差別は事実上の黒人選挙権の剥奪と、いわゆる分離政策が平然と行われ、一旦沈静化していた白人至上主義者の秘密結社であるクー=クラックス=クランが1920年代に復活し、激しい黒人攻撃をくりかえしていた。
大量生産・大量消費・大衆文化
20世紀前半、アメリカ資本主義は工業化が急速に増大した。アメリカ合衆国の1920年代の経済成長の中で、大量生産・大量消費が行われ、アメリカ人は物質的な豊かさを経験した。それを牽引したのが自動車産業であり、フォード社のT型モデルがベルトコンベアシステムで大量生産され、価格の低下によって一般大衆が購入できるようになった。同時に関連した石油産業が急速に成長し、道路建設やタイヤ産業も興った。また月賦販売が一般化して、セールスマンが花形職業として脚光を浴び、宣伝業も一大市場となった。このような大量消費社会の形成を反映して、文化の面でもラジオや新聞などのマスメディアが発展し、音楽・演劇でジャズの流行のように大衆化が著しく、また新たな大衆娯楽として映画なども生まれた。1920年代は経済の繁栄を背景とした、「ローリング・トゥエンティ」といわれる現代大衆文化が開花した時代でもあった。
共和党の三代
1920年代、「繁栄の時代」にはハーディング・クーリッジ・フーヴァーの三代の共和党大統領が続いた。
•ハーディング:在任1921~23 ワシントン会議を提唱して協調外交では功績を挙げたが、内政では汚職が多発したり、自身の女性スキャンダルもあって低迷した。任期途中に死去し、副大統領のクーリッジが昇格した。
•クーリッジ:在職1923~29 無口で愛想が悪く「何もしない大統領」と言われたが、未曾有の経済の繁栄はその自由放任主義がちょうどよかった。外交面では国務大臣ケロッグが活躍して、1928年に不戦条約を成立させた。
•フーヴァー:在任1929~33 商務長官として企業や高額所得者への税制優遇など企業よりの政策を推進し、1929年「永遠の繁栄」を謳歌するアメリカの大統領として当選したが、直後に世界恐慌が始まる。それにたいしては彼は政府は経済になるべく介入しない方がいいという信念から、対策を立てなかった。
大學では、課外授業で、図書館で、学友との討論で、
政治、経済、法律、社会に関する学問を勉強しました。
(備考)
大學生活は、優しい識見のある友人に恵まれました。
親しくなった学友たちは、独立心とヒューマニズムの持ち主でした。
在学中に、肺結核に罹り、さらに結核性脈絡網膜炎を患いましたが、
学友たちの温かい友情のお陰で、充実した楽しい大学生活を送ることができました。