一期一会で「生きていくためのノウハウ」を学ぶ



「人間とは本来、 生きる為に 『心の内側から周囲を主観的に観察している』存在です。 そもそも『知』とは、論理で万物を解釈する為というより 周囲の環境の中で 人間が生きていくためのノウハウだったはずです。」




< 大学時代の学友達との交流 >

親しき学友との交流で「知」を学んでいます
























独立自尊


~ 福沢諭吉像 ~



「 学問のすすめ」
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福沢諭吉が著した明治初期のもっとも有名な啓蒙書。

初編は1872年(明治5)刊行されたが、 非常な評判をとったのでシリーズ化し、76年刊の第17編まで続いた。 発行部数あわせて340万といわれ、当時のベストセラー。

初編冒頭の人間平等宣言、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」はあまりに有名だが、 福沢はこの書によって封建卑屈の精神を批判し、「一身独立して一国独立する」ことを教え、 そのために「人間普通日用に近き実学」を西洋から学ぶべきだと説いた。

日本における近代的、合理主義的な人間観、社会観、学問観の出発を示す書である。




「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。 されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、 生まれながら貴賤きせん上下の差別なく、 万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資とり、 もって衣食住の用を達し、自由自在、 互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。 (『学問のすすめ』より引用)






★ 福沢諭吉の墓 ★

諭吉は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに諭吉の終焉の地を示した石碑が設置されている(旧居の基壇の一部が今も残る)。戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺(浄土真宗本願寺派)にその墓がある。命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。





~~ 連想/追想 ~~




~~ 釈迦の教え ~~

実るほど頭を垂れる稲穂かな

釈迦が出家した理由は、老い、病、死といった人を苦しめるものからの解放を探し求めたことにあります。これらを、釈迦は苦について四つの教え(四諦説)にまとめています。それは、「人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦である」という真実、これを“苦諦(くたい)”と呼び、実際に次のような四つの苦しみ「四苦」(しく)として説明しています。

生……生まれたことによる苦しみ。
老……老いること、気力や体力が衰退し、自由が利かなくなる苦しみ。
病……病による苦痛を感じる苦しみ。
死……死ぬことへの恐怖や不安、苦しみ。

また、日常的に経験することの多い四つの苦しみ(「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五蘊盛苦」)が加わったものは四苦八苦と呼ばれています。これは悩みや苦しみを感じることを意味する言葉「四苦八苦」の語源となっています。

愛別離苦(あいべつりく)……愛する人と別離する苦しみ。
怨憎会苦(おんぞうえく)……嫌な相手と会うことが避けられない苦しみ。
求不得苦(ぐふとくく)………望むものが得られない苦しみ。
五蘊盛苦(ごうんじょうく)…肉体と精神が思うようにならない苦しみ。

これらの苦しみについて、釈迦は「人間が抱えている煩悩」が根本の原因だと考えました。たとえば欲しいものやお金を追い求めたところで、決して人間は満足することはなく、愛する者に執着したとしても、最後には別れを迎えなければいけません。

この煩悩や執着がもとで、結果的に苦が生じている真実を“集諦(じったい)”、そしてそれらの苦悩や欲望から離れることが悟りの平安にいたることを“滅諦(めったい)”、そして滅に至るための実践が“道諦(どうたい)”であり、それを八つの正しい道(八聖道)を釈迦は教えました。それこそが中道による生き方です。そして生きるとは何かという問いに対し、“諸行無常(しょぎょうむじょう)”の考えにたどり着きます。

「世の中のすべては移り変わるもので、何ひとつ確かなものはない。富や名声、健康や愛する人の命も永遠に続かない」
釈迦は物事への執着を捨て、それによってあらゆる煩悩から解脱すること執著による苦しみを離れた生き方、つまり苦をコントロールする生き方を示したのです。







「諸行無常」「盛者必衰」

あらためて『平家物語』の冒頭部分を見てみます。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。

【現代語訳】
祇園精舎の鐘の音は、「諸行無常」、つまりこの世のすべては絶えず変化していくものだという響きが含まれている。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢い盛んな者も必ず衰えるという道理を示している。世に栄えて得意になっている者がいても、その栄華は長く続くものではなく、まるで覚めやすい春の夜の夢のようだ。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまうような、風の前の塵と同じである。

冒頭文で述べられている「諸行無常」、「盛者必衰」とは、仏教の教え。どんなに栄華を極めたとしても必ず終わりがくる、この世の無常を説いた言葉です。






☆ 青春とは ☆



青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、
怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、
こう言う様相を青春と言うのだ。

人は信念と共に若く、疑惑とともに老ゆる。
人は自信と共に若く、恐怖とともに老ゆる。
希望ある限り若く、失望とともに老い朽ちる。



2011年9月5日、慶応義塾大学三田キャンパスにて
背景の壁画は、猪熊弦一郎作「デモクラシー」








※ わが人生の雑記帳
旅そのものが人生か?
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多様な人生哲学を学ぶ






< 生まれ故郷の人々との交流 >

親しき学友との交流で「知」を学びました



島根県立浜田高等学校











~~ 連想/追想 ~~




鎮守の森
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鎮守の森というのは、多くの神社を囲むようにして存在した森林のことで、杜の字をあてることも多い。「神社」と書いて「もり」と読ませている例もあり、古神道から神社神道が派生したことがうかがえる。また、「社叢」(しゃそう)と称されることも多い。

現代において、神社神道の神体は本殿や拝殿などの、注連縄の張られた「社」であり、それを囲むものが鎮守の森であると理解されている。本来の神道の源流である古神道には、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰があり、森林や森林に覆われた土地、山岳(霊峰富士など)・巨石や海や河川(岩礁や滝など特徴的な場所)など自然そのものが信仰の対象になっている。神社境内や山中では、幹・枝ぶりが特徴的な樹木や巨木が神木と崇められている例も多い。

神社神道の神社も、元々はこのような神域や、常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境と考えられた、神籬や磐座のある場所に建立されたものがほとんどで、境内に神体としての神木や霊石なども見ることができる。そして古神道そのままに、奈良県の三輪山を信仰する大神神社のように山そのものが御神体、神霊の依り代とされる神社は今日でも各地に見られる。なかには本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、森林やその丘を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝・精霊崇拝でもある古神道を今に伝えている。






神話の国・出雲
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出雲は、『古事記』『日本書紀』における「出雲系神話」、『出雲国風土記』、出雲大社など、日本古代史を考えるうえで重要な地域だ。この30年、出雲では弥生時代の荒神谷遺跡の銅剣・銅矛・銅鐸の大量埋納、加茂岩倉遺跡の銅鐸39個の発見など重要な歴史的発見が脚光を浴びた。ほかにも、未盗掘の古墳から充実した考古資料が発掘され注目されてきた。まさに古代史の宝庫である。

 なぜ、「神話の国」と言われるのか。出雲は「出雲王国」とも評され、書物等にもこうした表題が喧伝されている。『出雲国風土記』に描かれた「国引き神話」は、朝鮮半島をも視野に入れた環日本海の壮大なスケールである。

オオクニヌシ神が「葦原中国」を「高天原」に譲るという「国譲り神話」は、「出雲王国」の禅譲というロマンを秘めた神話として人々の注目を集めてきた。多くの読者が、この神話の背後にヤマト王権と出雲の抗争の歴史を思い浮かべるのではないだろうか。しかし、一方で記紀の建国神話には、『宋書』倭国伝の倭王武の上表文のような征服史の面影がないといわれる。



古代出雲と朝鮮半島
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『古事記』神話では、海のかなたからやってきた少名毘古那神《すくなびこなのかみ》と大国主神が出会う場所が「出雲の御大《みほ》の御前《みさき》」、すなわち島根半島東端にあたる美保関です。

この神話が物語るように美保関は古代から、異世界に通じるような、遠隔地交流の窓口だったと考えられます。そのことを裏付ける、古墳時代中期(5世紀)の土器と、短甲《たんこう》(鉄板をつないだ甲《よろい》)の一部が佛谷寺《ぶっこくじ》(松江市美保関町)に伝わっています。

日本海側における朝鮮半島との交渉について、『日本書紀』には注目すべき記述があります。大鷦鷯尊《おおさざきのみこと》(後の仁徳天皇)の命を受けて、使者として「韓国《からくに》」に渡ったのが淤宇宿禰《おうのすくね》、すなわち意宇《おう》平野(松江市南郊)に拠点を置く、出雲国造の祖先だと記されるのです。

 これを裏付けるように、出雲国府跡の発掘調査では、朝鮮半島から運ばれた5世紀ごろの土器が多数見つかっています。朝鮮半島とヤマト王権を結ぶ日本海側ルートにおいて、出雲の首長は重要な役割を担っていたのでしょう。







「 日本文化の源と仏教・神道」
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はじめの頃の神道
 日本で初めて神道が生まれたのは3世紀頃で、この時代に朝鮮から倭(日本)にやってきた渡来人たちが持ち込んだ自然や月や星を神様とする宗教と、それ以前の渡来人たちが信じていた氏神を信じる宗教が結びついて生まれたと考えられています。
今、韓国・朝鮮に聖なる場所を区切る注連縄(しめなわ・クムジュル)や、一族の墓を拝む場所の入り口にある鳥居の形に似た門が残っています。これらは、日本の神道の源が韓国・朝鮮にかかわりがあることを、想像させるものです。

渡来人と神道
 日本に古くからある神社のほとんどは、朝鮮からの渡来人一族の守り神を祭ったものです。稲荷(いなり)神社は全国に約4万社ありますが、その本宮は京都の伏見稲荷です。このあたり一帯は渡来人の秦氏が5世紀ごろから開発し、711年に伏見稲荷をつくり祭りはじめました。
また、八幡神社という名の神社は全国に約4万社ありますが、その本宮は大分の宇佐八幡神宮で、やはり渡来人の秦氏の氏神としてつくられたものです。古代の豊前地方(福岡県の一部と大分県)の人口の85パーセントが秦氏一族だったという説もあります。

昔話と神話
 日本に伝わる昔話や神話にも、神道と渡来人の関係を示すものが多数あります。その一つに、日本海に近い、兵庫県の北にある豊岡一帯に伝わる伝説「あめのひぼこ」の話があります。その伝説では、朝鮮からやってきた「あめのひぼこ」という王子が、鉄の道具を使って、泥の海だった豊岡一帯の水を日本海に流し、稲作農業ができ人が住める豊岡盆地を作ってくれたというのです。そして、その「あめのひぼこ」様を神様として、このあたり一帯の神社でお祭りするようになったというのです。
福井県敦賀市にある気比神宮(けひじんぐう)はじめ、新羅[しらぎ・古代朝鮮の国の一つ]の王子であった天日槍(あめのひぼこ)を祭った神社もたくさんあります。また、全国の天満宮や天神さんも、朝鮮からの渡来人の子孫である菅原道真(845年~903年)を祭ったものです。
 「ワッショイ、ワッショイ」という神社の御神輿をかつぐ時のかけ声が、朝鮮語の「ワッソ、ワッソ(おいでになった、おいでになった)」が変化したものであると考えている学者がいるのも、神道のはじまりと太古の朝鮮とのつながりを考えてのことなのす。

仏教の伝来
 6世紀のはじめに、百済(くだら・朝鮮の西南部)の武寧王は倭に五経博士(儒教を学んだ知識人)を送り、新しい倭国づくりを指導させました。  また、武寧王の後をついだ聖(明)王が、6世紀の中頃に仏像と経典(お経を集めた書物)を倭に送り、渡来人の蘇我稲目(そがのいなめ)がこれを自宅に安置しました。
 その後、しばらく仏教を受け入れるかどうかの争いがありました。結局、百済と仲良くし仏教を受け入れようとする蘇我(そが)氏側が勝ち、最初の寺である法興寺(飛鳥寺)をつくることになりました。そこで百済から、僧侶(お坊さん)や寺院を建てる技術者に来ていただくことにしました。当時、倭国には僧侶はいませんし、昔から倭国にやってきていた人たちの技術では、新しい寺を建てることはできなかったのです。
 593年には飛鳥寺の塔に仏舎利(お釈迦様の遺骨)を安置する儀式が行われ、蘇我馬子(そがのうまこ)ら、倭国の中心となる人たちは全員、百済ふうの衣服に身をつつんで参列しました。

 飛鳥寺に続いて、蘇我氏の一員である聖徳太子が奈良の斑鳩(いかるが)に法隆寺を、大阪の難波に四天王寺を作り、渡来人の秦河勝(はたのかわかつ)は京都の太秦(うずまさ)に広隆寺をつくりました。広隆寺の木造弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)は現在、日本の国宝第1号に指定されている、朝鮮にしかない木材を彫刻した仏像です。
 これらの寺院は、柱を基礎となる石の上に立て、それぞれの材木を丁寧に組みあわせて色に染め、屋根は瓦でおおった大規模なものでした。これらの技術のすべては、渡百済等の様式を真似たものでした。また、門、講堂、五重塔などの建物の配置も、壁に描かれた壁画も、すべて渡来人の技術によってつくられました。そして、仏教はこの後、国に保護されてどんどんと広がっていきました。
 このように、飛鳥時代の文化は、ほとんどすべてが朝鮮からやって来た渡来人や、その子孫たちがつくりあげたものだったのです。






石見神楽



石見神楽はもともと、秋の収穫期に自然や神への感謝をあらわす神事として、神社で夜を徹して奉納されるものだった。

その後、時代の変遷とともに幅広く民間で楽しまれるようになり、 現在のようなステージイベントや舞台公演として親しまれるような形へと変化を遂げた。

石見神楽は今もなお、現在進行形で進化している。

この「古き良き伝統を大切に守り、未来へつなげる心」と 「従来のスタイルだけにとらわれることなく、常に新しいものを取り入れる精神」 が融合しながら守り伝えられているところに、石見神楽の大きな魅力がある。





※ ふるさとは遠きにありて








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☆ あのグローバル・マーク”ESSO”が消えた ☆



半世紀続いたガソリンスタンドのブランド 「ESSO」が姿を消し、
2019年には、「ENEOS」ブランドに切替えられた姿になりました。
なお「ESSO」は、私が永年勤務したエネルギー産業の会社でした。








< エッソ石油会社の職場仲間との交流 >

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※ エッソ石油とは・・・出典:wikipedia









石油王「ジョン・ロックフェラー」
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ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア(John Davison Rockefeller, Sr、1839年7月8日 - 1937年5月23日)は、アメリカ合衆国の実業家、慈善家。

1870年にスタンダード・オイル社を創業し、ピーク時はアメリカの石油の90%をコントロールするなど、同社は石油市場を独占してアメリカ初のトラストを結成した。
1897年に事実上引退し、その後は現代的フィランソロピーの構造を定義し、慈善活動に力を入れた。スタンダード・オイルはオハイオ州で、ジョンと弟ウィリアム・ロックフェラー、ヘンリー・フラグラー、ヤベツ・A・ボストウィック、化学者サミュエル・アンドリュース、スティーヴン・V・ハークネスによって創設された。

ケロシンとガソリンの需要の高まりと共に富も膨れ上がっていき、アメリカ人初の10億ドルを越える資産を持つ人物となった。彼が亡くなった1937年当時の遺産は14億ドル(2015年の価値では23億ドルにも上り、国の経済の1.5%以上であった(2013年換算では2530億ドルになる。物価の変動を考慮すると史上最大の資産を持つ富豪とされている。

慈善活動の現代的かつ体系的アプローチの構築に引退後の40年間、資産の大部分を使った。医療・教育・科学研究促進などを目的とした財団を創設した。彼が創設した財団は医学研究を推進し、鉤虫症や黄熱病の根絶に貢献した。また、シカゴ大学とロックフェラー大学を創設し、フィリピンにセントラル・フィリピン大学の創設資金を提供した。

熱心なキリスト教バプテスト信者であり、生涯にわたって米国キリスト教バプテスト同盟を支援した。彼は酒とタバコを嗜まなかった。





~~ 連想/追想 ~~




「キリスト教の聖地」を考える




キリストが眠る聖墳墓教会
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聖墳墓教会(せいふんぼきょうかい)は、エルサレム旧市街(東エルサレム)にあるキリストの墓とされる場所に建つ教会堂。ゴルゴタの丘はこの場所にあったとされる。

ギリシャ正教系の正教会では復活教会(ギリシア語: Ναὸς τῆς Ἀναστάσεως、アラビア語: كنيسة القيامة‎、ラテン文字転写:Kanīsa al-Qiyāma)とも称されている。正教会、および非カルケドン派正教会のアルメニア使徒教会等においてはエルサレム総主教の主教座聖堂であり、中東地域の教会行政の中心でもある。




キリスト教の一番の聖地は何と言ってもイスラエルの「エルサレム」です。エルサレムはキリスト教以外にも、ユダヤ教とイスラム教も聖地としています。根は同じ兄弟宗教とも言える関係から、3つの宗教がエルサレムを聖地とするのは無理のないことです。世界三大宗教の聖地が集まっていることから、「世界で最も聖なる都市」とも呼ばれています。

キリスト教にとってのエルサレムは、イエスが最後の1週間を過ごした場所でもあり、十字架に処せられたのも、その後に復活した地でもあります。イエスが葬られ、そこから復活したお墓を記念して建てられた「聖墳墓教会」もあります。教会内には、十字架から降ろされたイエスの聖骸に香油を塗布した赤大理石の板があり、何とも言えない重みがあります。聖墳墓教会は、キリスト教にとって世界で最も重要な巡礼地のひとつです。 また、イエスが十字架を背負って歩いた、人生最後の道のり「ヴィア・ドロローサ」もあります。






キリスト教について
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キリスト教は、
イスラム教、仏教と並ぶ世界三大宗教のひとつで、その中でも信者数が約24億人(世界人口の約32%)と、宗教人口世界第1位を誇っています。

★キリスト教の起源は
イエス・キリストの死後(復活後)に起こった彼の弟子による初期キリスト教運動です。イエスは刑死する3年ほど前にガラリヤ(現在のイスラエル北部の地域とヨルダンの一部)で宣教活動を開始し、昇天後は弟子たちが宣教活動を行って世界に広がっていきました。イエス自身が宣教活動を行った期間は僅かだったにもかかわらず、今日までキリスト教の教えが説かれているのです。

キリスト教は元々ユダヤ教の一派として始まりました。当初、異教徒が改宗するには、ユダヤ教の戒律を守る必要がありました。そんな中、異教徒への宣教を積極的に行ったのがイエスの使徒パウロです。

パウロはユダヤ教の律法(食物禁忌や割礼など)を批判、廃止していきました。その結果、キリスト教は民族を問わない宗教へと転換し、ローマ人やギリシャ人にも受け入れられるようになりました。そして、迫害期を経て、当時の世界帝国であったローマ帝国の国教となり、世界中に広がっていきました。

★キリスト教とは、
“神の子”である「イエス・キリスト」の教えを信じる宗教です。天地宇宙の創造者にして唯一絶対の支配者が、キリスト教における神です。キリスト教の神は、基本的にユダヤ教の神の理解を引き継ぎ、それは、人間と契約を結び、救おうとしますが、同時に神に背く者には厳しい裁きを下す神であります。「新約聖書」では、神が罪に満ちた人間を救済するために、神の子であるイエスを地上に遣わしたとされています。

律法学者から「最も重要な掟とは?」と聞かれたイエスはこう答えます。 「心を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」 つまり、イエスは「神への愛と隣人愛」が大切と説いています。ですが、イエスの「愛」についての教えはこれにとどまりません。 人は一般に隣人を愛し、敵を憎みますが、イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言います。イエスの説く「愛」は、深く、そして限りなく、誰にでも注がれる無限の愛で、この愛をギリシャ語では「アガペー」と呼びます。

ギリシャ語には愛を表現する言葉として、「アガペー(真の愛)」、「ストルゲー(家族愛)」、「エロース(性愛)」、「フィリア(隣人愛)」の4つがあります。 この中で、イエスの使徒パウロや福音書の記者が、神の愛として相応しい言葉として「アガペー」を用いたと言われています。この“アガペー”は、神様が人間を愛することで、何かの利益を得る訳ではないので、「無償の愛」をも意味しています。

キリスト教での大切な教えとは、決して身近な人や好きな人だけではなく、自分の目の前に現れるあらゆる人を愛せよという“隣人愛”なのです。








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