~昭和33年=1958年~
★1958年3月、大学卒業して、資源エネルギー産業の会社に就職しました。
学友のNS君の父親が社長を務めるウラン鉱の開発事業に携わることになりました。
のちに、鳥取県と岡山県の県境にある人形峠/ウラン鉱の掘削事業に参加しました。
人形峠は、中国山脈の中央部にあり、冬は積雪1m以上、最高2mもありました。
人形峠事務所では、私の直属上司はSS氏でしたが、尊敬できる素晴らしい上司でした。
彼は、大学卒業後の間もない私に対して「厳しい社会で生きる苦節」を語ってくれました。
彼は、東京の一中・一高・東大を出て、三菱金属鉱業に入社し、定年退職していた人でした。
彼はウラン鉱業を退職したあとには、日本大学の理工学部教授(博士号取得)となっていました。
1960年には、私は東京・永田町の全国町村会館内の本社において総務畑で仕事をしました。
政府機関との折衝が主な仕事でした。
1962年3月、結婚するために、給料の高い会社への転職を考えて、ウラン鉱業を中途退職しました。
(備考)
1970年頃、人形峠のウラン鉱開発会社も、鉱業権を政府に売却して、解散整理したと、聞いています。
写真は、石油精製工場です
~昭和37年=1962年~
★1962年4月、新たなる「生活基盤」を築くために、
創立して間もない米国系石油会社=エッソ石油に入社しました。
エッソ石油会社における約31年間の在職中は、ひたすらに、セールス・パーソンとして、石油製品の販売活動に従事し猛烈に働きました。
1993年3月に、60歳定年退職を迎えて、永年勤務したエッソ石油を退職しました。
なお、エッソ石油は、2019年に日本国から姿を消しました。
そして、いまや、自分の存在を認める人物の多数は、天国へ召されています。
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昔日の職場を振り返れば、
1964年(昭和39年)の東京オリンピックが開催された頃の話です。
ニッポン経済が高度成長期にあり、サラリーマンが猛烈に働いた時代のころです。
当時における石油製品販売会社での勤務は、汗のみならず涙が出るほどに超多忙でした。
会社は新規事業(液化石油ガス販売部門)を企画しました。
私たち販売員には、販売店獲得数にノルマが課せられて、難儀な労働の連続でした。
私は若かったし、すこぶる元気でしたので、ノルマ達成に歯を喰いしばって頑張りました。
昔日の人物動向を語るのも気が引けますが、
会社の新規事業・液化石油ガス販売組織には、種々雑多の人物が存在していました。
最大限の利潤追求の販売組織にあって「多種多様な人間模様」を観察/認知しました。
新規事業では、多くの販売員は、単独で担当地域が割り当てられました。
販売員は、パイオニア精神で、孤独と不安の中で黙々と活動しました。
多くの人材が、時に重責を果たし、会社の成績に貢献していました。
人事は、貢献度に応じた判断というよりは、上部決裁による恣意的なものだと認識しました。
私は、それぞれの販売員の社会的存在を認め、その人格を尊重して勤務しました。
昔日の時、自然の流れを忘れて、懸命に労働しました。
私は、家族のために労働し、社会に貢献する為に労働し、対価としての賃金を得ていました。
清濁を併せて飲み、矛盾を抱えた自分は、激しい生存競争の世界で、善悪を超えて「生きる」ことの厳しさを認識しました。
我慢と忍耐に徹した自分は、社会生活における生存手段として「爽やかに、しなやかに、したたかに」生きることを選択しました。
時の流れは速く過ぎてゆきました。いつの間にか60歳の定年退職を迎えました。