自画像
☆ 自分は何者か ☆
~ 自分は何処へ行くのか ~
自分は、何処から来たのか
2016年7月13日、アメリカ合衆国ボストン市にあるボストン美術館で、
ゴーギャンは、故郷のフランスよりも素朴で単純な生活を求めて、
1891年にタヒチ島に渡った。
タヒチ滞在時代の1897年から1898年に描き上げたこの作品は、
高度に独自の様式化された神話の世界を描いた他の作品と同様に、
ゴーギャンの代表作とされており、
ゴーギャンの精神世界を最も描き出している作品と言われている。
葛飾北斎の自画像
自分は何処から来たのか
ある日の自画像(1)
自分は何者か
ある日の自画像(2)
自分は何処へ行くのか
ある日の自画像(3)
(初めての個展で発表した自画像)
( 我が道を歩む・・・自画像)
☆ 美術修行の旅 ☆
( 美術を愛好する・・・自画像)
* 人生とは何か
(哲学的思索する・・・自画像)
☆ 真理は変化する ☆
☆ 事実には ☆
(時空を超えて思索する・・・自画像)
(生かされて生きる・・・自画像)
(しなやかに生きる・・・自画像)
☆ 無題 ☆
(したたかに生きる・・・自画像)
(木版画の作成・・・自画像)
(老と若の狭間・・・自画像)
☆ 自分は何処へ行くのか ☆
未来は予測できない
このページの記載内容
自分は、何者か
自分は、何処へ行くのか
自分には、夢がある
自分の夢は、
どんな夢なのか
夢は、夢です
夢は、儚いものです
自分の夢は、
時々、変化します
☆ 米国マサチューセッツ州のボストン美術館へ行く ☆
私は、フランス人の画家 ポール・ゴーギャンの作品と三度目の対面をしました。
その作品の題名は「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」です。
本作を手掛ける直前のゴーギャンは愛娘アリーヌを亡くしたほか、家から立ち退きを余儀なくされ借金を抱えた上に健康状態も悪化するなど、失意のどん底にあった。実際に本作を描き上げた後に自殺を決意しており(未遂に終わる)、自身の画業の集大成と考え、様々な意味を持たせたと言われる。
絵画の右から左へと描かれている3つの人物群像が、この作品の題名を表している。画面右側の子供と共に描かれている3人の人物は人生の始まりを、中央の人物たちは成年期をそれぞれ意味し、左側の人物たちは「死を迎えることを甘んじ、諦めている老女」であり、老女の足もとには「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」とゴーギャン自身が書き残している。背景の青い像は恐らく「超越者 (the Beyond)」として描かれている。
この作品について、ゴーギャンは、「これは今まで私が描いてきた絵画を凌ぐものではないかもしれない。だが、私にはこれ以上の作品は描くことはできず、好きな作品と言ってもいい」としている。
☆ 世界的に有名な画家の自画像 ☆
ポール・ゴーギャン(左) ヴィンセント・ゴッホ(中) パブロ・ピカソ(右)
レオナルド・ダ・ヴィンチ(左) ミケランジェロ(中) ラファーエロ・サンチ(右)
★ 葛飾北斎の情念を探して ★
私は、遅蒔きの自称:悠遊浪人ですが、
画狂人と称した浮世絵師・葛飾北斎のように、
弐万点を超える絵画を制作してみたいです。
そして、自分流独特の様式を確立してみたいです。
私は、平凡な愚者ですが、
浮世の評判など気にせずに
放埓老人と言われるほどに
自由奔放な生活をしてみたいです。
私は、生まれてから今日まで、
数々の事故に遭遇し、 数々の病気を経験し、
幾度も「生と死」の狭間を彷徨しましたが、
お陰様で、不思議にも奇跡的に生き続けています。
折角、現世に、生かされているのですから、
残りの人生で、したいことを、してみたいです。
☆ 心技体 ☆
自分の心は、常に変化する
他者の心は、想定外にある
自分の身体は、常に変化する
他者の身体は、想定外にある
自分の技能は、常に変化する
他者の技能は、想定外にある
人生は「想定外の出来事」の連続である
☆ 美にひれ伏して ☆
いまや、私は、
浮世のしがらみから抜け出して
他者の思惑など気にせずに
ひとり我が道を歩んでおります。
森羅万象に、好奇心を持ち続け
その時その時、美に感動したもの
描きたいものを絵描きし
命がある限り、美学を探究します。
美にひれ伏して、勉強を怠らず
孤独に耐えて、夢を追い続けて
しなやかに、強かに、爽やかに
生きて行きたいと思っています。
心中に孤独を覚え
体内に欠陥のある自分
美にひれ伏して、
凡そ二十数年が経つ
いまも若き血に燃えて
美術修行/悠遊の旅を
さわやかに続けている
☆ 自問不答心自迷 ☆
* 生きる意味とは何か
* 生きる目的とは何か
* 神は存在するのか
* 人間存在とは何か
* 人間の自由とは何か
* 死とは、どういう事か
* 霊魂は、存在するのか
* 愛とは何か
* 友情とは何か
* 幸福な生活とは何か
* 自分は、いかに生きるべきか
昨日の真理は、
今日の真理とは言えない
今日の真理は、
明日になると真理でない事がある
事実は、厳然として存在する
しかしながら、
事実には、
それを見た人の解釈がある
その解釈も、時の経過で変わる
事実には、
それを聴いた人の解釈がある
その解釈も、時の経過で変わる
☆ 神の存在 ☆
神を信じる者には、神は存在する
神を信じない者には、神は存在しない
☆ 幸せ ☆
幸せは、「自分は幸せだ」と思えば、
幸せなのである
不幸は、「自分は不幸だ」と思えば、
不幸なのである
☆ 自分は何者か ☆
自分は極ありふれた俗人である
自分は老境ながら青春期にある
自分は自他を意識している
自分は自他の尊厳を認める
自分は心身の健康を考える
自分は加齢の未来を考える
自分は大自然の中の個体に過ぎないが
自分は厳然と今日を現実に生きている
自分は やがて 必然「無に帰する」も
自分は何者か、ときどき自問している
(常に変化する・・・自画像)
☆ 社会的自己存在 ☆
ひとりで生きてゆくことは出来ない
自分の知恵には限りがある
他者の知恵を拝借する事がある
自分の知識には限りがある
他者の知識を学習する事がある
自分の経験には限りがある
他者の経験を考察する事がある
自分の力量には限りがある
他者の力量を推考する事がある
自分の活力には限りがある
他者の活力を頼りにする事がある
自分の存在には他者の存在が必要である
他者の助力を得てこそ自分が存在できる
自分は他者の人格や個性を尊重する
他者の多様な生き方を自分は認める
所詮、自分は社会的な人間存在である
所詮、自分は大自然の中の個体である
☆ 過去は泡沫のごとく ☆
過去があっての自分である
過去を変えることは出来ない
過去から逃れたい事柄がある
過去を省みず、無意識に生きている
過去の記憶が、徐々に薄くなっている
過去の自他を、ただ忘れたいだけである
過去には、きっぱりと捨てたいものがある
過去には、苦悩と挫折の自分が存在する
過去には、悲喜こもごもの出来事があった
過去には、様々な善悪との出会いがあった
~ 川面に浮かぶ泡沫(うたかた)を見る ~
(さわやかに生きる・・・自画像)
☆ 昔日の人生 ☆
或る期間に自分は、不条理の世界に生きた
或る期間に自分は、過酷な課業に従事した
或る期間に自分は、思想の変遷を知った
或る期間に自分は、病魔と闘う経験をした
或る期間に自分は、苦労と激務に耐えた
或る期間に自分は、苦痛と苦悩を克服した
或る期間に自分は、逆境と挫折を知った
或る期間に自分は、沈黙と忍耐を体得した
或る期間に自分は、旧来の価値観を変えた
或る期間に自分は、旧来の世界観を変えた
或る期間に自分は、進路変更を考えた
或る期間に自分は、未来志向を考えた
青き日に、若き血に炎える自分があった
或る時に、失敗とその反省があったのだ
思えば、自分は数多くの失敗をしている
青き日に、若き血に炎える自分があった
或る時に、過ちとその後悔があったのだ
思えば、自分は少なからず過ちをしている
自分の信念は、時空に応じて流動的である
諦めと妥協の積み重ねが、多く存在している
自分の信条は、時空に応じて流動的である
頑固や固執とか言った情動性とは無縁である
いま、自分の人格を観察し自問自答すれば、
いまだに、自分は愚かな俗人そのものである
今や、失敗や過誤を意識しない無頼人である
反省や後悔は記憶から遠い言語になっている
自分は、しなやかに闊達自在に生活している
自分の精神は、確実に変化前進し続けている
老耄の自分は爽やかに現実に生きているのだ
希望がある限り自分の人生は成るようになる
☆ 人間の善悪 ☆
~~ 沈思黙考 ~~
「善」とは、抑々、一体全体、何んなのか。
「悪」とは、抑々、一体全体、何んなのか。
「善」の解釈には、人間の数ほどの違いがある。
「悪」の解釈には、人間の数ほどの違いがある。
「善と悪」の解釈は、常に一定ではない。
「善と悪」の解釈は、時代や場所で変化する。
性善説によれば、人間の心は、
本来、生まれながらに善なるものである、と。
数多の人間観察をしてきた老いぼれの自分には、
人間の心が、生来、善なるものだと喝破できない。
性悪説によれば、人間の心は、
本来、生まれながらに悪なるものである、と。
数多の人間観察をしてきた老いぼれの自分には、
人間の心が、生来、悪なるものだと喝破できない。
二律相反の「善と悪」で、人間の心の本性を
容易に分析・判断する事は、私には不可能である。
人は言う、浮き世には偽善者が存在するという
人は言う、浮き世には偽悪者が存在するという
人間と言うものは、
善い心の時もあれば、悪い心の時もある。
正直な心の時もあれば、卑怯な心の時もある。
理性など忘れて、感情だけで行動することがある。
自分は、多くの欠陥を持つ人間である。
自分は、損得勘定など考えずに生きている。
愚か者なる自分には、人間の心は善悪を超えて
その「弱さ」を発見することが多い此の頃である。
(前向きに生きる・・・自画像)
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☆ 己の表現を探して ☆
いま、私にとって、美術が、
最も楽しい修行・悠遊になっています。
自分流の美術表現を探し求め続けています。
省みれば、生まれてきた時から今日までに
事故や病気などで、幾度となく
「生と死」の狭間を潜り抜けてきましたが、
未だに、此の浮世で奇跡的に生きています。
多くの皆様に支えて貰いながら、
折角、生かされているのですから、
心身の鍛錬を続け、日々の勉強を怠らず、
青春の意気に燃えて、活動して居ります。
☆ 老化の進行と共に ☆
わが肉体とわが精神の乖離が進んでいる
わが肉体の老化が徐々に進んでいる。
反比例するがごとく、すなわち、年甲斐もなく
わが精神は、若々しく成熟していく自分を造る。
わが肉体とわが精神の「老と若」の乖離は、
年々歳々、広がりを見せている。
熟慮してみれば、この現象は一時的なものだ
人間として、元気で生きている時だけのものだ。
何はともあれ、
人間は、生きている内が華である。
私達は、不確実な世界に住んでいる
確実に言えることがある
時が進むにつれて、肉体は衰弱する
やがて、人の死は、必ず、訪れて来る。
ともかく、覚醒して率直に言えば、
老い耄れにして、愚かな私にとって、
アートは、終着の最高の修行である。
永遠の休息時がやって来るまで
老体の私は、いま現在を大切にして
レジリエンスを自由に構築しながら
美的創造の修行/悠遊を楽しんで行く。
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※ わが人生の雑記帳
旅そのものが人生か?
心の旅~表現の世界を模索
2016年・83歳
(自己存在の思索と考察)