旅そのものが人生か
~ 自分探しの旅が続く ~






私の棲家は、旅にあります。
流れゆく時間も、人生も、
全ては、心の旅のようなものです。

私の旅は、流れゆく雲のように、
終わりは、本当の終わりでなく、
新たな旅の始まりです。

私の人生は、未来の中にあり、
夢に向かって、ゆっくりと歩む旅です。
それは、希望と言う名の旅です。









☆ 旅そのものが人生か ☆ 



私の海外旅行の期間には、
1~2週間の団体旅行、2~3週間の家族旅行、
1~2ヶ月間のグループ旅行、そして、
約3~5ヶ月間に及ぶ一人旅もあります。

私の海外旅行の目的は、美術を学ぶ旅です。
美に対する感性を磨く旅です。
旅先の社会や文化の歴史を学ぶ旅です。
世界の人々と交流する旅です。
自分の人生を考える旅です。
畢竟するに、自分探しの旅です。

美術を探究する旅は、一人旅が最適です。
独り旅は、自由で気儘なものとは言え 孤独に加えて、 緊張と興奮に満ちた旅です。私の一人旅はバックパッカーの旅です。 それほど大きくない容積35リットルのリュックを背負って行きます。 そして、リュックの重量は、大体、6~8kgですが、両肩への加重を軽くするために、 旅行案内書は持参せず、1冊の地図を頼りに歩きます。 パステルペンやスケッチブックを携行します。不足のものは、現地調達します。

なお、身の安全のために、夜間の外出と飲酒を避けています。 宿泊先は、特に定めず行き当りばったりのホテルを利用しています。 そして、訪問先の地域で通じる言語の修得に出来るだけ努めています。

旅のコースは、予め計画し訪問先の情報を手帳に要約メモして置きます。 詳細な旅先情報は、現地の観光案内所や宿泊先で手に入れます。 それから、航空機、列車、バス、船、宿泊先などで知り合った友達などの話にも、 貴重な情報があります。



私が訪れた町の数は、数えきれず、延べ数で凡そ700箇所を超える ものです。 また、200箇所を超えるユネスコ世界遺産を訪問しています。 特に、欧州の主要都市、ロンドン、パリ、ベルリンの街には、幾度も、訪問しています。 欧州には古い栄光の歴史があり、素晴らしい文化遺産があります。 欧州の古城、城塞、寺院、宮殿、邸宅、街路などは、私にとって、楽しくなる絵画の題材です。

又、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、オセアニアには、雄大な自然風景があります。 その自然風景は神秘的で深い感動を覚え、大自然との出会いを絵に描いています。 米国の美術館には、世界の有名絵画が展示されていました。 ニューヨークには、世界から若い芸術家が集まっていました。 そこには、新しい現代美術・モダンアートの流れがありました。 アメリカで、美術の勉強をしたい夢が湧いたほどでした。

アジア諸国には、日本文化のルーツの一端さえも発見する事が出来ます。 そして、”大東亜”各地で働く日本人の活躍ぶりに目を見張ります。 かって、太平洋戦争で大日本帝国がアジア各地を占領していたので、 日本人の私にとって、日本侵略地アジア州の旅は、強い贖罪の旅みたいなものです。

私の旅は、美術の研鑽に主力を置いていますので、 その国の主要な美術館には、 必ず、訪問することにしています。 宮殿や寺院の美術館、有名画家の美術館、 街の美術画廊にも、積極的に足を運んでいます。美術館では、 有名な美術作品を模写することもします。 又、模写に励む画学生との会話も勉強になります。 街では、偶然、無名の画家に出会い美術談義をした事もあります。 欧州の古城で、ニューヨークで活躍中の日本人画家に出会い、 旅での絵描きテクニックについて教えて頂きました。

私は好奇心が旺盛です。私は此れからも旅を続けて、 様々な風景画を描きます。そして、色々な人との出会いと交流を楽しみ、 人間の姿や感情、又、「愛と性」を絵の中で表現する事にも、 意欲的に取り組んで行きたいと思います。 加えて、動植物については、慈しみの心を込めて描くつもりです。







2004年6月、米国イエローストン国立公園にて





2004年6月、カナダ国ジャスパーのアサバスカ氷河にて



2004年6月、米国カリフォルニア州サリーナスへ行く。


米国サリーナスのノーベル賞作家
ジョン・スタインベックの記念館を訪問

ジョン・スタインベック(1902~1968)。
カリフォルニア州サリーナスの生れ。スタンフォード大学でおもに海洋生物学を学んだ。カリフォルニアを舞台に,貧乏な移住農民を描いた小説が多いが,生物学を通して培った,いわゆる〈生物学的人間観〉や〈集団人(グループ・マン)〉といった思考態度は,人間を描く作家としての姿勢の基本となっている。

最初の成功作《トティーヤ台地》(1935年)に続いて《二十日鼠と人間》《怒りの葡萄》などを発表。《エデンの東》(1952年。エリア・カザン監督によって第4部が同題で映画化された),《われらが不満の冬》(1961年),〈赤い小馬〉を含む短編集《長い谷》(1938年),カリフォルニア湾での生物採集記録《コルテスの海》(1941年)なども知られる。1962年ノーベル文学賞。

晩年は国内の批評家からの評価は必ずしも芳しくなく、生活は決して恵まれたものではなかった。スタインベックは1968年、ニューヨークで心臓発作をおこして没した。66歳没。スタインベックの死体は遺言通り、火葬され埋葬された。スタインベックの死後、批評家のチャーリー・プアは「彼の最初の優れた作品は、最後の優れた作品でもあった。しかし、その作品はなんと優れていたことか」「彼はノーベル賞を必要としなかったが、ノーベル賞は彼を必要とした」とメッセージを送った。



2005年6月、ドイツ国ドレスデンの国立近現代絵画館
画家フリードリヒ・カスパ作「山上の十字架」前にて




☆ 人生は心の旅です ☆ 


   人生は心の旅です。
   旅は人生と同じようなものです
   人生は人との出会いと別れの物語です

   私の身体は少しばかり衰えて来ましたが、
   心は青春の真っ盛りです
   老いが増すにつれて、好奇心が旺盛になりました

   私の旅は生きている限り続きます
   風の吹くままに、足の向くままに旅をします
   そして、気の向くままに、絵を描きます

   これからは、心を空にして、森羅万象に接します
   私の行く末は、まだ、捨てたものではないと信じます
   夢と希望を持って前進あるのみです






2006年10月、インド国首都ニューデリー市内にて



インドの「国の父」、マハトマ・ガンジー

マハトマ・ガンジー(1869年~1948年) モハンダス・カラムチャンド・ガンジーは、20世紀の最も偉大な政治的・精神的指導者のひとりとして広く称賛されています。インドでは「国の父」と尊敬されるガンジーは、「サティヤーグラハ」と呼ばれる、民衆の非暴力・不服従による圧制への抵抗運動を初めて提唱し、実践しました。

ガンジーは、貧困の緩和、女性の権利拡大、宗教間・人種間の融和、不当なカースト制度の廃止などを提唱する全国的な運動を主導しながら、インドを植民地支配から解放するために非暴力・不服従の原則を徹底的に実行しました。ガンジーはその活動のために何度も投獄され、時には何年も拘禁されましたが、1947年にインドはイギリスからの独立を勝ち取り、ガンジーはその目標を達成したのです。

その声望の高さにより、ガンジーは「偉大な魂」を意味する「マハトマ」と呼ばれています。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアからネルソン・マンデラに至るまでの世界的な公民権指導者たちは、人民のために平等な権利を実現させる戦いにおいて、ガンジーをお手本にしてきたと認めています。




2006年11月、アラブ首長国連邦ドバイの砂漠地方にて



2007年4月、ドイツ国トリーアで、
「共産党宣言」の著者カール・マルクスの生家を訪問する


共産党宣言とは~~~
『共産党宣言』の冒頭は周知のように、「ヨーロッパに幽霊が出る。共産主義の幽霊が」という有名な一節で始まる。

マルクスとエンゲルスが共同執筆して1848年の二月革命直前に発表し、その後のプロレタリア運動の指針となった世界を変えた文書。共産主義の勝利と人間の解放が歴史の必然であると説く。

マルクスとエンゲルスは、人類の歴史を生産様式に基づく階級闘争と捉えました。資本主義社会では、資本家と労働者が対立します。資本家は労働者を搾取し、労働者は長時間労働と貧困に苦しみます。資本主義の発展は、生産力向上と共に社会の不平等を深めます。資本主義の矛盾は社会主義革命へ導き、労働者階級が団結して資本主義体制を打倒し、共産主義社会を実現します。共産主義社会では、私有財産や階級がなくなり、能力に応じて働き、必要に応じて分配されます。人々は自由な人間としての可能性を追求できる社会を目指します。

『共産党宣言』の最後の一句は今日においても、いや今日においてこそ決定的な意義を持つ。なぜなら、1848年当時の「万国」はヨーロッパの一部と北アメリカを意味するにすぎなかったが、今では本当の意味で 「万国」が対象となっているからである── 「万国のプロレタリア、団結せよ!」。彼らが獲得するのは文字通り全世界である。




2007年4月、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のモスタルにて



2008年2月、オーストラリア国アデレード市郊外にて





☆ 美への渇望 ☆ 



    今年も、春が来た
    いつものように桜の花が咲いた
    やがて、花弁は綺麗に散っていった
    そのあとに、若葉が美しく芽生えて来た

    私は老いた青春期にある
    少年のような情熱は、消えている
    いま、はっきりと言える事がある
    老いても、美への渇望は炎えている




2008年2月、オーストラリア国シドニーにて


2008年2月、オーストラリア国メルボルンにて


2008年3月、ドイツ国のエミール・ノルデ美術館にて
デンマーク国との国境に近い低湿地帯にあるノルデ村


2008年3月、ドイツ国ベルリンにて
新ナショナルギャラリー(左)チャーリーポイント(右)


2009年11月、アラブ地方シリア国のパルミラ遺跡にて



2010年4月、アフリカ大陸最南端のケープポイントにて



2010年7月、スイス国サンモリッツのセガンティーニ美術館に行く



2010年7月、スイス国・サンモリッツの奥地
シルス・マリアにあるニーチェ博物館にて




人間の幸せな生き方を、生涯をかけて考え抜いたニーチェ。幸せをつかむには固定概念にとらわれず、自分の考えを持ち決断することが大切だと伝えています。
ニーチェは「ルサンチマン」や「超人」の概念を用いて、たとえ弱者であっても自分の人生を肯定的にとらえ、強く生きるべきだと主張しました。
この考え方は、実存主義という思想に影響を与えています。
例えば、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、ニーチェの「超人」の思想を受け継ぎ、人間が自分自身の存在と意味を創造する自由と責任を持っていると主張しました。


ニーチェ著作「ツァラトゥストラ」物語

『ツァラトゥストラはこう言った』がニーチェ畢生の書にして、ドイツ文学史上屈指の作品であることは言を俟たない。故郷を捨てて山に入ったツァラトゥストラは「私は惜しみなくあげたいし、頒かち与えたい。 人間たちのあいだで賢者がもう一度愚かさを愉しみ、貧者がもう一度豊かさを愉しむようになるまで」という言葉とともに山から下り、人間たちの世界に入っていく。 「神の死」を告げ、しかし人類は現状に甘んじることなく高みを目指して進んでいくべきだとする「超人」の思想を伝えるツァラトゥストラは、生きとし生けるものは現状以上を目指すという原理、すなわち「力への意志」の原理に「超人」が基づいていることを説く。 しかし、没落を始めるツァラトゥストラは、この世に新しいものなど起こらず、すべては同じことの繰り返しであるという「永遠回帰」の思想にたどりつく――。



「神は死んだ」とは、
宗教批判と虚無主義(ニヒリズム)を意味する哲学者フリードリヒ・ニーチェの用語であり、一種の科学的精神(啓蒙的・実証的・合理的精神)であると言われる。ニーチェは「神々の死」とも述べている。近代化・産業化・科学化の中で、ニーチェは宗教的・哲学的観念の滅亡を宣言した。言い換えれば彼は、近代的な「個人」に基づいて世界観を脱神話化した。

ニーチェの批判は、医療科学・自然科学や生物学から大きく影響を受けたと考えられている。ニーチェによれば、神・霊・魂といった虚構によって、栄養・健康・住居といった人生の重大事が軽んじられてきた。神が死んだ(そして神を冒涜することも出来なくなった)からには、最大の問題は地上やからだを冒涜することである。ここでニーチェは、「超人」とは地上的・身体的な人間であると述べている。一方で、超地上的・超自然的な事柄や魂といったものは、不健康な嘘だとしている。





2011年5月、シルクロードのウズベキスタン国
サマルカンドのレギスタン広場などにて



2012年4月、アフリカ大陸ケニヤ国マサイ族の集落にて



2012年12月、アフリカ大陸 ガーナ国 黄金海岸
ケープコースト城(奴隷を収容する監獄)にて




アフリカ西岸ガーナの海岸に沿ってこの城塞群はあります。15世紀以降西洋人の入植の後様々な品が貿易のためにこの海岸から輸出されていて、その交易品には現地住民の黒人が奴隷として多く含まれており、これを含めゴールド・コースト(黄金海岸)、スレーブ・コースト(奴隷海岸)、ペッパー・コースト(胡椒海岸)は当時の三大交易品の交易地として時の経済を支えていました。

しかし奴隷に関してその扱いは家畜以下として扱われ、人権そのものは無いにも等しく、多くの犠牲者を生み出しました。またその大多数は労働年齢に各当する男性ばかりであり、今日のアフリカ経済発展の延滞の要因の一つとされています。

黒人に対する差別や人権の軽視、奴隷制度においての悲劇の語り継ぎ・制度撤廃を求めめる象徴として11の関連施設が1979年に世界文化遺産として登録されました。






人権の世紀
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 21世紀は「人権の世紀」といわれています。20世紀、人類は二度にわたり世界大戦を経験しました。多くの尊い生命を奪い、悲劇と破壊をもたらした二つの大戦への反省から、第二次大戦後、世界の人々の間に平和と人権の尊重を求める動きが高まりました。そして、昭和23(1948)年12月10日、国際連合は、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等である」とうたった世界人権宣言を採択したのです。
 「人権の世紀」-これには、20世紀の経験を無駄にせず全人類の幸せが実現する時代にしたい、という願いが込められています。





人権は人類の財産
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 日本国憲法は、人種・信条・性別・社会的身分・門地などによって差別されないとする法の下の平等、思想及び良心の自由、信教の自由、学問の自由、生存権、教育を受ける権利、勤労の権利など、多くの種類の人権を基本的人権として保障しています。
 人権とは、誰もが生まれながらに持っている、人間が人間らしく生きていくための権利であり、人類が歴史の中で築いてきた財産なのです。






☆ 人生は個人のもの ☆



    自分の人生の目的を
    他者に強制されることなく
    自分で決めることが
    人間が人間として生きる原点だ
    と、自分は確認している
    そして
    自分には他者の人生を決める
    権限もなく意志すらありません







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※ わが人生の雑記帳
旅そのものが人生か?
心の旅~表現の世界を模索





☆ 人生とは何か ☆ 




    壮大な話になりますが、
    宇宙は、とてつもなく大きいのです。
    宇宙の大きさや流れを視野に入れたら、
    人間の歴史は極めて短く、
    そして、
    人間の地球世界は、極めて小さいのです。
    一人の人間の存在は、更に小さいし、
    生きている期間は、極めて短いのです。

    いずれ遠からず、
    老いても青春の私に、
    死は必ず訪れて来ますが、
    自分の人生とは何か、
    死とは何か、
    それをどう考えれば良いか、
    明確に答えることが出来ません。

    万巻の書を読み、万里の道を行き、
    沢山の人生経験をしましたが、
    人生とは何か
    人間とは何か
    いまだ不可解です。









☆ 遠藤周作文学館を見学 ☆





(2013年5月20日、長崎市東出津町の遠藤周作文学館にて)



遠藤周作(1923年3月27日~1996年9月29日)の来歴・人物
父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリック夙川教会で洗礼を受けた。1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。

その後、慶應義塾大学文学部仏文科に入学。慶大卒業後は、1950年にフランスのリヨンへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びた。第三の新人の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などがある。1960年代初頭に大病を患い、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。

無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「樹座」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや日本キリスト教芸術センターを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。

『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。

狐狸庵先生などと称される愉快で小仙人的な世間一般の持つ印象とは異なり、実物の遠藤周作は、おしゃれで痩身長躯すらりとした体つき(戦後間もない時代に183cm)の作家であり、豪放磊落開放的な態度で一般とも接するのを常としていた。







☆ 心技体 ☆




    自分の心は、常に変化する
    他者の心は、想定外にある

    自分の身体は、常に変化する
    他者の身体は、想定外にある

    自分の技能は、常に変化する
    他者の技能は、想定外にある







日本列島の各地を単独旅行


期間:2013年3月5日~3月12日
旅先:沖縄地方


首里公園内の園比屋武御嶽石門を描く



期間:2013年5月8日~6月7日

旅先:三重県、和歌山県、大阪府、兵庫県、香川県、愛媛県、大分県
宮崎県、熊本県、長崎県、佐賀県、福岡県、山口県、広島県、岡山県


香川県小豆島の風景を描く


佐賀県有明海の風景を描く


長崎県外海の風景(丘の上の建物=遠藤周作文学館)を描く



期間:2013年7月8日~7月16日
旅先:長野県、山梨県>


長野県上高地の河童橋を描く



期間:2013年8月1日~8月7日
旅先:北海道の札幌、網走、知床半島、函館


知床半島の知床五湖の一つを描く





2013年4月、カリブ海バハマ国のナッソー港にて



2014年9月、南アフリカ国、世界一治安の悪い都市
ヨハネスブルク市のソウェト地区にて





2014年9月、南アフリカ共和国ヨハネスブルク市
ネルソン・マンデラ元大統領の居宅とその周辺にて




ネルソン・マンデラ
(1918年7月18日~2013年12月5日、95才没)

南アフリカ共和国の黒人政治家。1952年白人以外で同国初の弁護士となる。 アフリカ人民族会議(ANC)指導者として白人政府による人種隔離政策(アパルトヘイト)に抵抗し, 黒人の権利獲得運動を指揮。1962年逮捕され終身刑判決を受けたが,1990年釈放。

1994年初の全人種参加による制憲議会選挙でANCが第一党になり,大統領に選出され, 340年間にわたる白人少数支配に終止符を打った。人種差別撤廃と部族間の和解を非暴力抵抗運動によって実現に導き, ガンジーと並ぶ20世紀の偉大な民主運動家として世界の尊敬を集めた。 1993年白人のデ・クラーク大統領(当時)とともにノーベル平和賞。

1999年大統領退任。1999年ANCのムベキが大統領となり政治世界から引退。2000年1月国連安保理で初めて演説を行った。 2001年前立腺癌が発見され闘病生活に入る。 2010年6月に開催されたサッカーワールドカップ南アフリカ大会の閉会式が公の場に姿を見せた最後の機会となった。
2013年肺の感染症から体調を悪化させ,12月5日ヨハネスブルグの自宅で死去。





2014年9月、アフリカ大陸ルワンダ国のキガリー虐殺記念館にて


ルワンダ虐殺(英語: Rwandan Genocide)とは、東アフリカのルワンダで1994年4月から約100日間続いた大量虐殺である。同年4月6日に発生した、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領と隣国ブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の暗殺から、ルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまで、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチとフツ穏健派が殺害された。正確な犠牲者数は明らかとなっていないが、80万人以上や約100万人と推計されており、後者であればルワンダ全国民の20%に相当する。
NGO「セボタ」によると、約25万人の女性が強姦被害を受け、その結果産まれた子供が3000人以上いる。

ルワンダ紛争はフツ系政権および同政権を支援するフランス語圏アフリカ、フランス本国と、主にツチ難民から構成されるルワンダ愛国戦線および同組織を支援するウガンダ政府との争いという歴史的経緯を持つ。ルワンダ紛争により、国内でツチ・フツ間の緊張が高まった。さらにフツ・パワーと呼ばれるイデオロギーが蔓延し、「国内外のツチはかつてのようにフツを奴隷とするつもりだ。我々はこれに対し手段を問わず抵抗しなければならない。」という主張がフツ過激派側からなされた。1993年8月には、ハビャリマナ大統領により停戦命令が下され、ルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ協定が成立した。しかし、その後もルワンダ愛国戦線の侵攻による北部地域におけるフツの大量移住や、南部地域のツチに対する断続的な虐殺行為などを含む紛争が続いた。

ハビャリマナ大統領の暗殺は、フツ過激派によるツチとフツ穏健派への大量虐殺の引き金となった。この虐殺は、フツ過激派政党と関連のあるフツ系民兵組織のインテラハムウェとインプザムガンビが主体となったことが知られている。また、虐殺行為を主導したのは、ハビャリマナ大統領の近親者からなるアカズと呼ばれるフツ・パワーの中枢組織であった。このルワンダ政権主導の大量虐殺行為によりアルーシャ協定は破棄され、ツチ系のルワンダ愛国戦線とルワンダ軍による内戦と、ジェノサイドが同時進行した。最終的には、ルワンダ愛国戦線がルワンダ軍を撃破し、ルワンダ虐殺はルワンダ紛争と共に終結した。






2014年9月、ルワンダ国首都キガリのキガリ公設食品市場にて



2014年12月、南太平洋のツバル国へ行く。人口11000人の小国で
地球温暖化に依る海面上昇で水没が懸念されている国です。





2015年4月、モンゴル国のテレルジ高原にて



2016年6月、北欧アイスランド国首都レイキャビックにて










2016年6月、北欧アイスランドの「地球の割れ目」地区にて

☆  世界最大の神秘的な露天風呂「ブルーラグーン」 ☆

地熱資源が豊富な北欧のアイスランドは、温泉にも恵まれています。
首都レイキャビックから程近い温泉「ブルーラグーン」は、世界最大の露天風呂として知られており、アイスランドの玄関口であるケフラヴィーク国際空港から至近にあるため、アイスランドへ訪れる旅行者の多くが、ここで温泉入浴を楽しんでいます。
草木の生えない荒涼とした溶岩台地に、青白色の濁り湯が湛えられている「ブルーラグーン」。月面を想像させるモノトーンな世界の中で、ミルキーホワイトの水面が美しく映え、実に神秘的な風景です。あまりに広いので、露天風呂というより湖と表現した方が相応しいのです。





( 2016年6月11日 地球上最果てのアイスランド国「ブルーラグーン」食堂にて)




2016年7月、カナダ国モントリオールにて



2016年7月、米国ニューヨークのマンハッタンにて







☆ 夢を追い続けて ☆


  私は元気で生きているとは言え、
  可也の高齢者になってしまいました。

  嫌な過去の引き摺りを消化して、
  いま現在を、しなやかに生きています。

  青春の意気に燃え、夢を追い続けて、
  したたかに孤軍奮闘しながら、
  少しづつ前進を続けています。







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心の旅~表現の世界を模索




このページの記載内容の期間
2004年~~~2016年
71歳~~~83歳
13年間





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