新たな人生の旅が始まる
~ 表現の世界を模索する ~





1993年、60歳定年退職によって、
永年勤務していた会社を去りました。

自分にとって、定年退職は、
人生の祝賀であり、
新たなる人生の旅の始まりでした。

人生は、一回限りです。

これからは、未来に向かう自分を信じて
内なる声に耳を傾けながら、希望の中に、
意味のある人生を送るよう心がけます。









☆ ひとり漂泊の旅に出る ☆



永年勤務の会社に辞別した自分は、今迄にない異世界の空間で自由に動き回る事が出来ました。 そして、束縛されない余裕のある時間を確保する事が出来ました。 定年退職後の社会生活において他者との折り合いをつけながら、退職後の思考である「自己発見」に依って、 自分の後半生を有意義に過ごし、大いに我が人生を愉しむ事にしました。

まず最初に、青春時代の自分に回帰しました。
外国語(英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語など)の習得に本格的に取り組みました。 公共図書館で様々な歴史書を読み、インターネットで世界各国の政治、経済、社会、地理、文化、観光などの勉強をしました。 青春時代に、「旅」は普遍的なものであることを認識していました。 そこで、限りなき探求心を持って、 自己存在の証明探しのために、敢えて言えば「自分探しの旅」を始めました。 長期間、一人で、世界の国々や 日本全国の町々を歴訪する旅に出かけました。

「ひとり放浪の旅」を通じて、
ものの見方が変化し、私に新たなる美意識が萌芽しました。 大自然の美しさ、人間の美しさ、造形物の美しさ等に対する表現を模索するために、 歴史的文化遺産、大自然の景観など、 人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を 持つものに好奇心を覚えました。 もっぱら、美術・アートに興味と関心を寄せて、 世界各地に散在する有名無名の美術館や博物館を巡りました。

時空を超える思考のもとで、
バックパッカー放浪のひとり旅を重ねました。 気の向くままに足の向くままに、海外諸国放浪の旅や日本列島放浪の旅を楽しみました。 自由気儘な放浪の旅で出会った美しい風景に感動し、それを絵画表現する愉しみを得ました。 そして、航空機、船舶、鉄道列車、移動バス、宿泊所などで、 偶然に出会った見知らぬ人々から、 様々な情報を入手し、時には冗談を交わし、世間話をして、放浪の旅を続けました。 そこで、旅で出会った人々を絵描きして愉しみました。






1993年4月、 英国、首都ロンドン
ナショナルギャラリーの前で



ナショナル・ギャラリー(英: National Gallery)は、イギリスのロンドン、トラファルガー広場に位置する美術館。日本語では国立美術館とも訳される。

1824年に設立され、13世紀半ばから1900年までの作品2,300点以上を所蔵している。登録適用除外チャリティ (en:exempt charity) の一つで、文化・メディア・スポーツ省 (en:Department for Culture, Media and Sport) の非省公共団体 (非政府部門公共機構) (non-departmental public body) である。

そのコレクションは大衆に広く公開されており、特別な企画展示をのぞいて入館は無料となっている。ただし、維持管理費用の一部を寄付でまかなうため、寄付を募る箱が入り口ほか数カ所に設けられている。















1993年4月、 英国、首都ロンドン
大英博物館のロゼッタ・ストーンの傍らで。



ロゼッタ・ストーン(ロゼッタ石、仏: Pierre de Rosette, 英: Rosetta Stone)は、エジプトのロゼッタで1799年に発見された石柱。

紀元前196年にプトレマイオス5世によってメンフィスで出された勅令が刻まれた石碑の一部である。縦114.4cm、横72.3cm、厚さ27.9cm、重量760kg。古代エジプト期の暗色の花崗閃緑岩でできた石柱である。なお、当初は花崗岩または玄武岩と考えられていた。

碑文は古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、ギリシア文字の3種類の文字で記述されている。細かい違いはあるが、本質的には同一の文章が全部で3つの書記法で著されていると早くから推測され、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンもしくは物理学者のトマス・ヤングによって解読された。これによってロゼッタ・ストーンはエジプトのヒエログリフを理解する鍵となり、他のエジプト語の文書も続々と翻訳が可能になった。











1993年4月、 英国、首都ロンドン
テートギャラリーにて。



テート(テイト) (Tate) は、イギリス政府の持つイギリス美術コレクションや近現代美術コレクションを所蔵・管理する組織で、ロンドンなど各地にある国立の美術館を運営する。2000年の改組以前はテート(テイト)・ギャラリー (Tate Gallery) と呼ばれたが、それ以後はテート・ギャラリーと呼ばれることはなく、単にテイト(Tate)という。








1993年4月、スペイン国マドリッド市
プラド美術館前と絵画展示作品室



1993年5月、フランス国パリ市
ルーブル美術館前(左)とテルトル広場(右)にて



1993年5月、フランス国パリ市
ポンピドーセンター(左)、オルセイ美術館(中)、ピカソ美術館(右)



1994年6月、ポーランド国のアウシュヴィッツ
ユダヤ人強制収容所跡地にて





アウシュヴィッツ強制収容所の11棟の地下牢の「90cm四方の立ち牢」に
囚人=ユダヤ人は、一度に4人が収容されたという。
見学中の私の提案で「立ち牢」の中に実際に4人で 立ってみました。



アウシュヴィッツ強制収容所の銃殺場所、右の建物は11号棟、
10号棟(左)と11号棟にある、正面に見える壁は、銃殺現場「死の壁」。



アウシュヴィッツ強制収容所の焼却炉の煙突、
毎日、350人以上が、この場所で焼却された。。






第二次世界大戦中にナチスドイツによって大量虐殺が行われた、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所。「アウシュビッツ」と「ビルケナウ」という2つの収容所から成り立っており、この戦争犯罪を隠すことなく後世に伝えるため、現在では博物館として公開されています。ここは、ヨーロッパ各地から連行されてきた人びとが辿り着く終着地でした。この地まで運ばれて生還した人は、ほとんどいませんでした。


1994年6月、ポーランド国のビルケナウ
ユダヤ人強制収容所跡地にて



不朽の名著『夜と霧』
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「夜と霧」の著者は、強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人のヴィクトール・フランクルです。精神科医だったフランクルは、冷静な視点で収容所での出来事を記録するとともに、過酷な環境の中、囚人たちが何に絶望したか、何に希望を見い出したかを克明に記しました。

「夜と霧」は戦後まもなく出版され、世界的なベストセラーとなります。アメリカでは、「私の人生に最も影響を与えた本」でベスト10入りした唯一の精神医学関係の書となっています。日本でも、重いテーマにもかかわらず、これまでに累計100万部が発行されました。

「夜と霧」が時代を超えて人を引きつけるのは、単なる強制収容所の告発ではなく、“人生とは何か”を問う内容だからです。

戦後、フランクルは「人生はどんな状況でも意味がある」と説き、生きがいを見つけられずに悩む人たちにメッセージを発し続けました。彼が残した言葉は、先が見えない不安の中に生きる今の私たちにとって、良き指針となるはずです。

収容所では様々な「選抜」が行われた。ガス室に送られるか、あるいはどの収容所に移されるかは、ちょっとした偶然で決まった。先が見えない中、収容所ではクリスマスに解放されるとのうわさが広まった。しかしそれが裏切られると、急に力つきてしまう人が多かった。自暴自棄になり、食料と交換できる貴重な煙草に吸いつくしてしまう者もいた。過酷な環境の中で、フランクルは考える。心の支え、つまり生きる目的を持つことが、生き残る唯一の道であると―。

フランクルは、収容所での出来事を通して、「生きる意味」を学び取ろうと決め、人間の心理について冷静な分析を行う。そしてついに解放され、奇跡的な生還を果たす。

私たちは、自由で自己実現が約束されている環境こそが幸せだと思っている。しかし災害や病気などに見舞われた時、その希望は潰える。収容所はその最悪のケースだ。しかしそれでも、幸せはまだ近くにあるのではないかとフランクルは考えた。人間は欲望だけではなく、家族愛や仕事への献身など、様々な使命感を持って生きている。どんな状況でも、今を大事にして自分の本分を尽くし、人の役にたつこと。そこに生きがいを見いだすことが大事なのではないかとフランクルは考えた。そして医師としてチフス患者の病棟で働きながら、仲間たちに希望の持ち方を語った。

収容所では、極限状態でも人間性を失わなかった者がいた。囚人たちは、時には演芸会を催して音楽を楽しみ、美しい夕焼けに心を奪われた。フランクルは、そうした姿を見て、人間には「創造する喜び」と「美や真理、愛などを体験する喜び」があると考えるようになる。しかし過酷な運命に打ちのめされていては、こうした喜びを感じとることはできない。運命に毅然とした態度をとり、どんな状況でも一瞬一瞬を大切にすること。それが生きがいを見いだす力になるとフランクルは考える。幸福を感じ取る力を持てるかどうかは、運命への向き合い方で決まるのだ。

フランクルは、生きる意味は自ら発見するものであり、苦しみは真実への案内役だと説いた。





1995年7月、フィンランド国のロヴァニエミ市郊外
北極圏線上のサンタクロス村にて


1995年8月、イタリア国の水上都市ベニス
ヴェネティア・ビエンナーレの日本館の前にて

1995年8月
第46回ヴェネティア・ビエンナーレ国際美術展

ヴェネティア・ビエンナーレ発足100周年という「記念回」 を迎え、日本館は全国各地の美術館キュレーターや美術評論家等 から展示内容の提案を募る指名コンペを実施した。作家は崔在銀、日比野克彦、 千住博、川口洋一郎の4人で、茶の湯に由来する「数寄の美学」をコンセプトに した展示が行われ、会場空間構成は隈研吾、グラフィック・デザインは田中一光、 照明は海藤春樹がそれぞれ担当した。


第46回ヴェネティア・ビエンナーレ国際美術展、日本館の全景


第46回ヴェネティア・ビエンナーレ国際美術展、日比野克彦の作品


第46回ヴェネティア・ビエンナーレ国際美術展、 千住博の作品





1995年9月、エジプト国首都カイロ地区と周辺地区にて





1995年10月、イスラエル国エルサレムの嘆きの壁・ユダヤ人街にて


1995年10月、イスラエル国のマサダ砦にて


マサダは、第一次ユダヤ戦争(66-73年)において古代ローマと最後まで戦ったユダヤ人達が籠城した死海近くの丘の上に築かれた城塞で、最終的に玉砕(集団自決)した悲劇の地としても知られています。この敗北の結果、ユダヤ人たちは国を失い、1948年のイスラエル建国まで約1900年に渡って流浪の民として過ごすことになります。

マサダは現代ユダヤ人にとり、民族の聖地となっています。 イスラエル国防軍将校団の入隊宣誓式はマサダで行われ、 士官学校卒業生は山頂で「マサダは二度と陥落せず」と唱和し、 民族滅亡の悲劇を再び繰り返さないことを誓います。




1996年6月、英国ロンドン滞在中に、二人のユダヤ人の遺物を訪ねる
「資本論」の著者マルクスの墓(左)「夢判断」の著者フロイドの邸宅(右)



1996年8月、ブルガリア正教会リラ修道院にて


1997年7月上旬、オーストラリア国のエアーズロック地方にて


1997年7月下旬、朝鮮半島南部・韓国にて




朝鮮半島と天皇家の祖先
「日本国」と言う国号の成立



宮内庁が「天皇陵」の学術的調査を認めない理由は何であろうか。その答えを具体的に言えば、「天皇家の祖先」が「朝鮮半島から渡って来た証拠が出て来る恐れ」があるからだという。日本の歴代天皇の中で最も活躍した天皇の一人「桓武天皇」の母 高野新笠(たかのにいがさ)は、百済の名王 「武寧王の後裔」であることは日本史の常識になっている。ちなみに、「桓武天皇」は朝鮮系天皇「天智天皇」のひ孫である。

歴代天皇の中で最も活躍したとされる天皇「天智天皇」「天武天皇」の母「斉明天皇」は、「朝鮮人豪族 吉備王朝」の出である。吉備王朝は、朝鮮式山城を根城に、大和王朝以前 倭国最大の勢力をもっていたという。吉備には、大和王朝以前としては、日本最大の古墳があるという。従って、「天智・天武は朝鮮系の天皇」であるということになる。「白村江の戦い」で、百済救援のために、斉明天皇の後を追って、天智が3万人に近い兵を送ったということは、「百済と倭国は姻戚関係にあったからだ」と金達寿 佐々克明 洪思俊<扶余博物館館長>らは述べている。

          次の写真は、現在の韓国錦江(白村江)です


西暦663年、「白村江の戦い」で
新羅にやぶれた百済から五万人が渡来したという。このことに関して、司馬遼太郎は「百済 国ごとの引っ越し」と語っている。「日本書紀」によれば、天智天皇は、当時の亡命者を、近江の蒲生郡あたりに3000人近く住ませ、無償で農地を与え、官食を三年間も与えたという。百済の高官66名が政務次官なみに登用され、「法務大臣(法官大輔)」「文部科学大臣(学頭職)」になった人もいる。西暦667年、「天智天皇は都を近江」に移している。「額田王の父 鏡王は 近江の蒲生郡に住んでいた」と言われている。

額田王が天智の妃なったことと、くしくも、額田王が朝鮮人であったことは、天智による近江遷都には朝鮮の匂いをただよわせるものがある。額田の義母 斉明天皇が朝鮮人であり、斉明天皇の子供(天智)が朝鮮系の天皇であり、その妻が朝鮮人であることは、「近江」と「朝鮮」の関係の深さを彷彿とさせる。百済人が倭国へ亡命したのは、亡命以前から、倭国と百済には縁戚関係が成り立っていたからである。日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、「白村江の戦いの敗北で渡来した百済人」で、彼らによって「日本という国号」がつくられた。



1998年11月、アメリカ合衆国ハワイ州にて


1999年10月、ブラジル国サンパウロ市にて


1999年10月、ペルー国マチュピチュにて




1999年11月、南アメリカ大陸、エクアドル国首都キト市にて


1999年11月、南アメリカ大陸、コロンビア国首都ボゴタにて


1999年11月、アメリカ大陸最南端パタゴニアの氷河にて


1999年12月、アメリカ合衆国のNYマンハッタンにて






2000年4月、北里大学病院に入院する
前立腺癌と膀胱結石摘出の手術を受ける






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※ わが人生の雑記帳
旅そのものが人生か?
心の旅~表現の世界を模索




21世紀が始まる

2001年
9月11日 - アメリカ同時多発テロ事件発生。




☆ 人生という旅路 ☆ 




    此の世は、
    とかく住み難いですが、ひとり一人が
    違った自らの人生を歩んでいると思います。

    人間は、元来、孤独なもので、
    一人で生まれ、独りで死んで行きます。
    厳しさと寂しさを感じても、
    孤独な人生を過ごします。

    好奇心は旺盛ですが、
    残念ながら、
    私の生きている期間は永くないのです。

    幸運にも、
    長寿100歳を超えることが出来ても、
    死にたくないです。

    辛い事や悩みは、沢山ありますが、
    兎に角も、
    生きて、生きて、生き抜きたいのです。





2001年3月、カンボジア国アンコールワットにて


2001年8月、ミャンマー国ヤンゴンにて


2001年8月、インドネシア国ビンタン島にて


2001年12月、キューバ国ハバナにて


2001年12月、メキシコ国の古代宗教都市テオティワカン遺跡にて


2002年8月、ロシア国の古都サンクトペテルブルクにて


2002年8月、ロシア国の首都モスクワにて


2002年8月、ウクライナ国の首都キーウにて


2003年5月、米国カリフォルニア州シエラネバダ山脈の麓
マンダナーの日系アメリカ人強制収容所跡地にて

日系人強制収容とは、 国家の安全保障の脅威になるという理由で、日米開戦の翌年1942年に、アメリカ西海岸とハワイの一部の地域に住む日系人は、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていたにもかかわらず、強制的に立ち退きを命ぜられ、強制収容所に送られました。なんの補償も得られないまま、かれらは家や会社を安値で売り渡さなければならず、中にはすべての財産を失ってしまった人もいました。第二次世界大戦中、アメリカ政府によって強制収容所に送られた日系人の数は12万に上ります。





2003年5月、米国ニューメキシコ州ロスアラモス
原子爆弾開発のロスアラモス研究所を訪ねて


ロスアラモス研究所は、アメリカのニューメキシコ州ロスアラモスに位置し1943年 第二次世界大戦中に原子爆弾の開発を目的とした「マンハッタン計画」の為創設されたアメリカの国立研究機関。 ロッキー山脈の南端の広大な敷地に2100棟の施設が立ち並び、科学者・エンジニア2500名を含む1万人もの所員が現在勤務している。 核兵器開発やテロ対策等アメリカの軍事・機密研究の研究所で生命科学、ナノテクノロジー、コンピュータ科学、情報通信、環境、レーザー、材料工学、加速器科学、高エネルギー物理、中性子科学、核不拡散、安全保障、核テロを抑止する核緊急支援隊の育成等、先端科学技術の研究を現在も行っている。




J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer、1904年4月22日 - 1967年2月18日)は、アメリカ合衆国の理論物理学者。 理論物理学の広範な領域にわたって大きな業績を上げた。特に第二次世界大戦中のロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として知られる。戦後はアメリカの水爆開発に反対したことなどから公職追放された。 1960年9月に初来日して東京都・大阪府を訪れている。

原爆開発を成功させたオッペンハイマーは一躍、時の人に。しかし本人は広島・長崎の人々の惨状に苦しみ「私の手は血塗られている」と言ってトルーマン大統領の怒りを買う。 終戦後、オッペンハイマーはあらゆる雑誌の表紙を飾る。しかし被爆地の甚大な被害と人体への影響についての報告に動揺し、幻覚に悩まされるようになっていく。やがて米ソが水爆の開発競争に突入すると、反対の立場を取ったために邪魔者扱いされ共産主義者として政府機関から追放されてしまう。

生い立ち
ドイツからのユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれた。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス、母はアシュケナジムの画家エラ・フリードマンである。弟のフランク・オッペンハイマーも物理学者。 非常に早熟で、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語を学んでいた。最終的には6カ国語を話した。一方で運動神経にはあまり優れず、同世代の子供たちと駆け回って遊ぶことはほとんどなかった。ただし、セーリングと乗馬は得意であった。

死後の動き
2022年12月16日、米エネルギー省のグランホルム長官は、オッペンハイマーを公職から追放した1954年の処分は「偏見に基づく不公正な手続きであった」として取り消したと発表した。68年を経ての処分撤回について「歴史の記録を正す責任がある」と説明した。





2003年6月、アメリカの原風景モニュメント・ヴァレーにて



2003年6月、米国ニューヨークのマンハッタンへ行く


2003年6月、世界都市の米国イリノイ州シカゴへ行く
国内ではニューヨークとロサンゼルスに次ぐ人口を持つ。。



2003年6月、米国ボストンのハーヴァード大学にて
大学の付属美術館群で、多くの美術品を鑑賞し学習する





ハーバード美術館群はハーバード大学の付属施設で美術館3館と研究専門の4施設で構成される。そのうちフォッグ美術館 (1895年設立)、ブッシュ・ライジンガー美術館(1903年設立) およびアーサー・M・サックラー美術館 (1985年設立)は展示と教育活動のために用いられる。4つの研究センターはサーディ遺跡探査センター (1958年設立)[2]と現代美術研究センター (2002年設立)、ハーバード美術館群アーカイブならびにシュトラウス保存技術センター (1928年設立)が含まれる。

3館それぞれ独自に機能していた美術館は、1983年に単一の管理体制に統合され、当初はハーバード大学美術館と称した。正式名称から「大学」という文字を除去し、2008年より現在の名称。 収蔵品は総点数がおよそ25万点超、古代から現在にわたり、地理的にもヨーロッパ、北アメリカ、北アフリカ、中東、南アジアから東アジアおよび東南アジア起源のあらゆる形態の物品が含まれている。





2003年6月、米国カリフォルニア州の最南端
サンディエゴの青空絵画展や美術館などを見学する




☆ 夢を追い続けて ☆


  私は元気で生きているとは言え、
  可也の高齢者になってしまいました。

  嫌な過去の引き摺りを消化して、
  いま現在を、しなやかに生きています。

  青春の意気に燃え、夢を追い続けて、
  したたかに孤軍奮闘しながら、
  少しづつ前進を続けています。







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※ わが人生の雑記帳
旅そのものが人生か?
心の旅~表現の世界を模索




このページの記載内容の期間
1993年~~~2003年
60歳~~~70歳
11年間





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