吉川和夫ウエブ美術庵の月例新作絵画発表

吉川和夫(キッカワカズオ)は、
世界の国々や日本全国の町々を歴訪する旅をしながら、 感動した様々な風景を絵に描いています。


<< 風景を描く >>






( 12月度の風景画 )

★ 金澤市の武家屋敷跡を描く ★


( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

金澤市の中心部に位置する香林坊地域から歩いてすぐ、繁華街の近くとは思えないほど静かな長町界隈。加賀藩士・中級武士たちの屋敷跡が残り、黄土色の土塀、石畳の小路などが当時の面影をしのばせます。今も市民生活が営まれ、周辺には九谷焼のお店や飲食店も並びます。長町武家屋敷跡は、昔ながらの街並みの中に現代の生活が自然に溶け込み、独特の風情が漂う魅力的なエリアです。

雪から土塀を守る「こも掛け」は雪吊りとともに金沢の冬の風物詩となっています。長町を流れる大野庄用水は、古くから人々の生活を支え、今も町に趣を添えています。

写真は金澤市の武家屋敷跡






★ 加賀市の北前船の船主邸宅跡を描く ★


( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

北前船とは
北前船模型江戸時代後半から明治時代にかけて繁栄した商売の形態のことで、大阪と北海道間を往復し、莫大な富を得ていました。 北前船の商売の特徴は、他人の荷物を運んで運賃を稼ぐ「運賃積み」ではなく、船主が荷主として各港で物を売り買いしながら航海する点にあります。 うまくいけば莫大な利益を生みましたが、失敗すれば大損、それどころか遭難すれば命を落とす危険にさらされます。まさに「板子一枚下は地獄」という状況でした。

豪壮な船主邸
建物は明治9(1876)年、橋立の北前船主酒谷長兵衛(さかやちょうべえ)が建てたものです。 酒谷家は江戸時代から明治時代にかけて6隻の船を所有し、巨額の富を築きました。 敷地面積は約1,000坪、オエと呼ばれる30畳の大広間には8寸(約24cm)角のケヤキの柱、巨大な松の梁、秋田杉の一枚板の大戸など、最高級の建材を使った建物からは、船主の豪勢な暮らしぶりをうかがい知ることができます。

写真は北前船の船主邸宅








※ (トップページに戻る )











( 11月度の風景画 )

★ 越中五箇山相倉集落を描く ★



( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

<越中五箇山相倉集落>
相倉集落は庄川からやや離れた段丘上に位置し、北東にゆるく傾斜する細長い台地に広がっています。この集落にある32戸の住宅のうち20戸が合掌造り家屋となっています。 「合掌造り」とは、日本有数の豪雪地帯で知られる白川郷・五箇山地方で、特徴的に見られる急傾斜の切妻造り・茅葺きの民家のことです。1階は大工の手で造られ、屋根を構成する合掌部分は村人が自分達で造ったものです。広い屋根裏では養蚕が行われていました。
相倉集落に現存する合掌造り家屋の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたものですが、最も古いものは17世紀にさかのぼると考えられます。 史跡として保存される範囲には、これらの民家だけでなく、田畑・山林・池・道路・屋根葺きに必要な茅を取る「茅場(かやば)」や、雪崩から守るための「雪持林(ゆきもちりん)」までもが含まれます。
相倉に訪れると、集落と周りの環境とが織りなす美しい風景を目の当たりにすることができます。

写真は越中五箇山相倉集落






★ 高岡大仏像を描く ★



( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

高岡大仏について
日本三大仏と称され、広く市民に親しまれている銅造阿弥陀如来坐像は、延享2年(1745)、坂下町の浄土宗極楽寺第15世等誉上人が大仏建立を誓い、弟子の良観を勧進職として高さ3丈2尺(約10m)の木造金色の仏像を建立したのが始まりです。しかし、文政4年(1821)の大火によって焼けてしまいました。極楽寺第26世譲誉上人は再興を祈念して町民に訴え、20年後の天保12年(1841)に1丈6尺(約5m)の木像を再興しました。それから60年後、明治33年(1900)の大火によって再び焼けてしまいました。
定塚町の松木宗左衛門は、今度は再び焼けることのない鋳銅仏にしたいと発願し、市内だけでなく広く各地に勧進しました。景気の不振や宗左衛門の病死などもあって事業はなかなか進みませんでしたが、数多くの人々の寄進と労力奉仕によって昭和8年(1933)についに完成しました。
原型は中野双山。古式鋳造法である焼型重ね吹きの技法で、鋳造から着色にいたるすべての工程を高岡の工人・職人たちの手で行った記念すべき大作です。
また昭和33年(1958)に円光背が取り付けられました。昭和53~56年(1978~1981)と平成19年(2007)に大規模な修理が行われ、現在に至っています。
高岡大仏は極楽寺末寺の大仏寺が管理し、また、コンクリートの台座内は巡回できるようになっており、地獄変・極楽変の絵画が浄土宗の宗教観を伝えています。

写真は大仏寺にある高岡大仏像です








※ (トップページに戻る )











( 10月度の風景画 )

★ 親不知海岸を描く ★



( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

​ 親不知(おやしらず)は、新潟県糸魚川市の西端に位置する崖が連なった地帯。 正式には親不知・子不知(おやしらず・こしらず)といい、 日本海の海岸の断崖絶壁に沿って狭い砂浜があるだけで古くから交通の難所として知られる。

名称の由来
「親不知」の名称の由来は、幾つの説がある。 一説では、断崖と波が険しいため、親は子を、子は親を省みることができない程に険しい道であることから、この名が付いたとされている。また、以下のような伝承もある。
壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていた。都に住んでいた妻はこのことを聞きつけて、夫を慕って2歳になる子を連れて京都から越後国を目指した。しかし、途中でこの難所を越える際に、連れていた子供を波にさらわれてしまった。悲しみのあまり、妻はその時のことを歌に詠んだ。 「親不知 子はこの浦の波枕 越路の磯の 泡と消え行く」以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったとする伝説もある。

写真は親不知海岸






★ 親不知海岸で、ウエストン像を描く ★



( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

糸魚川市にも大きなゆかりのあるウェストンの功績と栄誉を賛え、明治27年7月19日(1894)当地を訪れた33歳の風貌と登山の勇姿を、 彫刻家 茂木弘行氏の手によって、全国でも初めてのブロンズ製全身像として彫刻し、記念設置したものです。

WALTER WESTON(1861年~1940年)
イギリスの宣教師であり、明治21年~大正7年(1888~1915)の間に3度来日し、 その多くの日時を日本アルプスを初めとする山岳の開拓的探検登山に費やしました。 また、日本山岳会の設立をすすめるなど日本登山の登展に大きく貢献しました。

写真は親不知海岸にあるW・ウエストン像






★ 佐渡島の朱鷺(トキ)を描く ★



( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )




★ 佐渡島の朱鷺(トキ)を描く ★



( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

佐渡島の「トキの森公園」
佐渡島の「トキの森公園」
トキの森公園は、佐渡のほぼ中央・新穂地区にあります。 公園のなかには「佐渡トキ保護センター」と「トキ資料展示館」が併設されており、 トキの生態や保護増殖、野生復帰に向けての取り組みなど、トキに関する様々な事柄を知ることができます。 また、平成25年にオープンした「トキふれあいプラザ」は、トキの飛翔や採餌、子育てなどの様子を間近で観察できます。

朱鷺(トキ)は元々、東アジアの広い範囲にわたって生息している鳥でしたが、環境の変化や乱獲などにより、生息数が減少してしまいました。 日本においては、農薬や化学肥料の使用によりトキのえさとなる小さな生き物(ドジョウやタニシなど)が水田から姿を消してしまったことも、要因の一つと言われています。
日本の野生のトキはいったんは絶滅してしまいましたが、中国から贈呈されたつがいをもとに、飼育下での繁殖と放鳥に取り組んでいるところです。 2018年8月現在、放鳥した個体の孫世代が確認されるなど、佐渡島内で約350羽のトキが生息しています。


写真は佐渡島の朱鷺(トキ)です










※ (トップページに戻る )











( 9月度の風景画 )

★ 湘南の江の島を描く ★



( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

江の島(えのしま)は、神奈川県藤沢市にある湘南海岸から相模湾へと突き出た陸繋島であり、 一般的に使用される周囲360度が海に囲まれた島では無い特性を有する地名および町名である。

修行の島から参詣地へ
四囲を海蝕崖に囲まれた険阻な地形、海蝕洞「岩屋」の存在は、古来宗教的な修行の場として江の島を特色づけてきた。
奈良時代には役小角が、平安時代には空海、円仁が、鎌倉時代には良信(慈悲上人)、 一遍が、江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。
寿永元年(1182年)に源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、 代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。
鎌倉時代以後も、その時々の為政者から聖域として保護され、 参詣されてきた。弁才天は水の神という性格を有し、歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども数多く参拝した。

写真は江の島と湘南海岸







★ 箱根の芦ノ湖を描く ★



( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

芦ノ湖は、神奈川県南西部にある県内最大の湖で、早川水系に属する二級河川でもある。
水源の大部分が湖底からの湧き水である。本来は北部(箱根町仙石原)から流れ出る早川の水源であるが、 水利権が神奈川県側に無い為に、非常時(近年は主に増水)を除いて芦ノ湖から早川への放水は一切行われていない(湖尻水門には常時放水路も設備されていない)。
湖畔を中心に観光名所やリゾート施設が数多く点在する観光地で、富士山も望める景勝地としても知られている。 近年では毎年正月に開催される東京箱根間往復大学駅伝競走の往路ゴール、復路スタート地点としても知られ、多くの観光客を集める。

写真は芦ノ湖











※ (トップページに戻る )











( 8月度の風景画 )

★ 東京駅丸の内駅舎を描く ★



( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

美しく復元された東京駅丸の内駅舎の赤レンガの外壁は、東京で最も印象的な建築物の一つであり、近隣にそびえ立つガラス張りや鉄筋の高層ビル群とのギャップが特徴的です。その後ろには東京の交通の主要中心地があり、北は函館、南は福岡まで新幹線で結んでいます。駅構内は買い物や食事をする場所が豊富なうえ、周辺エリアには、丸の内の堂々たる金融街から江戸の繁華街として発展した日本橋まで、東京の最高の名所があります。

写真は東京駅丸の内駅舎







★ 旧江戸城桜田二重櫓を描く ★



( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

桜田巽櫓さくらだたつみやぐらとも呼ばれ、櫓やぐらの中には鉄砲、弓、長柄、持筒などが備えられていました。 江戸城には隅櫓すみやぐらだけでも20 基以上ありましたが、現存しているものは桜田二重櫓さくらだにじゅうやぐらのほか、 富士見(三重)櫓やぐら、伏見(二重)櫓やぐらの三基のみです。

写真は、旧江戸城桜田二重櫓です








※ (トップページに戻る )











( 7月度の風景画 )

★ 犬吠岬灯台を描く ★
(千葉県銚子市)




( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

犬吠埼の地層は、中世紀の砂岩で、昔は砥石を切り出していたところから石切鼻の名があります。 この付近一帯は、小島・岩礁が多く、昔から海の難所と言われていました。 榎本武楊の率いる幕府の軍艦美加保丸が、江戸から函館に回航する途中、 ここの黒生(くろはえ)の岩礁に乗り上げ、乗組員13名が死亡しています。

 犬吠埼灯台の建設は、江戸条約の中に入っていませんが、 政府は観音埼灯台に続き、洋式灯台か完成し業務を始めるに及んで、 航海安全のために非常に効果の大いなることを認め、条約に取り決めた数にかかわらず外国人と協議の上 (実際にプラントンが在日各国海軍商船船長の意見を聞いています)灯台を建設することが決められました。 これにより横浜・北米航路間の貿易船に対して必要な箇所として、犬吠埼灯台の建設が決まり、 明治5年9月28日着工、7年11月15日完工点灯しました。

 設計監督は英国人R・H・ブラントン。建材中最も多量に必要とした煉瓦は、 ブラントン技師の国産品の品質粗悪であることを理由に、イギリス製品を使用すべしというのに対して、 日本人中沢技師は国産品使用を叫び、県内に良質の土を発見し、国産煉瓦の完成に腐心した結果、 外国製品に比べて遜色のない優良な煉瓦を完成。灯台・付属舎・宿舎に19万3千枚の煉瓦を使用して完成、以来124年 (1998年現在)レンガ造りの建築物としては、日本一の尻屋埼灯台につぐ高さを誇っています。現在110万力ンデラの光りを放ち、 光達距離は19.5海里となっています。







★ 瑠璃光展望台(地獄のぞき)を描く ★
(千葉県安房郡鋸南町)



( 水彩/パステル 画用紙 6号 330x318mm )

房州石の産地として知られる千葉県房総半島の「鋸(のこぎり)山」は、 石を切り出した岩肌が鋸の歯のように尖っていることからその名がつきました。 なかでも断崖が垂直に切り立つ「地獄のぞき」は房総半島を一望できる絶景ポイント。

<鋸山> 房総丘陵の一部分を占めるが、内陸部よりも海岸線(東京湾)に近い。眺望は素晴らしく、 東京湾一帯から伊豆大島まで見渡すことができる。また近隣の安房三名山の富山、御殿山、伊予ヶ岳を臨むこともできる。
山頂までは、鋸山ロープウェーや鋸山登山自動車道を利用することが出来る。ハイキングでは、浜金谷駅(JR内房線)から鋸山頂上、百尺観音、地獄のぞき、日本寺大仏、日本寺を通って保田駅(JR内房線)へ下るコースがある。周辺は、地質や動植物の研究者から天然の大博物館として学術的にも注目されている。








※ (トップページに戻る )











inserted by FC2 system