吉川和夫ウエブ美術庵の月例新作絵画発表

吉川和夫(キッカワカズオ)は、
人生という旅で出会った、古今東西の人物の姿や感情を絵の中で表現しています。


<< 人物を描く >>







( 12月度の人物画 )

★ 詩人・小説家の「室生犀星像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

本名照道。明治22年8月1日、金沢市裏千日町に、旧加賀藩士小畠弥左衛門吉種と女中ハルの間に生まれる。生後まもなく赤井ハツにもらわれ、その私生児として届けられた。ハツは雨宝院の住職室生真乗の内縁の妻で、犀星は7歳のとき真乗の養嗣子(しし)となり、室生姓を名のる。9歳で実父が死ぬとともに実母は行方不明となる。12歳のとき、母の命により、金沢高等小学校3年で中退、裁判所の給仕となる。上司に交わって俳句を詠み、さらに詩を『新声』に投稿する。金石(かないわ)登記所に配転されたのち、20歳の秋、詩人を志して職を辞す。この間のことはのちに『幼年時代』『性に眼(め)覚める頃(ころ)』(ともに1919)に書かれる。

地方新聞の記者として転々したのち上京するが、生活できずに帰郷すること2回。1912年(大正1)秋から詩が認められ、翌年は北原白秋主宰の『朱欒(ザムボア)』に1月から5月廃刊まで毎号掲載される。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と歌う「小景異情」は5月に発表され、初期叙情詩を代表するものである。このとき萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)から手紙をもらい、以後親交を結ぶ。これらの詩はのちに『抒情(じょじょう)小曲集』(1918)に収められた。16年朔太郎および山村暮鳥(ぼちょう)とともに詩誌『感情』を創刊する。白秋は、「自然の儘(まま)で、稚(おさな)い、それでも銀の柔毛(にこげ)を持つた栗(くり)の若葉のやうに単純な、感傷家(センチメンタリスト)」とたたえた。『愛の詩集』(1918)では、求道的な口語詩もみられる。

『幼年時代』以後、小説家としても認められ、ことに『あにいもうと』(1934)以後は市井鬼ものとよばれる作品を書き、巷(ちまた)に真剣に生きる野性的な人間の生命を描き出した。太平洋戦争中は『泥雀の歌』(1942)などの自伝的作品や、『つくしこひしの歌』(1939)などの王朝ものを書いていた。戦後、随筆『女ひと』(1955)が好評を博してふたたび活発な活動に入る。自分と娘を描いた『杏(あんず)っ子』(1957)では読売文学賞を受賞。王朝ものの『かげろふの日記遺文』(1958)では野間文芸賞を受賞した。この間、詩もつくり続け、詩集も『忘春詩集』(1922)、『鶴(つる)』(1928)、『鉄(くろがね)集』(1932)、『美以久佐(みいくさ)』(1942)など数多い。

不幸な生い立ちのなかに生きる道を求めるところから出発して、ことに晩年は、女性を見つめて深い人生をみいだしている。昭和37年3月26日死去。墓地は金沢市野田山にあり、石川近代文学館は犀星の生涯をしのぶ展示をしている。


(室生犀星の色紙)





★ 飛行機冒険野郎「東善作像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

生年明治26(1893)年9月25日
没年昭和42(1967)年10月11日
出生地石川県羽咋郡南大海村(現・高松町)
学歴〔年〕関西中〔大正4年〕卒
経歴旧制中学卒業後、北陸新聞記者を経て渡米。サンフランシスコで中華料理店を経営しながら資金を貯め、飛行家として活躍。昭和5年ロサンゼルスから東回りで米欧亜三大陸約1万8000キロの横断に日本人として初めて成功。再渡米後、11年帰国。戦後、長野県で山師を始め、30年鳥取県の小鴨鉱山でウラン鉱を発見、ウラン鉱業を設立した。





左の背の高い方に「米欧亜三大陸横断飛行士東善作氏誕生之地碑」
右側が「東善作顕彰之碑」
(全文)明治二十六年、東長松次男として生まれまもなく羽咋市一の宮町に転居、苦学して新聞記者となる。大正五年秋、発明されて日浅き飛行機に惹かれ、志を大空に託して渡米、その技を陸軍の航空学校と民間の先達について磨く。在米十四年、日本航空界のなお低迷するを聞き、これに寄与せんとの愛国の心情は、ついに母国訪問飛行を決意、昭和五年六月、赤い複葉機「東京号」を駆つてロス空港を出発、アメリカ大陸を横断、欧州各国、シベリヤを経、八月三十一日立川に安着した。鵬程二万二千キロ、費用十万五千円を要したこの大計画の完遂は、全く独力で行われ、世界的壮挙と賞讃された。後、東京に帰り、戦後は鳥取県人形峠のウラン鉱床を発見するなど、時代に先駆ける夢多き生涯であつたが、昭和四十二年十月病気のため七十五年の一生を閉じた。遺骨は本人の希望により、一の宮の空に散布された。





※ (トップページに戻る )










( 11月度の人物画 )

★ 医学会・薬学会で偉業を遂げた「高峰譲吉像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

<タカジアスターゼ・アドレナリンの誕生>
少年期より長崎・京都・大阪などで学んだ高峰博士は当初医学を志しますが、15歳のころに化学分析学を学んだことを機に化学の道に進むことを決意します。
1879年(明治12)、工部省工部大学校(現・東京大学工学部)を卒業後、3年間のイギリス留学を経て、1884年(明治17)にはアメリカのニューオーリンズ市万国博覧会事務官として渡米、肥料等に活かされている化学の有用性を強く認識しました。帰国後着手した人造肥料や日本酒改良の研究は着実に成果をあげ、のちに東京人造肥料会社設立や高峰式醸造法の特許取得に結びつきました。
高峰式醸造法の製造過程で「麹カビ」の研究を行い、酵素ジアスターゼの抽出に成功した高峰博士は、1894年(明治27)この製造法の特許を取得。「タカジアスターゼ」と命名された強力消化酵素は、世界の医学界、薬学界における画期的な偉業と称賛され各国で製品化されました。
続いて「ホルモン」の解明に取り組んだ博士は、1900年(明治33)に牛の副腎からホルモンを分離し結晶化することに成功。世界初の結晶化ホルモン「アドレナリン」が誕生しました。アドレナリンは、外科手術の止血剤として世界で初めて完成されたもので、患者の生存率を大幅に向上させ、医学界からもノーベル賞級と絶賛されました。

松楓殿(富山県高岡市)


松楓殿は1904年、米セントルイスで開かれた万国博覧会に日本のメインパビリオンとして建設。万博閉幕後、高峰が譲り受けてニューヨーク郊外に移設し、日米親善の社交場として活用した。そして、現在は故郷の高岡市に移設された。




★ 1951年の芥川賞受賞者「堀田善衛像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

堀田 善衛は小説家。大正7年7月17日、富山県高岡市に生まれる。石川県立二中、慶応義塾大学予科を経て1942年(昭和17)仏文科卒業。雑誌『批評』に参加、詩と評論を発表。44年召集されたが、胸部疾患のため解除となり、国際文化振興会から派遣されて上海(シャンハイ)に渡る。武田泰淳(たいじゅん)、石上(いそのかみ)玄一郎を知る。
南京(ナンキン)では草野心平を知り、『歴程』の同人となる。第二次世界大戦敗戦後、中国国民党宣伝部に徴用され、上海滞在中(1946)に『祖国喪失』『歯車』などを書き始める。47年(昭和22)1月ようやく帰国。
雑誌『個性』『歴程』などに詩を発表する。48年本格的に作家生活を開始。51年に『歯車』と並んで発表した『広場の孤独』『漢奸(かんかん)』で、52年に芥川賞を受賞し、いちばん遅くやってきた戦後派などと称された。52年長編『祖国喪失』を完成し、以後、『歴史』(1952)、『時間』(1953)、『鬼無鬼島(きぶきじま)』(1956)と毎年のように長編問題作を発表する。
このころから海外との交流にも力を入れ、アジア・アフリカ作家会議などに出席して国際的にも知られる。『審判』(1960~63)、『海鳴りの底から』(1960~61)、『若き日の詩人たちの肖像』(1966~68)、『橋上幻像』(1970)と長編の創作を続け、71年『方丈記私記』(1970)で毎日出版文化賞を受賞。その後の作品に評伝『ゴヤ』(1973~76)、『定家明月記私抄』(1981~88)『ミシェル城館の人』(1994)、『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』(1998)などがある。また、『インドで考えたこと』(1957)などの評論もある。

(1954年頃)




※ (トップページに戻る )










( 10月度の人物画 )

★ 幕末の風雲児「河井継之介像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、 幕末の長岡藩(新潟県)藩士。父は秋紀,母は貞子。2度にわたり江戸,次いで中国,九州を遊学し, 慶応1(1865)年郡奉行,翌年町奉行兼務,同3年家老に上る。同年12月藩主牧野忠訓に従い上洛,王政復古で誕生した新政府に対し徳川への大政再委任を建言した。 翌明治1(1868)年1月鳥羽・伏見の戦ののち江戸に退く。藩邸の資財を売却しガトリング砲ほかの新式兵器を購入,3月に長岡に帰る。 新政府と会津藩並びに奥羽諸藩との間に中立し,双方の融和を図ろうとして失敗,奥羽越列藩同盟に加わる。 5月19日政府軍の攻撃を受け長岡落城,7月24日奪回するが同29日再び落城。戦闘で負傷し,松本良順の手当てを受けたが甲斐なく陣没。

河井継之介記念館(新潟県長岡市)









★ ノーベル賞候補だった詩人「西脇順三郎像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年(明治27年)1月20日 - 1982年(昭和57年)6月5日)は、 日本の詩人(近代詩)、英文学者(文学博士)。戦前のモダニズム・ダダイスム・シュルレアリスム運動の中心人物。 また、生涯に多くの水彩画並びに油彩等の絵画作品を残した。 生前、1958年から1967年までの間に、9度にわたってノーベル文学賞候補に推薦されていたことが のちに明らかになっているが、受賞を逸している。

西脇順三郎記念室(新潟県小千谷市)
小千谷の市民にとって、生まれ育ち、暮らしている小千谷は、かけがえのない、世界でたった一つのふるさとです。 けれども、心の中にある大切な風景が一人ひとり違うように、小千谷に対する想いもまた、人の数だけあります。 慈しみだったり、照れくささだったり、やすらぎだったり。あるいはあまりにもおおらかに流れる時間に対しての苛立ちかもしれません。 小千谷が生んだ偉大な詩人・西脇順三郎の想いは「嫌悪」でした。しかし、想いは時とともに移り変わり、成長していきます。 人間としての年輪を重ねて行くにつれ、いつもどんなときにも、自分をすっぽり包んでいてくれたふるさとの懐の大きさに気づき、それまで抱いていた感情のすべてが、深く豊かな愛情へ変わるのです。 そして、今、西脇順三郎は、ふるさと小千谷を愛した詩人として、私たちの心に深く刻み込まれています。 西脇順三郎記念室は、昭和53年(西暦1978年)に小千谷市立図書館に開設されました。このとき寄贈を受けた西脇氏の蔵書や、著作、そしてふるさと小千谷を描いた絵画などとともに展示されています。1964年に小千谷市名誉市民となり、1971年には文化功労者に選ばれました。

西脇順三郎の写真    西脇順三郎記念室の写真











※ (トップページに戻る )










( 9月度の人物画 )

★ 国民的人気歌手の「美空ひばり像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

美空ひばり

◇ 本名:加藤和枝
◇ 生年月日:昭和12年5月29日
◇ 出身地:神奈川県横浜市磯子区
昭和24年、「河童ブギウギ」でレコードデビュー。 以後、1500を超える曲を録音し、「悲しき口笛」、「東京キッド」、「リンゴ追分」、「港町十三番地」、「柔」、「悲しい酒」、「おまえに惚れた」、「愛燦燦(あいさんさん)」、「みだれ髪」、「川の流れのように」などなど、放ったヒット曲は数知れず。平成元年6月24日の死去まで、40有余年にわたって日本歌謡界の第一線で活躍した。
没後の平成元年7月、真摯な精進で歌謡曲を通じて国民に夢と希望を与えた功績が認められ、女性初の国民栄誉賞を受賞。








★ 徳川家康の政治顧問イギリス人「三浦按針像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

三浦按針 =(本名ウイリアム・アダムズ(William Adams)

没年:元和6.4.24(1620.5.26)
生年:1564.9.24
安土桃山・江戸初期,日本に来た最初のイギリス人で,徳川家康の政治顧問。本名ウイリアム・アダムズ(William Adams)。ケント州ジリンガムに生まれ,造船所の徒弟を経て海軍に入る。1598年オランダのロッテルダム会社の東洋派遣艦隊のリーフデ号の航海士としてオランダ最初の太平洋回りアジア渡航に参加,慶長5(1600)年に豊後(大分県)の臼杵に近い佐志生に漂着,大坂に送られて徳川家康と会見する。
同船のオランダ人ヤン・ヨーステンと共に家康に信頼され,相模国三浦郡逸見村(横須賀市)で200石と江戸日本橋に邸宅を与えられた。日本名を名乗り家康の外交顧問を務めるとともに幾何学,地理学,造船技術など西洋諸学を教えた。 その建造した2隻のヨーロッパ式帆船のうち1隻は上総(千葉県)に漂着したフィリピンの前総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがメキシコに帰るときに使用され太平洋を往復した。
慶長16(1611)年に彼がジャワ在留のイギリス人あてに書いた日本事情を知らせる手紙は,当時,ジャワのバンタムに商館をおいていたイギリス東インド会社を刺激し,同18年,ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を持って平戸へ来航する機縁となった。アダムズは駿府でセーリスを家康に会わせ,貿易許可の朱印状と平戸に商館を置くことを認めさせた。アダムズ自身,イギリス東インド会社と契約を結んで俸給を得た。
彼はセーリスの帰国の際,日本を離れる許可を得たが,結局そのままとどまった。日本人の妻とのあいだに2子がある。自ら朱印船貿易家としても活躍し,シャム,アンナン,トンキンに渡航もしている。徳川秀忠の代になると幕府との関係が薄れ,平戸で病没した。夫婦を祭った按針塚が領地の横須賀市に現存する。『大日本史料』12の33(元和6年4月24日条)に三浦按針についての史料が網羅されている。


横須賀市西逸見町の「塚山公園」には、
按針夫妻の慰霊のために作られた供養塔があり、
安針塚(按針塚)」「三浦按針墓」と呼ばれる。











※ (トップページに戻る )










( 8月度の人物画 )

★ 国際的に評価の高い画家「葛飾北斎像」を描く ★


私が描いた浮世絵師・葛飾北斎の自画像


葛飾北斎

代表作に『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも彼の卓越した描写力を見ることができる。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり、難を逃れている。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。



私が描いた浮世絵師・葛飾北斎の自画像


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

葛飾北斎の作品










★ 百歳まで生きた美の旅人「堀文子像」を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

堀文子氏の来歴

永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府立第五高等女学校(現・都立富士高等学校)、女子美術専門学校師範科日本画部(現・女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)を卒業。府立第五高等女学校時代に自宅近くで二・二六事件に遭遇した。 女子美術専門学校在学中の1938年に第2回新美術人協会展入選。1940年に女子美術専門学校を卒業し新美術人協会会員。『キンダーブック』(フレーベル館)、『ふたば』などで挿画や装幀を描き生計を立てる。 29歳の時に外交官の箕輪三郎と結婚するも43歳のときに死別。

1961年から1963年にかけ世界放浪の旅へ出る。旅の中でアンフォルメル、シュルレアリスムの影響を離れ、日本画の持つ色彩や顔料の美しさに回帰する。 1967年に神奈川県大磯に転居。1974年創画会の結成に参画。

1974年に多摩美術大学日本画科教授に就任。その後、多摩美術大学客員教授として日本画の指導を行う。1999年に多摩美術大学客員教授を退任。 1981年に軽井沢にアトリエを構える。1987年にイタリアアレッツォにアトリエを構える。1992年にアレッツオ市で堀文子個展を開催。1995年にアマゾン川、マヤ遺跡・インカ遺跡へスケッチ旅行。1999年に創画会を退会。 2011年に女子美術大学より名誉博士の称号を得る。

2000年、82歳の時に幻の高山植物ブルーポピーを求め、ヒマラヤ山脈の高地を踏破(「アーティストたちの挑戦 ヒマラヤ 高き峰をもとめて 日本画家 堀文子」(NHK収録/放送、2000年)。2001年に解離性動脈瘤で倒れて以降、長期間の取材旅行に出かけられなくなったことから微生物に着目し、海中に生きる命をモチーフとする作品を発表。これらの作品は画文集や個展で発表された。

自然の中に存在する命や花鳥をモチーフとする作品を多く制作し「花の画家」と呼ばれた。専門の日本画の他、装幀、随筆でも多くの作品を発表した。神奈川県大磯町に在住していた(2012年時点)。 2019年2月5日午前0時56分、心不全のため平塚市内の病院で死去。100歳没。


主な著作
*楽園幻想 (吉行和子 文 講談社 1997年5月)
*ホルトの木の下で(幻戯書房、2007年)
*対談集 ―堀文子 粋人に会う―(清流出版、2009年)
*ひとりで生きる 堀文子の言葉 (求龍堂 「生きる言葉」シリーズ 2010年2月)
*堀文子美の旅人 画家のまなざしと心を追って 飯島幸永写真集 (実業之日本社 2010年4月)
*老いて、若返る 人生、90歳からが面白い (日野原重明共著 小学館 2011年4月)


堀文子の作品

















※ (トップページに戻る )










( 7月度の人物画 )

★ 義民伝説の佐倉惣五郎像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

佐倉 惣五郎(生年不詳 – 承応2年8月3日(1653年9月24日))は、 江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物。 下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎。通称は宗吾(惣吾とも)とされる。
領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。 代表的な義民として名高いが、史実として確認できることは少ない。 惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。

<現実の思想・運動への影響>

福沢諭吉は「余輩の聞くところにて、人民の権義を主張し正理を唱えて政府に迫り、その命を棄てて終わりをよくし、世界中に対して恥ずることなかるべき者は、古来ただ一名の佐倉宗五郎あるのみ。(中略)もって世人の亀鑑(きかん)に供すべし。」(「学問のすゝめ」七編・国民の職分を論ず)と、史上最高の「義民」として称えています。

また、日本初の「公害」事件として名高い足尾銅山鉱毒事件で、国と戦い続けた田中正造は、佐倉宗吾を自らの行動指針としたといわれます。足尾銅山の汚染を国会等で訴えるも取り合われず、川俣事件などの弾圧事件も起きて手をこまねく正造に、毎日新聞の主筆石山半山は「貴方はただ佐倉惣五郎たるのみ」貴方は佐倉宗吾のように行動するしかないよ、と促します。正造は国会議員の職を辞し、1901年明治天皇の馬車を待ち受けて直訴状を手に駆け寄りました。渡良瀬流域の民を救うための決死の行動は、まさに印旛沼流域の民を救うため直訴した佐倉宗吾とかぶります。憲兵に取り押さえられて天皇への直訴はかなわなかったものの、この顛末が新聞で大々的に取上げられ、世論を喚起することとなりました。

このように明治初期の自由民権思想と結びつき影響を与えた佐倉宗吾ですが、長らく伝説・創作上の人物とされ、実在を疑問視されてきました。福沢諭吉自身も「ただし宗五郎の伝は俗間に伝わる草紙の類のみにて、いまだその詳(つまび)らかなる正史を得ず。」と、実在の証拠がないことを記しています。江戸期の「地蔵堂通夜物語」は惣五郎の死霊が僧を通じて物語るという怪談仕立ての伽物語ですし、史実史料の存在が確認されなかったためです。科学重視の明治期には実在の否定説が強くなり、つい近年までそれは続いていました。

ところが昭和30年代、児玉幸多博士(学習院名誉教授)が宗吾の霊を祭る宗吾霊宝館の粗末な展示物を確認中、うずもれた戸棚の中から江戸期の名寄帳(年貢割り当てのための帳面)の中に木内惣五郎の名を見つけ、実在が確認されました。



上の写真は東勝寺(宗吾霊堂)です。 宗吾霊堂の正式名称は東勝寺(とうしょうじ)、千葉県成田市にある真言宗の寺ですが、義民・佐倉惣五郎(さくらそうごろう)の霊が祀られていることから宗吾霊堂と呼ばれ、元内閣総理大臣の小泉純一郎氏を始め、各界の有名人が多数訪れている霊堂です。



上の写真は、佐倉惣五郎の墓の写真です。宗吾霊堂の境内にあります。 公津ヶ原処刑場の跡地です。ここで、惣五郎は処刑されたとの事です。





★ 初めて日本地図を作った伊能忠敬像を描く ★



( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、 江戸時代の商人、天文学者・地理学者・測量家である。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。

伊能忠敬は、はじめて実測による日本地図を作った人として著名で、戦前は小学校の教科書に載せられ偉人とされた。 戦後、しばらく忘れられた存在であったが、井上ひさし氏が小説「四千万歩の男」を書いてから、 再び見直されつつある。

忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町で生まれ、横芝光町で青年時代を過ごし、 17歳で伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍します。

その後、家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、 55歳(寛政12年、1800年)から71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり、日本全国の測量を行いました。

~伊能忠敬の<大日本沿海輿地全図>の作成過程~

第一次の蝦夷地測量がはじめられる。根室の近くのニシベツまで往復3,200キロを180日かけて歩測し、 途中81ヶ所で天体観測をおこなった。あきれるばかりの根気よさである。 蝦夷地の実測図は大変高く評価された。現在図と較べても経度を補正すれば、地形は重なる。

第二次測量では測量方法を改善し、間縄を使って本州東海岸の測量を始める(第一次の蝦夷地測量では全行程とも歩測だった)。 ついで、第三次測量では出羽から日本海沿岸、第四次測量では東海道・北陸道沿海、と測量が続けられ、文化元年には東日本の図が完成した。
八月に老中・若年寄の閲覧に供し、九月、第11代将軍・徳川家斉の台覧をうける。
ここまでは幕府が補助金を出した忠敬の個人事業であったが、このあと、忠敬は微禄だが幕臣(45俵くらい)に登用され、幕府測量隊として下役・内弟子など多数の部下をつれて、老中の御証文を持って西国の海岸と主要街道を丁寧に測量した。

伊能隊の全測量日数の約八割は幕府事業として遂行された。
文政元年4月13日(1818.5.17)忠敬は、移っていた八丁堀の地図御用所(自宅)で73歳の生涯を閉じた。 地図は未完だったので、喪を秘して下役、門人の手で作業が継続される。幕府に提出されたのは、死後3年余の文政4年7月10日(1821.8.7)であった。


写真(左)は忠敬の出生の地(千葉県九十九里町)
写真(右)は忠敬の旧宅(千葉県香取市佐原)













※ (トップページに戻る )









inserted by FC2 system