吉川和夫の月例美術展

<< 人物を描く >>




( 9月度の人物画 )

アメリカに亡命したユダヤ人
~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ 理論物理学者「アインシュタイン博士像」を描く ★
光電効果の理論的解明をしてノーベル物理学賞を受賞


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

アルベルト・アインシュタイン(独: Albert Einstein、1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者、社会主義者。ユダヤ人。スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。

特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理、光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞した。




写真はアインシュタイン博士


人物像

○趣味はヴァイオリンで、公の場でもしばしば演奏した。しかし、ピアニストで友人のアルトゥール・シュナーベルとアンサンブルを行った際、何度も拍の勘定を間違えるため、シュナーベルから「君は数も数えられないのか」と呆れられたという。また、「ヴァイオリンの名手であった」という風評が一般的であるが、当時の高名なヴァイオリニストからは「relatively good」(直訳は"比較的良い"だが、意訳として相対性理論 (Theory of Relativity) とかけているため"相対的に良い"とも訳せる)と評価されている。

○最初の妻だったミレヴァとの間に息子が2人。長男のハンスは、カリフォルニア大学バークレー校で流体力学関係の教授を務めた。次男のエドゥアルトは、医学を学んでいたものの、学生時代に統合失調症を発し、亡くなるまで精神病院で過ごした。そのため、病跡学上(エピ・パトグラフィー)の対象ともなっている。後年公開された資料では、ミレヴァとの破局はアインシュタインの家庭内暴力が一因であり、精神を患ったエドゥアルトに対しても、非常に冷淡な態度を取り続けたことが公表されている。なお、再婚相手であるエルザには前夫との間に娘が2人いたが、再婚に伴い彼女たちもアインシュタイン姓を名乗ることとなった。なお、ミレヴァとの間には最初の子であるリーゼルという長女がいたとされるが、生まれてすぐに養女に出してしまったとされ、早世したのかその後の消息も不明となっている。

○人前ではめったに笑顔を見せたことがなかったと言われている。自身が舌を出しているもっとも有名な写真は、1951年3月14日、アインシュタインが72歳の誕生日に、INS通信社カメラマンだったアーサー・サスの「笑ってください」というリクエストに危うく応えそうになってしまい、とっさにそれを隠そうとした表情を撮ったものである。しかし、その写真は、アインシュタイン本人もお気に入りで、9枚焼き増しを頼んだほどである。この写真は、1951年度のニューヨーク新聞写真家賞のグランプリを受賞した。また、切手にもなった。

○1924年、ルイ・ド・ブロイがソルボンヌ大学の博士論文を提出した際、教授陣は誰もその論文を理解できなかった。教授の一人がアインシュタインにセカンドオピニオンを求めたところ「この青年は博士号よりノーベル賞を受けるに値する」との返答を得た。その5年後にルイは、本当にノーベル賞を受賞した。

○大の親日家である。改造社の招待で訪日したアインシュタインは、講演の合間に観光。特に気に入ったものは「新橋橋善」の天ぷら弁当で、そこに添えられていた「新橋玉木屋」の昆布の佃煮を好んだ。

○手紙好きであり、有名になってからも1万通以上も手紙をやり取りしていたという。

○晩年は、他者の論文を読むことがなくなっており、弱い力も知らなかったと言われる。

○睡眠時間は、1日10時間の長時間睡眠(ロングスリーパー)だったという。

○当時の靴下はすぐに破れてしまうため嫌いで、常に靴を素足のまま履いていたという。

○音楽学者でモーツァルトの研究者のアルフレート・アインシュタインを従弟と見なす文献もあるが、二人は無関係だ、とする説もある。




日本とアインシュタイン博士(第二次世界大戦以降)

●太平洋戦争開戦後の1942年4月15日に、日系アメリカ人による反ファシズム公民権団体である「日米民主委員会」の顧問に就任した。

●広島の平和活動家谷本清牧師と彼の自宅にて面会した際に、多少なりとも原子爆弾開発を後押しした行為を悔やみ謝罪したと言われ、またノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と面会した際にも、同様の理由で涙ながらに謝罪したと言われる。ラッセル=アインシュタイン宣言には湯川も名を連ねた。ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』を自費で大量に購入し、知人に配って回ったことからも、原爆被害について関心を持っていたようである。

●第二次世界大戦後、日本の哲学者で雑誌『改造』の編集者だった篠原正瑛から原爆開発に関して、 「その第一の目的が、人類の福祉と幸福に奉仕すべき科学が、なぜにあのように恐ろしい結果を、もたらすようになったのか。偉大な科学者として、原爆製造に重要な役割を演じられたあなたは、日本国民の精神的苦痛を救う資格がある」という手紙を受け取った。それに対してアインシュタインは、あえて篠原の手紙の裏面に返事を記し、「原爆が、人類にとって恐るべき結果をもたらすことを、私は知っていました。しかし、ドイツでも、原爆開発に成功するかも知れないという可能性が、私にサインさせたのです。私に敵があって、その無条件の目的が、私と私の家族を殺すことである場合です」と述べたうえで、追伸として「他人の行為については、十分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努力すべきだ」と記した。2人はその後も文通を続け、篠原が受け取ったアインシュタインの書簡6通は、篠原の没後の2005年に広島平和記念資料館に寄贈されて保管されている。

●1993年、理論物理学者のスティーヴン・ホーキングが仙台市を訪れた際、同地を訪れた理由を訊かれたところ、「アインシュタイン博士の本を読んでいたら、『やがて我々の大学と競争関係に入る大学は東北大学だ』と書いてあったからだ」と答えたという。

●2017年、アインシュタインが1922年に来日した際滞在した東京の帝国ホテルでベルボーイにチップ代わりに渡した2枚のドイツ語のメモが、それぞれ156万ドル、24万ドルで落札された。






※ (トップページに戻る )









( 8月度の人物画 )

アメリカ合衆国のノーベル賞作家
~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ 小説家・劇作家「スタインベック像」を描く ★
代表作「怒りの葡萄」「エデンの東」など

( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

ジョン・アーンスト・スタインベック(John Ernst Steinbeck, 1902年2月27日 - 1968年12月20日)は、アメリカの小説家・劇作家。 スタインベックは「アメリカ文学の巨人」と呼ばれていた。また、スタインベックの多くの作品は西洋文学の古典と考えられている。
また、生涯で27冊の本を出版している。その中には16冊の小説と、6冊のノンフィクション、2冊の短編集が含まれている。

1929年の経済恐慌の影響を受けて貧窮にあえぐ小作農民の姿を描き、ピューリッツァー賞を受賞した代表作『怒りの葡萄』は75年に渡って売れ続け、1400万冊が販売されている。
『エデンの東』では、キリスト教的原罪と人間の救いの可能性に新境地を開いた。

スタインベックの作品の多くはカリフォルニア州中部が舞台となり、中でもサリナス峡谷やコースト・レーンジズ山脈は頻繁に登場する。 1962年にノーベル文学賞を受賞した。





米国カリフォルニア州モントレ-郡サリナス
ジョン・スタインベックの記念館を訪問
(2004年6月20日)

ジョン・スタインベック(1902~1968)。
カリフォルニア州サリナスの生れ。スタンフォード大学でおもに海洋生物学を学んだ。カリフォルニアを舞台に,貧乏な移住農民を描いた小説が多いが,生物学を通して培った,いわゆる〈生物学的人間観〉や〈集団人(グループ・マン)〉といった思考態度は,人間を描く作家としての姿勢の基本となっている。

最初の成功作《トティーヤ台地》(1935年)に続いて《二十日鼠と人間》《怒りの葡萄》などを発表。《エデンの東》(1952年。エリア・カザン監督によって第4部が同題で映画化された),《われらが不満の冬》(1961年),〈赤い小馬〉を含む短編集《長い谷》(1938年),カリフォルニア湾での生物採集記録《コルテスの海》(1941年)なども知られる。1962年ノーベル文学賞。

晩年は国内の批評家からの評価は必ずしも芳しくなく、生活は決して恵まれたものではなかった。スタインベックは1968年、ニューヨークで心臓発作をおこして没した。66歳没。スタインベックの死体は遺言通り、火葬され埋葬された。スタインベックの死後、批評家のチャーリー・プアは「彼の最初の優れた作品は、最後の優れた作品でもあった。しかし、その作品はなんと優れていたことか」「彼はノーベル賞を必要としなかったが、ノーベル賞は彼を必要とした」とメッセージを送った。


米国サリナスにあるジョン・スタインベックの生家(左)         サリナスのダウンタウン(右)


2004年6月20日、サリナスの海岸へ行く。(スタインベックはスタンフォード大学でおもに海洋生物学を学んだ)






※ (トップページに戻る )









( 7月度の人物画 )

アメリカ合衆国の先住民
~~~~~~~~~~~~

★ 米国の「先住民族の人物像」を描く ★
昔は先住民のことをインディアンと呼んでいたが
最近は「ネイティブアメリカン」と呼ばれている


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

インディアン(ネイティブアメリカン)とは、
いわゆるアメリカの先住民族の事を言います。
昔々は、アメリカ大陸には1000万人以上はいたであろうとされたインディアン達が、沢山の各々の部族ごとの文化を築いて平和に暮らしていました。
そこへ、新大陸を目指していたコロンブスによってアメリカ大陸が発見され、ヨーロッパ人が移り住んできました。
その後さらに土地を奪おうと侵略してきたヨーロッパ人達に土地を奪われ、その際の戦いでインディアンの人口は5%以下に激減したそうです。
そんな、とてもとても苦しい時代を経て、アメリカ政府からリザベーション(居留地)を与えられましたが、その場所は荒野の砂漠地帯。そこでの暮らしもまた厳しいものだったと思います。

ネイティブアメリカンの人口
2010年の国勢調査では約309万人。部族ごとに見ると、多くの人口を持つ部族はナバホ、チェロキー、チョクトー、スー、チペワ、アパッチ、ラムビー、ブラックフット、イロコイ、そして、プエブロである。
ニューヨークは全米の都市の中で最も多くのインディアンが住み、2014年には、22万8000人ものインディアン(モホーク族やモヒカン族など)がニューヨークで暮らしている。都市部で暮らし、保留地外の白人の町で暮らすインディアンは、「シティー・インディアン」と呼ばれる。
2003年のアメリカ国勢調査によると、アメリカ合衆国全体のインディアンの人口2,786,652名の三分の一が、3つの州に居住している(カリフォルニア州413,382名、アリゾナ州294,137名、オクラホマ州279,559名)。

写真は、先住民の代表的肖像写真です





※ (トップページに戻る )









( 6月度の人物画 )

沖縄県ゆかりの人物
~~~~~~~~~~~~

★ 「瀬長亀次郎像」を描く ★

米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

瀬長 亀次郎=1907年(明治40年)6月10日〜2001年(平成13年)10月5日 94歳没

1907年、沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇に生まれる。医学を志し、沖縄県立二中(現、沖縄県立那覇高等学校)に入学。同中4年時に中退し、東京・順天中学(現、順天中学校・高等学校)に編入する。そして1927年(20歳)に、旧制第七高等学校(現、鹿児島大学)へ進学し、医学の道を志しながら、社会主義を勉強していく。翌1928年(21歳)に、社会主義運動に加わったことを理由に七高から放校処分を下される。

2年間の兵役を務めた後、1932年(25歳)に丹那トンネル労働争議を指導して、治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄される。各地の刑務所をたらい回しにされ、最終的に沖縄刑務所に移される。その後は「紅房」の蒔絵工、「沖縄朝日新聞」記者を経て、1938年(31歳)に召集されて砲兵として中国へ出征する。

復員後の1940年(33歳)、「毎日新聞」沖縄支局記者となる。1945年(38歳)に避難先の沖縄本島北部で沖縄戦敗戦を迎え、収容所の自治組織である田井等市の助役を務める。翌1946年(39歳)「うるま新報(現、琉球新報)」社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営する傍らで1949年(42歳)に沖縄人民党書記長となり、1950年(43歳)に、沖縄群島知事選挙に出馬するが、準備不足もあり当選者の1割にも満たない得票数で落選。しかし、1952年(45歳)の第1回立法院議員総選挙では最高得票数でトップ当選を果たす。この選挙後の同年4月1日に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否したことで占領軍から睨まれることとなる。

1954年10月(47歳)、米軍は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕。たった1人の証言を証拠として弁護士なしの裁判にかけられ、懲役2年の実刑判決を言い渡され、再び投獄された(沖縄人民党事件)。1956年4月の出獄後、同年12月に行われた那覇市長選に出馬する。ヘリコプターから瀬長を冒涜するビラ(当館に写真あり)がまかれるなど選挙妨害を受けるも、まったく保護されないという無法選挙を戦うことを余儀なくされたものの、大方の予想を覆し当選を果たす。だが占領軍出資の琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置に遭い、市政運営の危機に見舞われる。しかし、市民は自主的な納税によって瀬長を助けようとし、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し、当選後は86%にものぼり、最高で97%にもなった。そのおかげで自主財源での市政運営ができるようになり危機を脱する。これに対し、占領軍と沖縄自民党は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。しびれを切らした占領軍は1957年(50歳)、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定し(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)、1954年の投獄を理由に、瀬長を市長の座から追放し被選挙権を剥奪した。市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米軍との攻防は、瀬長に対する沖縄県民の絶大な支持を呼んだ。

1967年12月(60歳)に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌1968年(61歳)の第8回立法院議員選挙で立法院における議席を回復した。1970年(63歳)に、72年の沖縄返還に先立って行われた戦後沖縄初の国政参加選挙で衆議院議員に2位当選を果たす。以降7期連続当選を果たした。日本共産党に所属し、共産党副委員長などを歴任。当時の佐藤首相に対して、復帰後も沖縄の人々の土地である基地が返還されないことを厳しく批判するなど沖縄民衆のために闘い続けた。1990年(83歳)、衆議院議員を辞し、政治活動を引退する。2001年10月5日、肺炎により死去。享年94。

ジュリオ=キュリー賞、那覇市政功労賞、県自治功労賞、沖縄タイムス賞(自治賞)を受賞。那覇名誉市民、豊見城名誉村民。  1998年には、映画「カメジロー 沖縄の青春」(監督、橘祐典。主演、津嘉山正種)が制作された。また、2017年には、TBSのドキュメンタリー映画として、「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」(監督、佐古忠彦)、2019年には続編として、「米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈生涯」(監督、佐古忠彦)が制作された。

2013年3月、瀬長亀次郎の生涯と戦前戦後沖縄の苦難の歴史、共に闘った民衆の歴史を後世に伝えることを目的として、「不屈館=瀬長亀次郎と民衆資料」が那覇市に開館。施設名は占領軍の弾圧を受けながらも闘い続けた瀬長が、生前好んで揮毫した“不屈”にちなむ。なお、瀬長はこの“不屈”という言葉について、沖縄の民衆が不屈であったのだと述べている。

写真は、不屈館=瀬長亀次郎と民衆資料







★ 「大田昌秀像」を描く ★

平和を貫いた生涯


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

大田昌秀氏は、1925年(大正14)久米島具志川村(現久米島町具志川)に生まれました。1945年(昭和20)、沖縄師範学校在学中に鉄血勤皇師範隊として学徒動員され、捕虜となり終戦を迎えます。戦後は、早稲田大学を卒業後、米国シラキュース大学大学院へ留学してジャーナリズムを専攻したのち、琉球大学社会学部教授を務めました。

1990年(平成2)11月の沖縄県知事選挙で政界に転出し、1998年(平成10)まで2期8年を務めました。任期中に、糸満市摩文仁「平和の礎」の建立、沖縄県立平和祈念資料館の移転新築、沖縄県公文書館の設置等を実現しました。また、戦争マラリア犠牲者の補償や厚生年金の格差是正など戦後処理問題の解決にも尽力しました。基地問題にも粘り強く取り組み、米軍用地の強制使用手続きに関する代理署名訴訟では最高裁で沖縄県は敗訴したものの沖縄の基地問題が全国に注目されるきっかけとなりました。さらに、沖縄の自立発展を目指した「国際都市形成構想」の策定や、米軍基地を段階的に全面返還させるとした「基地返還アクションプログラム」を国に提示するなど、精力的に国への働きかけを行いました。

知事退任後の1999年(平成11)に大田平和総合研究所(のちの沖縄国際平和研究所)を設立し、以後、平和研究に注力しました。その間、2001年(平成13)には、参議院議員に当選し1期6年を務めました。2017年(平成29)6月に死去し、同年7月26日には県民葬が執り行われました。

写真は、大田昌秀が創設した「平和の礎」





※ (トップページに戻る )









inserted by FC2 system