吉川和夫の月例美術展

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( 12月度の人物画 )

佐賀県ゆかりの人物
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★ 「大隈重信像」を描く ★
早稲田大学の創設者

( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日〈1838年3月11日〉- 大正11年〈1922年〉1月10日)は、日本の政治家・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。
参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社大学社友。
通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。
早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学を創設。立教大学の発展にも携わった。

写真は、早稲田大学の大隈講堂







★ 「辰野金吾像」を描く ★
日本の近代建築の父


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年〈大正8年〉3月25日) は、日本の建築家、工学博士[1]。位階勲等は従三位勲三等。工部大学校(現・東京大学工学部)卒業。帝国大学工科大学学長、建築学会会長。
設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた。帝国大学では後進の指導にも励み、伊東忠太、長野宇平治、矢橋賢吉、武田五一、中條精一郎、塚本靖、野口孫市、大沢三之助、関野貞、岡田時太郎らの人材を輩出した。帝国大学総長渡辺洪基 の意向を受け、工手学校(現・工学院大学) の創立(1887年(明治20年))を推進し、運営にも尽力した。また、大隈重信の要請を受け、早稲田大学建築学科創設(1912年(明治45年)創設顧問に就任)にも尽力した。
東大仏文科で小林秀雄、三好達治らを育てた仏文学者の辰野隆は息子であり、薬学者の辰野高司は孫である。

東京駅や日本銀行本店など、日本を代表する名建築を手掛けたことで知られる辰野金吾。2019年に没後100年を迎えたこともあり、改めてその作品に注目が集まっています。 彼が活躍した時代、すなわち明治~大正時代といえば、日本が急速に西洋化していった頃。辰野金吾が設計した近代的な建築は、新時代を象徴する、人々の希望そのものでした。

写真は、東京駅の駅舎







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( 11月度の人物画 )

福岡県ゆかりの人物
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★ 明治期の画家「青木繁像」を描く ★

( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

青木 繁(あおき しげる、1882年〈明治15年〉7月13日 - 1911年〈明治44年〉3月25日)は日本の洋画家。号は香葩。

明治期の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家であり、代表作『海の幸』はその記念碑的作品と評されている。若くして日本美術史上に残る作品を次々と生み出したが、名声を得ることなく放浪の末に胸を患い、28歳で早世した。その生涯については虚実取り混ぜたエピソードが多く、半ば伝説化している。短命だったこともあって残された作品の数は多くはなく、代表作『海の幸』を含め、未完成の作品が多い。

写真は、青木繁作「海の幸」(アーティゾン美術館蔵)


青木繁は、美術と文学が交感しあいロマン主義が勃興した時代を代表する画家です。28歳で夭折する生涯は、この時代の先端を駆け抜けたものといえるでしょう。
1904(明治37)年7月半ば、東京美術学校西洋画科を卒業したばかりの22歳の青木は、友人の画家坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと、千葉県館山の布良海岸へ写生旅行に出かけました。この太平洋の黒潮に向きあう漁村に約1カ月半滞在し、その間に制作された代表作がこの《海の幸》です。
後年、坂本は、自分が目にした大漁陸揚げの様子を宿に帰って青木に話したところ、翌日からこの作品の制作に取り掛かった、と証言しています。坂本は実際の漁港の情景とはまったく異なるものだと語っていますが、目撃談だけからこうしたイメージを思い浮かべてしまうところに、青木の想像力と創造力のきらめきがよく表れています。

図柄は、10人の裸体の男が3尾の鮫を担いで、二列縦隊で砂浜を右から左へと行進する様子です。中ほどの人物を見ると、正面から強い光を浴びているのがわかります。青木は布良の地勢や地誌、風俗を体全体で受け留め、それを荒々しい筆づかいと、若々しさ溢れる題材で再創造しました。
こうしたイメージを生み出したきっかけについては、青木自身が何も語っていないことから、パルテノン神殿のフリーズ彫刻、イギリスのラファエル前派、当時の雑誌などに載った医薬品の広告、布良の神社の祭礼など、多くの研究者が様々な可能性を指摘しています。






★ 婦人解放運動家「伊藤野枝像」を描く ★

( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

伊藤 野枝(いとう のえ、1895年(明治28年)1月21日 - 1923年(大正12年)9月16日)は、日本の婦人解放運動家、無政府主義者、作家、翻訳家、編集者。戸籍名は伊藤ノヱ。

雑誌『青鞜』で活躍するも、のち受け継いだ編集を放棄してこれを休刊。不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫である辻潤を捨てて大杉栄の妻、愛人と四角関係を演じた。

世評にわがまま、奔放と言われた反面、現代的自我の精神を50年以上先取りして、人工妊娠中絶(堕胎)、売買春(廃娼)、貞操など今日でも問題となっている課題を題材とし、多くの評論、小説や翻訳を発表した。しかし、1923年9月16日に起きた甘粕事件で甘粕正彦憲兵大尉らにより大杉らとともに殺害された。

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没後100年 いま伊藤野枝を考える
『伊藤野枝フェスティバル』


伊藤野枝は、日清戦争の講和条約が結ばれた1895年(明治28年)、旧糸島郡今宿村、いまの福岡市西区今宿に生まれた。

ずばぬけた行動力と文才の持ち主で、17歳のとき、「元始、女性は実に太陽であった」の一節で有名な雑誌『青鞜』に参画。のちに2代目編集長を務めた。 婚姻制度や中絶など現代にも通じる問題を鋭く切り、当時の社会に論争を巻き起こした人物だが、初代編集長の平塚らいてうほど、世に知られていないのではないだろうか。

しかし、没後100年のことし、地元・福岡では、伊藤野枝の足跡を見つめ直す動きが広がっている。

福岡市総合図書館では、10月15日まで彼女の書簡や作品を紹介する企画展が催されているほか、命日の9月16日にあわせて、出身地である福岡市西区では、地元の市民らが主催して『伊藤野枝フェスティバル』と銘打った催しが2日間にわたって開催された。






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( 10月度の人物画 )

高知県ゆかりの人物
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★ 「ジョン万次郎像」を描く ★

( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

ジョン万次郎(ジョン まんじろう、旧字体:ジョン萬次郎、英語:John Manjirō、1827年1月27日〈文政10年1月1日〉 - 1898年〈明治31年〉11月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての日本の旗本・翻訳家・教育家である。アメリカ合衆国を訪れた最初の日本人の一人であり[1]、日米和親条約の締結に尽力した。通訳・教授などでも活躍した。





★ 幕末の志士「坂本龍馬像」を描く ★

( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉)は、日本の幕末の土佐藩士、志士、経営者。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬。





~ 三菱財閥の創始者 ~
★ 「岩崎弥太郎像」を描く ★

( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

岩崎弥太郎(いわさき やたろう、旧字体: 岩﨑 彌太郞、天保5年12月11日〈1835年1月9日〉- 明治18年〈1885年〉2月7日は、日本の実業家。三菱財閥(現:三菱グループ)の創設者。
父は地下浪人。高知藩に職を得、開成館長崎出張所に勤務し貿易に従事、明治2(1869)年には同藩大阪商会に転じた。廃藩置県に際し藩の事業を引き継ぎ、九十九商会をおこし、後に社名を三菱商会、郵便汽船三菱会社へと改称した。台湾出兵の軍事輸送、西南戦争の軍事輸送を担当。さらに、鉱山・造船・金融・貿易など多方面への進出も試みた。新汽船会社共同運輸が設立されると激しい競争が続いたが、弥太郎は競争渦中の18年に病死し、その事業は弟弥之助、長男久弥に継承された。







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( 9月度の人物画 )

愛媛県ゆかりの人物
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★ 俳人・歌人「正岡子規像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

正岡 子規(正岡 常規)(まさおか しき、〈まさおか つねのり〉、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉- 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人である。



★ ノーベル文学賞受賞者「大江健三郎像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年〈昭和10年〉1月31日 - 2023年〈令和5年〉3月3日)は、日本の小説家。昭和中期から平成後期にかけて現代文学に位置する作品を発表した。愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)出身。

東京大学文学部仏文科卒。学生作家としてデビューして、大学在学中の1958年、短編「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。新進作家として脚光を浴びた。

新しい文学の旗手として、豊かな想像力と独特の文体で、現代に深く根ざした作品を次々と発表していく。1967年、代表作とされた『万延元年のフットボール』により歴代最年少で谷崎潤一郎賞を受賞した。

1973年に『洪水はわが魂に及び』により野間文芸賞、1983年に『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』により読売文学賞(小説賞)など多数の文学賞を受賞。1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。

核兵器や天皇制などの社会的・政治的な問題、知的な障害をもつ長男(作曲家の大江光)との共生、故郷の四国の森の谷間の村の歴史や伝承、などの主題を重ね合わせた作品世界を作り上げた。

上記以外の主な作品に『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』『同時代ゲーム』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』『燃えあがる緑の木』『取り替え子(チェンジリング)』『水死』などがある。

戦後民主主義の支持者を自認し、国内外における社会的な問題への発言を積極的に行っていた。






( 8月度の人物画 )

香川県ゆかりの人物
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★ 真言宗の開祖「弘法大師・空海像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。諡号は弘法大師(こうぼうだいし)。真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお。 日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭(へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。 仏教において、北伝仏教の大潮流である大乗仏教の中で、ヒンドゥー教の影響も取り込む形で誕生・発展した密教がシルクロードを経て中国に伝わった後、中国で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを、体系立てた形で日本に伝来させた人物でもある。




★ 江戸時代の天才奇才「平賀源内像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日))は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。






( 7月度の人物画 )

徳島県ゆかりの人物
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★ 小説家・尼僧の「瀬戸内寂聴像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう、1922年〈大正11年〉5月15日 - 2021年〈令和3年〉11月9日)は、日本の小説家、天台宗の尼僧。俗名:晴美(はるみ)。僧位は権大僧正。1997年文化功労者、2006年文化勲章。天台寺名誉住職、徳島市名誉市民、京都市名誉市民、二戸市名誉市民、位階は従三位。天台寺住職、比叡山延暦寺禅光坊住職、敦賀女子短期大学学長を務めた。

作家としての代表作は、『夏の終り』『花に問え』『場所』など多数。1988年以降は『源氏物語』に関連する著作が多く、新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞した。

大正・昭和・平成・令和と4つの時代を生きた作家である。



江戸時代中期の浮世絵師
~ 東洲斎写楽が描いた「役者絵」を描く ~

★ 三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛像 ★

(寛政6年〈1794年〉5月河原崎座上演の『恋女房染分手綱』より)

( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、とうじゅうさい -、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。活動当時の旧漢字表記は東洲齋寫樂。
約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と姿を消した謎の絵師として知られる。その出自や経歴については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、宝暦13年(1763年) - 文政3年(1820年))とする説が有力となっている。




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山口県ゆかりの人物
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  ★ 初代内閣総理大臣の「伊藤博文像」を描く ★



伊藤 博文(いとう ひろぶみ、旧字体: 伊藤󠄁 博󠄁文󠄁、天保12年9月2日〈1841年10月16日〉- 明治42年〈1909年〉10月26日)は、明治時代の日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。







★ 詩人の「中原中也像」を描く ★



中原 中也(なかはら ちゅうや、1907年〈明治40年〉4月29日 - 1937年〈昭和12年〉10月22日)は、日本の詩人・歌人・翻訳家。旧姓は柏村(かしむら)。 代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待されていた。小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟が風邪により病死したことで文学に目覚めた。中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。







広島県ゆかりの人物
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★ 小説家の「松本清張像」を描く ★



松本 清張(まつもと せいちょう、1909年12月21日 [注釈 1]- 1992年8月4日)は、日本の小説家。 1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす[2]。以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり、第二次世界大戦後の日本を代表する作家となる。






★ 画家の「丸木位里像」を描く ★



丸木 位里(まるき いり、1901年6月20日 - 1995年10月19日)は、日本画家。妻・丸木俊との共同制作「原爆の図」や「沖縄戦の図」で知られる。







岡山県ゆかりの人物
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★ 浄土宗の開祖「法然上人像」を描く ★



法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。







★ 画聖の「雪舟像」を描く ★



雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年) - 永正3年(1506年)8月8日(諸説あり)は、日本の室町時代に活躍した水墨画家・禅僧(画僧)。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。 備中国(現在の岡山県総社市)に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護を受け周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。 現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。






島根県ゆかりの人物
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★ 明治・大正期の小説家「森鴎外像」を描く ★



森 鷗外(もり おうがい、1862年2月17日[1][注釈 1]〈文久2年1月19日[2]〉 - 1922年〈大正11年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名:森 林太郎(もり りんたろう)。
石見国津和野(現:島根県鹿足郡津和野町)出身。東京大学医学部[注釈 2]卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。






★ 世界的ファッションデザイナーの「森英恵像」を描く ★


森 英恵(森 英惠、もり はなえ、1926年1月8日 - 2022年8月11日)は、日本のファッションデザイナーであり、日本人で唯一のパリのオートクチュールデザイナー。地域経済総合研究所評議員。森英恵ファッション文化財団理事長。位階は従三位。1996年、文化勲章、2002年、レジオンドヌール勲章オフィシエ章を受章。
1965年にニューヨーク・コレクションで成功をおさめ、日本人デザイナーの海外進出の先駆けとなった[2]。1977年には東洋人として初めてパリ・オートクチュール協会(サンディカ)のメンバーとなる。バルセロナおよびリレハンメルオリンピックの日本選手団の公式ユニフォームのデザインや、歌舞伎[3]、海外のオペラやバレエの舞台衣裳を担当するなど、ファッション界の第一人者として活躍した[2]。2004年7月のパリ・2004 A/Wオートクチュール・コレクションで引退。






★ 新劇運動の先駆者「島村抱月像」を描く ★



島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1918年〈大正7年〉11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として知られる。旧姓は佐々山、本名は瀧太郎。






鳥取県ゆかりの人物
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漫画家、水木しげる像を描く


水木 しげる(みずき しげる 、本名:武良 茂(むら しげる)、1922年〈大正11年〉3月8日 - 2015年〈平成27年〉11月30日[1])は、日本の漫画家、妖怪研究家、紙芝居作家。
大阪府大阪市住吉区出生、鳥取県境港市入船町育ち。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市の水木通り沿いで経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1958年に漫画家デビュー。代表作となる『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。






小説家、遠藤周作像を描く


遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)は、日本の小説家。 12歳の時カトリック教会で受洗。評論から小説に転じ、「第三の新人」に数えられた。その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員。文化功労者。文化勲章受章。





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和歌山県ゆかりの人物
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江戸時代末期の医者、華岡青洲像を描く


華岡 青洲(はなおか せいしゅう、宝暦10年10月23日(1760年11月30日) - 天保6年10月2日(1835年11月21日))は、江戸時代の外科医。諱は震ふるう。字は伯行。 記録に残るものとして、世界で初めて全身麻酔を用いた乳癌手術を成功させた[1][2]。欧米で初めて全身麻酔が行われたのは、青洲の手術の成功から約40年後となる。






詩人・小説家、佐藤春夫像を描く


佐藤 春夫(さとう はるお、1892年(明治25年)4月9日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は、近代日本の詩人・小説家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和まで旺盛に活動した。筆名を潮鳴、沙塔子、雅号を能火野人と称した。初代新宮市名誉市民。 生家は医家。中学時代から文学好きで、文芸誌「スバル」に詩歌を投稿した。永井荷風を慕って慶大に入学。生田長江に師事。与謝野鉄幹・晶子の東京新詩社に入った。






奈良県ゆかりの人物
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記紀伝承の、神武天皇像を描く


神武天皇(じんむてんのう)は初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)とされる『古事記』・『日本書紀』(記紀)上の人物である。 天照大御神の五世孫であり、高御産巣日神の五世の外孫と『古事記』『日本書紀』に記述されている。奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服(神武東征)。遷都した畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)にて即位して日本国を建国したと言われる人物。






仏教興隆に力を尽くした聖徳太子像を描く



聖徳太子(しょうとくたいし)は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。 「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。また、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)など本名は厩戸と言われることも多いが、あくまでも第二次世界大戦後に推定された名が広まったものであり、古代の文献には見られない。






兵庫県ゆかりの人物
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平安末期の武将、平清盛像を描く


平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の日本の武将、公卿、棟梁。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、病没した。






占領GHQと渡り合った白洲次郎像を描く


白洲 次郎(しらす じろう、1902年(明治35年)2月17日 - 1985年(昭和60年)11月28日)は、日本の実業家。元貿易庁長官。兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市)出身。 連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。






大阪府ゆかりの人物
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思想家・教育者、福沢諭吉像を描く


福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、旧字体: 福󠄁澤 諭󠄀吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年〉2月3日)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家。慶應義塾の創設者。






安土桃山時代の茶人、千利休像を描く


千利休(せんのりきゅう、せんりきゅう、永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。 わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。また、末吉孫左衛門の親族である平野勘平衛利方と親しく交流があった。子孫は茶道の三千家として続いている。






京都府ゆかりの人物
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浄土真宗の開祖、親鸞像を描く


親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 [注釈 6])は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。親鸞聖人と称され、浄土真宗の宗祖とされる。 法然を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。






室町中期の臨済宗の僧、一休和尚像を描く
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。 1394-1481 室町時代の僧。 明徳5年1月1日生まれ。臨済(りんざい)宗。後小松天皇の皇子。6歳で山城(京都府)安国寺にはいり,27歳のとき華叟宗曇(かそう-そうどん)から印可をうける。各地の庵を転々とし,当時の世俗化,形式化した禅に反抗して,奇行,風狂の中に生きる。文明6年勅命によって大徳寺住持となり,入寺しなかったが,大徳寺の復興につくした。詩,書画にすぐれ,後世つくられたとんち話で知られる。文明13年11月21日死去。88歳。号は狂雲子,夢閨(むけい),瞎驢(かつろ)など。著作に「自戒集」「狂雲集」「一休骸骨」など。






滋賀県ゆかりの人物
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平安初期の僧・天台宗の開祖、最澄像を描く


最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉もしくは767年〈神護景雲元年〉 - 822年〈弘仁13年〉)は、平安時代初期の日本の仏教僧。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師(でんぎょうだいし)として広く知られる。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺(現:大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた。






飛鳥時代の天皇、天智天皇像を描く


天智天皇(てんちてんのう / てんじてんのう、626年〈推古天皇34年〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)は、日本の第38代天皇(在位:668年2月20日〈天智天皇7年1月3日〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)。 諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。一般に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。 また、661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。中臣鎌足と共に大化の改新を行った事で知られる。






三重県ゆかりの人物
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江戸前期の俳諧師、松尾芭蕉像を描く


松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(正保元年)(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)は、江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。俳号としては初め宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。
芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。但し芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。






俳優・コメディアン・歌手、植木等像を描く


植木 等(うえき ひとし、本名同じ、1927年〈昭和2年〉2月25日 - 2007年〈平成19年〉3月27日)は、日本の俳優、コメディアン、歌手、ギタリスト、タレント。「ハナ肇とクレージーキャッツ」のメンバー。仲間内での愛称は「ボンさん」「植木屋」「植木やん」。 長男は作曲家の比呂公一。妹の夫に部落問題研究者の川村善二郎。御木本幸吉は、父方の祖母の親類にあたる。








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愛知県ゆかりの人物
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戦国安土時代の武将、織田信長像を描く


安土桃山時代の武将、豊臣秀吉像を描く


徳川初代将軍、徳川家康像を描く





静岡県ゆかりの人物
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教育者/医師、吉岡弥生像を描く


吉岡 彌生(よしおか やよい、1871年4月29日〈明治4年3月10日〉 - 1959年〈昭和34年〉5月22日)は、日本の教育者、医師。位階は正五位。勲等は勲二等。東京女医学校・東京女子医学専門学校・東京女子医科大学創立者。東京女医学校校長、東京女子医科大学学頭、至誠会会長などを歴任した。旧姓は鷲山(わしやま)。俗に吉岡 弥生(よしおか やよい)とも表記される。






幕末明治の侠客・博徒、清水次郎長像を描く


清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日〈1820年2月14日〉- 明治26年〈1893年〉6月12日)は、幕末・明治の侠客、博徒、実業家。本名は山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。米問屋山本次郎八の養子。

養家が没落したことで博徒になり、やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、広沢虎造の浪曲(ラジオ放送、レコード)、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。

戊辰戦争の際に修理で立ち寄った清水港に逆賊船としてそのまま放置されていた咸臨丸(榎本武揚の率いる旧幕府艦隊の旗艦)の中から、新政府軍に殺された乗組員の遺体を小舟を出して収容し丁重に葬ったことから、次郎長のこの義侠心に深く感動した幕臣の山岡鉄舟と知り合い、旧幕臣救済のため、維新後は富士の裾野の開墾に乗り出し、社会事業家としても活躍した。






岐阜県ゆかりの人物
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ユダヤ人を救った杉原千畝像を描く


杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年〈明治33年〉1月1日 - 1986年〈昭和61年〉7月31日)は、日本の領事館員のち外交官(1943年)。 中学校入学までは税務官吏である父親の異動のために各地を転々とし、父親の単身赴任後は名古屋に住んで、旧名古屋古渡尋常小学校と旧第五中学校に通い、卒業後に上京して早稲田大学高等師範部英語科(現・教育学部英語英文学科)に通ったが、外務省留学生試験合格のために本科中退した。第二次世界大戦である1939年からリトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月29日にかけて、大量のビザ(通過査証)を発給し、避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くがユダヤ人系であった。閉鎖後は、チェコのプラハへ移動し、1941年から終戦までルーマニアのブカレスト公使館で勤務した。大戦終結時の1945年からブカレスト郊外の捕虜収容所に入れられ、1947年4月に日本へ帰国した。 『勲五等瑞宝章』1944年それまでの功績により叙勲。「東洋のシンドラー」などとも呼ばれる。






詩人・小説家、島崎藤村像を描く


島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日) - 1943年(昭和18年)8月22日)は、日本における詩人又は小説家である。本名は 島崎春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。 『文学界』に参界し、ロマン主義に際した詩人として『若菜集』などを出版する。さらに、主な活動事項を小説に転じたのち、『破戒』や『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父である島崎正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などが存在する。




長野県ゆかりの人物
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江戸時代後期の俳人、小林一茶像を描く


小林 一茶(こばやし いっさ、宝暦13年5月5日(1763年6月15日) - 文政10年11月19日(1828年1月5日))は、日本の俳人。本名は小林弥太郎、一茶とは俳号である。 信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。






新劇女優・歌手、松井須摩子像を描く


松井 須磨子(まつい すまこ、1886年〈明治19年〉3月8日(戸籍上:11月1日)[1] - 1919年〈大正8年〉1月5日)は、日本の新劇女優、歌手。本名:小林 正子(こばやし まさこ)。 二度の離婚、美容整形とその後遺症に苦しめられながらの名演、島村抱月とのスキャンダル、日本初の歌う女優としてのヒット曲と発禁騒動、そして抱月死後の後追い自殺と、その波乱の短い生涯は多くの小説や映画、テレビドラマとなっている。





山梨県ゆかりの人物
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翻訳家、児童文学者、村岡花子像を描く


村岡 花子(むらおか はなこ、1893年〈明治26年〉6月21日 - 1968年〈昭和43年〉10月25日)は、日本の翻訳家・児童文学者。 児童文学の翻訳で知られ、モンゴメリの著作の多くと、エレナ・ポーター、オルコットなどの翻訳を手がけた。基督教文筆家協会(現・日本クリスチャン・ペンクラブ)初代会長(在任、1952年〈昭和27年〉6月 - 1958年〈昭和33年〉10月)。






ノーベル生理学・医学賞、大村智像を描く


大村 智(おおむら さとし、1935年(昭和10年)7月12日] - )は、日本の化学者(天然物化学)。北里大学特別栄誉教授、東京理科大学特別栄誉博士、薬学博士(東京大学)、理学博士(東京理科大学)。2015年ノーベル生理学・医学賞受賞。
土壌に生息する微生物がつくる化学物質の中から役に立つものを探し出す研究を45年以上行い、微生物の大規模な培養や有機化合物の特性評価を行う独自の方法を確立した。これまでに大村の研究グループは微生物が作る500近い新しい化合物を発見し、そのうち20種以上が医薬、動物薬、農薬、研究用の試薬として実用化されている。





福井県ゆかりの人物
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越前国三国の出身、継体天皇像を描く


継体天皇(けいたいてんのう)。450〜531ごろ。5〜6世紀の天皇(在位507〜531)。 応神天皇5世の孫。武烈天皇の没後越前(福井県)から大伴金村らに擁立されて即位。在位中に大伴金村が任那 (みまな) 4県を百済 (くだら) に割譲した事件や筑紫国造磐井の乱があった。 継体天皇が現在の皇室までつながる天皇系統の始まりとする説が有力である。






江戸前期の人形浄瑠璃・歌舞伎の作者、
近松門左衛門像を描く




近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん、承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉)は、江戸時代の人形浄瑠璃および歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号す。家紋は「丸に一文字」





石川県ゆかりの人物
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詩人・小説家、室生犀星像を描く


室生 犀星(むろう さいせい、1889年〈明治22年〉8月1日 - 1962年〈昭和37年〉3月26日)は、日本の詩人・小説家。石川県金沢市出身。本名は室生 照道(むろう てるみち)。別号に「魚眠洞」、「魚生」、「殘花」、「照文」。別筆名は「秋本 健之」。 生後すぐ養子に出され、室生姓を名乗った。養母は養育料で享楽しようとするような女で、犀星は生母の消息をついに知ることなく、貰い子たちと共同生活を送る。 養母により高等小学校を中途で退学させられ、金沢地方裁判所に給仕として勤めさせられるが、この頃より文学に関心を抱いて、やがて上京する。






米欧亜大陸横断飛行士、東善作像を描く


明治26年(1893)9月25日、東長松・八重夫妻の二男として、羽咋郡南大海村字中沼(現かほく市中沼町)に生まれる。幼少の頃、母親の実家の一ノ宮村へ移住。その後、伯父が住職を務める西教寺(現羽咋市一ノ宮町)に預けられ、一ノ宮尋常小学校から羽咋高等小学校を卒業した。 卒業後一ノ宮村役場給仕となるが、翌年事業家を夢みて朝鮮へ渡る。しかし、学問の必要性を感じて帰国。京都中学編入の後、岡山県の関西中へ転校し、人力車夫をしながら苦学して卒業する。 新聞記者となり、アート・スミスの曲芸飛行を取材したことがきっかけで飛行家を志し、大正5年(1916)に渡米。労働で高額な学費を稼ぎながら、アメリカの飛行学校を卒業する。 大正12年(1923)の関東大震災に際しては、ロサンゼルス市上空からビラをまいて、 日本救援を呼びかけた。 昭和5年(1930)、日本人初のアメリカ・ヨーロッパ・アジアの三大陸横断飛行に自費で挑戦、無事に立川飛行場に降り立った。 昭和30年(1955)、ウラン鉱として有名な人形峠(岡山・鳥取の県境)を発見。同32年(1957)に会社を設立したが、 昭和42年(1967)、74歳で没した。





富山県ゆかりの人物
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化学者・実業家、高峰譲吉像を描く


高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日[1](1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)は、日本の化学者、実業家。工学博士及び薬学博士。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した[2]。日本人による開発型ベンチャー企業・スタートアップの先駆者とされる。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。 現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒。






小説家・評論家、堀田善衛像を描く


堀田 善衛(ほった よしえ、1918年(大正7年)7月17日[1] - 1998年(平成10年)9月5日)は、日本の小説家、評論家。中国国民党宣伝部に徴用された経験をもとにした作品で作家デビューし、1951年に芥川賞受賞[2]。 慶大仏文科卒。上海で敗戦を迎えた体験から『広場の孤独』(1951年)を発表し、芥川賞受賞。スペイン内戦から民族問題を考える国際的視野をもつ作家。代表作『方丈記私記』(1971年)のほか、『海鳴りの底から』(1960~61年)など。





新潟県ゆかりの人物
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江戸時代末期の武士、河井継之介像を描く


河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」とするが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としている。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが」。 戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られる。






詩人・英文学者、西脇順三郎像を描く


西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年(明治27年)1月20日 - 1982年(昭和57年)6月5日)は、日本の詩人(近代詩)、英文学者、文学博士。第二次世界大戦前のモダニズム、ダダイスム、シュルレアリスム運動の中心人物。また、生涯に多くの水彩画並びに油彩等の絵画作品を残した。出生地である新潟県小千谷市の名誉市民。生前、ノーベル文学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している[1][2]。 1922年、渡英して西欧の超現実主義的感覚を身につけた。帰国後、日本の超現実主義運動に参加して、詩集『Ambarvalia』(1933年)を刊行。ほかに『旅人かへらず』(1947年)、『近代の寓話』(1953年)など。










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神奈川県ゆかりの人物
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サムライとなった英国人航海士
三浦按針(ウイリアム・アダムス)像を描く


ウィリアム・アダムス(William Adams、1564年9月24日 - 1620年5月16日〈元和6年4月24日〉)は、サムライの称号を得た最初の外国人だった。江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人の航海士、水先案内人、貿易家。日本名は三浦 按針(みうら あんじん)。






歌手・女優・実業家、美空ひばり像を描く


美空 ひばり(みそら ひばり、1937年〈昭和12年〉5月29日 - 1989年〈平成元年〉6月24日)は、日本の歌手・女優・実業家。神奈川県横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園女子中学校・高等学校(現・東海大学付属市原望洋高等学校)卒業。 9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に歌謡界の女王と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手であり[2]、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。本名:加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は「お嬢(おじょう)」。






東京都ゆかりの人物
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孤高の絵師、葛飾北斎像を描く


葛飾 北斎(かつしか ほくさい、葛飾 北齋、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)は、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。






日本画家、堀文子像を描く


堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2月5日)は、日本画家。東京市麹町区平河町(現・東京都千代田区麹町)生まれ。





千葉県ゆかりの人物
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天文学者・地理学者・測量家
江戸時代の商人、伊能忠敬像を描く



伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日〈1745年2月11日〉- 文化15年4月13日〈1818年5月17日〉)は、江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家。通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。 寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量し、『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。 1883年(明治16年)、贈正四位。






200余村百姓一揆の指導者
江戸時代前期の佐倉惣五郎像を描く


佐倉 惣五郎(さくら そうごろう、生年不詳 – 承応2年8月3日(1653年9月24日)?)は、江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物。下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎(きうち そうごろう)。 領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。代表的な義民として名高いが、史実として確認できることは少ない。惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。





埼玉県ゆかりの人物
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近代日本経済の父、渋沢栄一像を描く


渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体: 澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の実業家[2]。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。 江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり、明治政府では官僚も務めた。民部省を経て直属の上司である大蔵大輔と井上馨の下で大蔵少輔、吉田清成らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。 井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社にもおよび、「日本資本主義の父」と称される。






日本初の女医第1号、荻野吟子像を描く


荻野 吟子(おぎの ぎんこ〈戸籍上の本名:荻野ぎん〉、1851年4月4日〈嘉永4年3月3日〉 - 1913年〈大正2年〉6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である。女性運動家としても知られる。 なお、日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年 - 1893年)ほか何人かの女性医師が開業していた。西洋医学を学んだ女性医師としてはシーボルトの娘・楠本イネ(1827年 - 1903年)がいる。





群馬県ゆかりの人物
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同志社の創立者、新島襄像を描く


新島 襄(にいじま じょう 英字表記:Joseph Hardy Neesima、1843年2月12日(天保14年1月14日) - 1890年(明治23年)1月23日)は、キリスト教徒の教育者である。 江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けてフィリップス・アカデミー(高校)、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。






江戸時代後期の侠客、国定忠治像を描く


国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名:長岡忠次郎。 後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談・浪曲や映画、新国劇、大衆演劇などの演劇の題材となった。特に新国劇の『國定忠治』は劇団の財産ともなり、劇団解散まで繰り返し上演された。赤城天神山の場での台詞「赤城の山も今夜を限り」は歌舞伎の決め台詞ばりに普及した。 群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と群馬県伊勢崎市曲輪町の善應寺に墓がある。





栃木県ゆかりの人物
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幕末明治の村名主・政治家、田中正造像を描く


田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)は、日本の幕末から明治時代にかけての村名主、政治家。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件の重鎮であり、明治天皇に直訴しようとしたことで有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名は兼三郎。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。足尾銅山鉱毒事件の被害者でもあり、救済を政府に訴えた。






不遇の天才画家、田中一村像を描く


田中 一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家である。栃木県栃木にて木彫家の父田中稲邨の長男として生まれ、東京市で育った、本名は田中孝。中央画壇とは一線を画し、1958年(昭和33年)千葉市での活動の後、50歳で奄美大島に単身移住。奄美の自然を愛し、亜熱帯の植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描き、独特の世界を作り上げた。





茨城県ゆかりの人物
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近代日本画の巨匠、横山大観像を描く



横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年〈慶応4年 / 明治元年〉- 1958年〈昭和33年〉2月26日)は、日本の美術家、日本画家。本名は横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。旧姓は酒井(さかい)。幼名は秀松(ひでまつ)。(生年月日については記録により小異がある。詳細は後述。) 常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。






元大相撲力士・横綱、男女ノ川登三像を描く


男女ノ川 登三(みなのがわ とうぞう、1903年9月17日 - 1971年1月20日)は、茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市磯部)出身の元大相撲力士。本名は坂田 供次郎(さかた ともじろう(きょうじろう))。









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福島県ゆかりの人物
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医師・細菌学者、野口英世像を描く


野口 英世(のぐち ひでよ、1876年(明治9年)11月9日 - 1928年(昭和3年)5月21日)は、日本の医師、細菌学者。栄典は、正五位・勲二等旭日重光章。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。キリスト教信者。 福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町) 出身。高等小学校を卒業して上京し、済生学舎(日本医科大学の前身)に通い、医術開業試験に合格して医師となった。渡米してペンシルベニア大学医学部の助手を経て、ロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補に三度名前が挙がった。南米ワイル病のワクチン作成、梅毒スピロヘータの脳内組織における発見、オロヤ熱病原体の発見、熱帯リーシュマニア症の研究などの業績をあげたが、トラコーマ、狂犬病、黄熱病病原体の発見に関しては後に否定された。黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。






画家・紙絵作家、高村智恵子像を描く


高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年(明治19年)5月20日 - 1938年(昭和13年)10月5日、旧姓:長沼)は、日本の洋画家、紙絵作家。夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。夫の光太郎が彼女の死後に出版した詩集『智恵子抄』でも知られる。





山形県ゆかりの人物
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小説家・劇作家・放送作家、
井上ひさし像を描く


井上 ひさし(いのうえ ひさし、本名:井上 廈(読み同じ)、1934年〈昭和9年〉11月17日 - 2010年〈平成22年〉4月9日)は、日本の小説家、劇作家、放送作家である。文化功労者、日本芸術院会員。 1961年から1986年までの本名は内山 廈(うちやま ひさし)。遅筆堂(ちひつどう)を名乗ることもあった。 日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した。晩年は自身の蔵書を収蔵した遅筆堂文庫を造り、運営した。 先妻は西舘代志子。後妻のユリは元衆議院議員米原昶の娘。長女は元こまつ座主宰の井上都。三女は株式会社こまつ座社長の石川麻矢。






江戸時代屈指の名君、上杉鷹山像を描く


上杉 鷹山(うえすぎ ようざん、寛延4年7月20日(1751年9月9日) - 文政5年3月11日(1822年4月2日))は、江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩9代藩主。山内上杉家25代当主。諱は初め勝興、後に治憲(はるのり)であり、鷹山は藩主隠居後の号であるが、この名で知られる。米沢藩政改革を行った江戸時代の名君として知られる。





秋田県ゆかりの人物
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小説家、石川達三像を描く


石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月2日 - 1985年〈昭和60年〉1月31日)は、日本の小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。戦後は、新聞小説や社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。書名のいくつかは流行語にもなった。記録的手法に拠る問題意識の明確な作風が特徴。社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。日本芸術院会員。






平安の女流歌人、小野小町像を描く


小野 小町(おの の こまち、生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。





宮城県ゆかりの人物
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仙台藩伊達氏家臣、支倉常長像を描く


支倉 常長(はせくら つねなが、1571年〈元亀2年〉‐ 1622年8月7日〈元和8年7月1日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての日本の武将(仙台藩伊達氏家臣)。幼名は與市、初名は六右衛門長経、キリスト教洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ・ファセクラ[2]。 慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、有色人種として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった。






詩人・英文学者、土井晩翠像を描く


土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日(明治4年10月23日) - 1952年(昭和27年)10月19日)は、日本の詩人、英文学者。本名、林吉(りんきち)。元々、姓の読みは「つちい」だったが、昭和初期に改称した。男性的な漢詩調の詩風で、女性的な詩風の島崎藤村と並んで「藤晩時代」と称された。また、瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者としても知られ、校歌・寮歌なども多く作詞した。戦陣訓の文校正でも知られる。





岩手県ゆかりの人物
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詩人・童話作家、宮沢賢治像を描く


宮沢 賢治(みやざわ けんじ、正字: 宮澤 賢治、1896年〈明治29年〉8月27日 - 1933年〈昭和8年〉9月21日)は、日本の詩人、童話作家。 仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行った。作品中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとしてイーハトーヴ(Ihatov、イーハトヴやイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。彼の作品は生前ほとんど一般には知られず無名に近く、没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていき、今でも日本には広く愛好者が存在する。






日本近代美術の先駆者、萬鉄五郎像を描く


萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1日[1])は、大正~昭和初期の洋画家。 萬鉄五郎(1927年以前) 岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)出身。1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学[2]。1912年、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあったポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著であった。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。







青森県ゆかりの人物
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小説家、太宰治像を描く


太宰 治(だざい おさむ、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。本名:津島 修治(つしま しゅうじ)。左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、典型的な自己破滅型の私小説作家であった。





版画家、棟方志功像を描く


棟方 志功(むなかた しこう、1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)は、日本の板画家。従三位。 青森県出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。






北海道ゆかりの人物
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小説家、有島武郎像を描く


有島 武郎(ありしま たけお、1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)は、日本の小説家。 学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、洗礼を受ける。1903年に渡米。ハバフォード大学大学院を経て、ハーバード大学で1年ほど歴史、経済学を学ぶ。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人「白樺」に参加する。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。 代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜しみなく愛は奪ふ』がある。





アイヌ民族の指導者、シャクシャイン像を描く


シャクシャイン(沙牟奢允、アイヌ語:サクサイヌ Saksaynu または サムクサイヌ Samkusaynu、1606年(慶長11年)? - 1669年11月16日(寛文9年10月23日))は、江戸時代前期のシベチャリ(北海道日高管内新ひだか町静内)のアイヌ一部族の首長・惣乙名。

シャクシャインの戦い(シャクシャインのたたかい)は、1669年6月にアイヌでシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。アイヌ2部族の抗争、報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した[1]。日本の元号の「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起とも呼ばれている。









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