吉川和夫の月例美術展

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( 6月度の人物画 )

★ 戦国大名の「織田信長像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。戦国の三英傑の一人。

尾張国(現在の愛知県)出身。織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権を確立して天下人となった。しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。

これまで信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府への流れをつくった画期的なもので、その政治手法も革新的なものであるとみなされてきた。しかし近年の歴史学界ではその政策の前時代性が指摘されるようになり、しばしば「中世社会の最終段階」とも評され、その革新性を否定する研究が主流となっている。


次の写真は、織田信長ゆかりの城=安土城
( 滋賀県近江八幡市下豊浦6371 )






★ 戦国大名の「豊臣秀吉像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体:豐臣 秀吉)は戦国時代から安土桃山時代の日本の武将、戦国大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築いた。

尾張中村の木下弥右衛門の子。幼名は日吉丸(ひよしまる)。木下 藤吉郎(きのした とうきちろう)と称した。松下之綱の下男ついで織田信長に仕え、従来にはない斬新な奇策や政策で次第に頭角を現し、羽柴 秀吉(はしば ひでよし)に改名した。

中国攻めの最中信長が本能寺の変で明智光秀に討たれる急ぎ毛利輝元と和解し京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った。柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、信長の後継の地位を固めた。大坂城を本拠とし、小牧・長久手の戦いで徳川家康を臣従させ、長宗我部元親を破り四国を平定した。関白、太政大臣となり、朝廷から豊臣の姓を賜った。島津義久を破り九州を平定し、政権を確立、刀狩令や海賊停止令を発した。北条氏を破り、関東、そして奥羽を平定し、天下統一を果たした。太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。

その強力な権力・財政基盤をもとに聚楽第や方広寺大仏(京の大仏)などの豪華絢爛な建造物の造立にも着手し、桃山文化の発展に貢献した。晩年は明の征服を決意して朝鮮に出兵したが(文禄・慶長の役)、その最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。

次の写真は、豊臣秀吉生誕の地碑

名古屋市中村区中村公園内






★ 戦国大名の「徳川家康像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体:德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期の日本の武将、戦国大名。江戸幕府初代将軍。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、徳川御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。豊臣秀吉の死後に引き起こした関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣勢力を圧迫しつつ1615年には大坂夏の陣により豊臣氏を滅ぼし、265年間続く江戸幕府を開いた。三英傑のひとりである。

次の写真は、徳川家の家紋=葵の御紋

家康の家紋は「三つ葉葵」、水戸黄門でおなじみの紋だ。 葵という植物の葉っぱをモチーフにした紋。 賀茂祭で用いられた葵は、神聖な植物として扱われてきた。 家康がこの紋を徳川家の家紋にしたのもうなずける。 もとは上賀茂神社の神紋であった葵を家紋にしたのは、家康が新田源氏の流れを汲む加茂神社の氏子として武家源流の威厳を証したかったからだといわれている。 家康が使用するようになってから、葵の紋は厳格な紋として厳重に使用が制限されるようになった。




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( 5月度の人物画 )

★ 東京女子医科大学の創立者「吉岡弥生像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

吉岡彌生 略歴
1871年 3月10日 現在の静岡県掛川市に生まれる
1889年 女医を志し上京、済生学舎に入学
1892年 医術開業試験後期試験に合格(21歳)
1895年 吉岡荒太と結婚(24歳)
1900年 東京女医学校を創立(29歳)
1912年 東京女子医学専門学校認可(41歳)
1928年 第1回汎太平洋婦人会議に出席(57歳)
1936年 大日本連合婦人会理事に就任(65歳)
1939年 厚生省・文部省の嘱託として欧米視察(68歳)
1950年 東京女子医科大学認可(79歳)
1952年 東京女子医科大学の学頭に就任(81歳)
1959年 5月22日 永眠(享年88歳)

概要
東京女子医科大学の前身である東京女医学校、東京女子医学専門学校を創設し、女性医師の養成や医学の教育・研究の振興に尽力した。津田梅子(津田塾大学創立者)、安井てつ(東京女子大学創立者)、鳩山春子(共立女子学園創立者)、跡見花蹊(跡見学園創立者)、下田歌子(実践女子学園創立者)、横井玉子(女子美術大学創立者)などと並ぶ、日本の女子教育の基盤づくりに活躍した女性教育者である。
また、日本女医会会長、教育審議会委員、日本医師会参与、厚生省顧問などの公職も歴任した。


次の写真は、静岡県掛川市にある吉岡弥生記念館



次の写真は、1901年の撮影された吉岡弥生(左)
東京女子医科大学河田町キャンパス弥生記念講堂(右)








★ 大衆演劇の人気者「侠客・清水次郎長像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

清水次郎長とは
没年:明治26.6.12(1893)
生年:文政3.1.1(1820.2.14)
幕末維新期の侠客,明治期には実業家。本名山本長五郎。実父は雲不見三右衛門と称した駿河国(静岡県)清水湊の船持船頭。元旦生まれは不祥との伝説から叔父の山本次郎八(米問屋)の養子になる。悪さと無学の15歳時,隣国で甲斐国民大奮起という一揆が起こったのを尻目に家の金を持ちだし,浜松に米の買い占めに走ったのが幕末風雲録に次郎長登場の第1頁。天保10(1839)年,旅の僧に人相を見られ「命数25歳を出ず」といわれて,「じゃあ太く短く生きる」とヤクザになった。

23歳のとき,喧嘩で相手を殺したと思い込み清水を出奔,三河の寺津治助にわらじを脱ぎ,喧嘩に明け暮れてあだ名はゴロ長。弘化2(1845)年,甲斐の紬文吉と駿河の和田島太右衛門の喧嘩を仲裁して売り出した。28歳で江尻大熊の妹おてふを娶る。嘉永3(1850)年,保下田久六を助勢し一の宮久左衛門と争った(この年国定忠治刑死)。
30歳代半ばは次郎長の危機の時代で,安政5(1858)年,甲斐の祐典仙之助と不和,讃岐の金比羅に詣でたのちの同6年,久六を殺害した。決戦前の金比羅詣では実父の金比羅信仰を継いだもの。万延1(1860)年,久六斬り祈願成就に森の石松を金比羅に代参させ,その帰路に石松が都田一家に殺されると,その仇を討って三河を勢力圏に収めた。

このころ宿敵黒駒勝蔵が現れる。山岳地帯から富士川,天竜川を筏に乗って下ってくる黒駒の機動力に対抗して,縄張り外を転戦するプロの戦闘集団「清水二十八衆」を元治1(1864)年に創出。これは士のプロ戦闘集団新選組より早い。黒駒方の雲風亀吉との2次にわたる三河の抗争は平井村の役(1864年)と呼ばれ,博徒抗争史上かつてない殺戮戦だった。
東海道を名古屋までおさえた清水一家が伊勢路制圧に着手したのが,慶応2(1866)年の荒神山の喧嘩だ。神戸長吉と穴太徳の縄張争いで長吉方につき,大政(山本政五郎)の戦闘団と甲斐信濃制圧に転戦する大瀬半五郎の別働隊を三河の寺津で合流させ,吉良仁吉を大将に荒神山に向かわせる。仁吉戦死。

その報復に次郎長は千石船2隻に手勢480人,銃40丁,槍170幹,米90俵をのせた戦略艦隊をもって伊勢に上陸し,穴太徳とその後ろ盾丹波屋伝兵衛を屈服させる。その武器調達は国定一家3代目田中敬次郎による。金比羅信仰の次郎長の海賊的性格である。海道一の次郎長の喧嘩は日本一の喧嘩,維新の内戦にぶつかってとまる。

維新後は実業家になって,清水港の改修工事,富士山麓開墾,静岡茶を横浜に運ぶ蒸汽船会社の設立などをやりながら,フランス渡航を夢見つつ日清戦争の前年に死す。墓は清水の梅蔭寺。墓銘は榎本武揚の筆による。

写真は清水次郎長の生家(左)、清水次郎長の墓(右)




清水次郎長の二十八人衆
清水の次郎長、大政、小政、増川の仙右衛門、大瀬の半五郎、森の石松、法印の大五郎、吉良の仁吉、追分の三五郎、桶屋の吉五郎(鬼吉)、問屋場の大熊、大野の鶴吉、相撲の常、三保の松五郎、伊達の五郎、関東丑五郎、田中の敬太郎、辻の勝五郎、舞坂の富五郎、国定の金五郎、寺津の勘三郎、吉良の勘蔵、四日市の敬太郎、鳥羽の鳥羽熊、清水の岡吉、由井の松五郎、興津の勘之助、お蝶。

侠客とは
中国において義侠心をもって人の窮境を救う武力集団を指す呼称だったが、日本では市井無頼の徒「やくざ者」に対する美称として用いられ、中国のそれとは一致しない。日本における侠客は、常軌を逸した行動と伊達者たることを誇りとした室町時代のかぶき者を源とし、江戸時代には義侠的行為で体制に反抗する者を指す総称となったが、次第に賭博や喧嘩渡世などを仕事とした無法者を指すようになり、幕府による取締りの対象とされた。創作の世界では、本来の義侠心を持つ侠客として、一心太助、国定忠治、清水次郎長などを主人公とする物語が多く作られ、芝居化され人気を博した。有名な侠客には、火消しや職人、芝居小屋の座長などもあり、船宿や待合の女将などに女侠客と呼ばれる者もいた。




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( 4月度の人物画 )

★ 数千人の命を救った男「杉原千畝像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年〈明治33年〉1月1日 - 1986年〈昭和61年〉7月31日)は、岐阜県加茂郡八百津町に生まれた。 中学校入学までは税務官吏である父親の異動のために各地を転々とし、父親の単身赴任後は名古屋市に住んで、旧名古屋古渡尋常小学校と旧第五中学校に通い、卒業後に上京して早稲田大学高等師範部英語科(現・教育学部英語英文学科)に通ったが、外務省留学生試験合格のために本科中退した。

第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くがユダヤ人系であった。杉原は「東洋のシンドラー」などとも呼ばれる。

彼が残した「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」という言葉は、有名である。


次の写真は、リトアニア国カウナスにある「杉原記念館」です。
私は、2002年7月31日に、この「杉原記念館」を訪問しました。







★ 詩人・小説家の「島崎藤村像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日) - 1943年(昭和18年)8月22日)は、日本における詩人又は小説家である。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。

『文学界』に参界し、ロマン主義に際した詩人として『若菜集』などを出版する。さらに、主な活動事項を小説に転じたのち、『破戒』や『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父である島崎正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などが存在する。


上の写真は、「小諸なる古城のほとり」の歌碑です。
この歌碑は、長野県小諸城址の懐古園にあります。


     <千曲川旅情のうた>

     小諸なる古城のほとり
     雲白く遊子悲しむ
     緑なすはこべは萌えず
     若草も藉くによしなし
     しろがねの衾の岡辺
     日に溶けて淡雪流る

     あたゝかき光はあれど
     野に満つる香も知らず
     浅くのみ春は霞みて
     麦の色わづかに青し
     旅人の群はいくつか
     畠中の道を急ぎぬ

     暮行けば浅間も見えず
     歌哀し佐久の草笛
     千曲川いざよふ波の
     岸近き宿にのぼりつ
     濁り酒濁れる飲みて
     草枕しばし慰む






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( 3月度の人物画 )

★ 江戸時代の俳人「小林一茶像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

小林一茶は、1763(宝暦13)年、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれ、本名を弥太郎といいました。3歳のとき母がなくなり、8歳で新しい母をむかえました。働き者の義母になじめなった一茶は、15歳の春、江戸に奉公に出されました。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになりました。

一茶は、葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して俳句を学びました。初め、い橋・菊明・亜堂ともなのりましたが、一茶の俳号を用いるようになりました。

29歳で、14年ぶりにふるさとに帰った一茶は、後に「寛政三年紀行」を書きました。30歳から36歳まで、関西・四国・九州の俳句修行の旅に明け暮れ、ここで知り合った俳人と交流した作品は、句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版しました。

一茶は、39歳のときふるさとに帰って父の看病をしました。父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで亡くなってしまいました。このときの様子が、「父の終焉日記」にまとめられています。この後、一茶がふるさとに永住するまで、10年以上にわたって、継母・弟との財産争いが続きました。

一茶は、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入って指導をうける一方、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてました。貧乏と隣り合わせのくらしでしたが、俳人としての一茶の評価は高まっていきました。

50歳の冬、一茶はふるさとに帰りました。借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌年ようやく和解しました。52歳で、28歳のきくを妻に迎え、長男千太郎、長女さと、次男石太郎、三男金三郎と、次々に子どもが生まれましたが、いずれも幼くして亡くなり、妻きくも37歳の若さで亡くなってしまいました。一茶はひとりぽっちになりましたが、再々婚し、一茶の没後、妻やをとの間に次女やたが生まれました。

家庭的にはめぐまれませんでしたが、北信濃の門人を訪ねて、俳句指導や出版活動を行い、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句文集「おらが春」などをあらわし、2万句にもおよぶ俳句を残しています。

1827(文政10)年閏6月1日、柏原宿の大半を焼く大火に遭遇し、母屋を失った一茶は、焼け残りの土蔵に移り住みました。この年の11月19日、65歳の生涯をとじました。


雪景色の一茶家の土蔵。 一茶は、この土蔵で65歳の生涯を閉じた。







★ 演劇界の花形女優「松井須摩子像」を描く ★


( 画用紙、水彩/パステル 6号 41x33cm )

松井須磨子
まついすまこ
(1886―1919)
長野県埴科郡清野村(現・長野市松代町清野)に士族小林藤太(旧松代藩士)の五女(九人兄妹の末っ子)、小林正子として生まれる。17歳のときに姉を頼って上京、初婚に破れてのち、東京俳優学校の英語教師前沢誠助と再婚。1909年(明治42)に文芸協会演劇研究所第一期生となり、演劇に専心するため離婚した。

11年5月、帝国劇場での文芸協会第1回公演『ハムレット』で演じたオフィーリアは予想以上の評判をとり、ついで同年9月、文芸協会試演場での本邦初演の『人形の家』(イプセン作、島村抱月(ほうげつ)訳・演出)におけるノラは、まさに新しい女優の出現を思わせるもので、同年11月の帝劇での同劇の公演は彼女の名声を決定的なものとした。

翌年の『故郷』(ズーダーマン作)のマグダの演技も好評だったが、島村抱月との恋愛が文芸協会の厳しい戒律に触れて退会を余儀なくされた。13年(大正2)、協会幹事を辞した島村抱月とともに芸術座を組織し、以後数年間、『モンナ・バンナ』『復活』『サロメ』『カルメン』『闇(やみ)の力』などに主演。

とくに14年の帝劇公演『復活』(トルストイ原作)は、劇中の主題歌「カチューシャの唄(うた)」とともに大ヒットし、彼女の人気は大衆の間にも高まり、一方では中村吉蔵(きちぞう)の『飯(めし)』など創作劇における演技でもかなりの評価を得た。

18年11月に、島村抱月がスペイン風邪(かぜ)で急逝すると、須磨子は翌年(大正8)1月5日、芸術倶楽部(クラブ)の舞台裏で縊死(いし)し、その後を追った。32歳。






<舞台>
『ハムレット』(オフヰリア)、『​人形の家』(ノラ)、『復活』(カチューシャ)、
『サロメ』(サロメ)、『カルメン』(カルメン)

<歌謡>
『カチューシャの唄』、『ゴンドラの唄』、『今度生まれたら』 、


05月度  ☆ 静岡県出身の人物~吉岡弥生像、清水次郎長像を描く

04月度  ☆ 岐阜県出身の人物~杉原千畝像、島崎藤村像を描く

03月度  ☆ 長野県出身の人物~小林一茶像、松井須摩子像を描く

02月度  ☆ 山梨県出身の人物~村岡花子像、大村智像を描く 

01月度  ☆ 福井県出身の人物~継体天皇像、近松門左衛門像を描く 



     ↑ 2022年の発表 ↑

     ↓ 2021年の発表 ↓





12月度  ☆ 石川県出身の人物~室生犀星像、東善作像を描く 

11月度  ☆ 富山県出身の人物~高峰譲吉像、堀田善衛像を描く 

10月度  ☆ 新潟県出身の人物~河井継之助像、西脇順三郎像を描く 

09月度  ☆ 神奈川県出身の人物~三浦按針像、美空ひばり像を描く 

08月度  ☆ 東京都出身の人物~葛飾北斎像、堀文子像を描く 

07月度  ☆ 千葉県出身の人物~伊能忠敬像、佐倉惣五郎像を描く 

06月度  ☆ 埼玉県出身の人物~渋沢栄一像、荻野吟子像を描く

05月度  ☆ 群馬県出身の人物~新島襄像、国定忠治像を描く 

04月度  ☆ 栃木県出身の人物~田中正造像、田中一村像を描く 

03月度  ☆ 茨城県出身の人物~横山大観像、男女ノ川像を描く 

02月度  ☆ 福島県出身の人物~野口英世像、高村智恵子像を描く 

01月度  ☆ 山形県出身の人物~井上ひさし像を描く



     ↑ 2021年の発表 ↑

     ↓ 2020年の発表 ↓





12月度  ☆ 秋田県出身の人物~石川達三像、小野小町像を描く 

11月度  ☆ 宮城県出身の人物~支倉常長像、土井晩翠像を描く 

10月度  ☆ 岩手県出身の人物~宮沢賢治像、萬万次郎像を描く 

09月度  ☆ 青森県出身の人物~太宰治像、棟方志功像を描く 

08月度  ☆ 北海道出身の人物~有島武郎像、シャクシャイン像を描く 





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