吉川和夫の月例美術展

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( 1月度の人物画 )

アメリカの政治家、第44代大統領
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★ 「バラク・フセイン・オバマ2世像」を描く ★

( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

バラク・フセイン・オバマ2世(1961年8月4日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。同国第44代大統領(在任:2009年1月20日 - 2017年1月20日)。民主党に所属し、イリノイ州議会上院議員、同州選出連邦上院議員を歴任した。2009年1月20日、初のアフリカ系・有色人種・ハワイ出身の大統領としてアメリカ合衆国大統領に就任し、同年12月にはノーベル平和賞を受賞した。その後、2017年1月20日まで2期8年の任期を務めあげた。バラック・オバマとも表記される。

概説
ハワイ州ホノルル生まれ。1983年コロンビア大学卒業後、シカゴでコミュニティ・オーガナイザーとして働く。1988年にはハーバード・ロー・スクールに入学し、黒人として初めてハーバード・ロー・レビューの会長に就任した。卒業後は公民権弁護士となり、1992年から2004年までシカゴ大学ロースクールで憲法学を教えた。オバマは選挙政治に目を向け、1997年1月から2004年11月までイリノイ州議会上院議員(第13区)、2005年1月から2008年11月まで同州選出連邦上院議員。2008年アメリカ合衆国大統領選挙においてヒラリー・クリントンとの接戦の末に民主党の大統領候補に指名され、共和党のジョン・マケインを抑えて当選し、2009年1月20日にジョー・バイデンと共に就任した。同年12月にノーベル平和賞を受賞した。


写真は、バラク・オバマ氏






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( 12月度の人物画 )

アメリカの実業家・石油王
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★ 「ジョン・ロックフェラー像」を描く ★

( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア
(John Davison Rockefeller, Sr、1839年7月8日 - 1937年5月23日)は、
アメリカ合衆国の実業家、慈善家。

1870年にスタンダード・オイル社を創業し、ピーク時はアメリカの石油の90%をコントロールするなど、同社は石油市場を独占してアメリカ初のトラストを結成した。
1897年に事実上引退し、その後は現代的フィランソロピーの構造を定義し、慈善活動に力を入れた。スタンダード・オイルはオハイオ州で、ジョンと弟ウィリアム・ロックフェラー、ヘンリー・フラグラー、ヤベツ・A・ボストウィック、化学者サミュエル・アンドリュース、スティーヴン・V・ハークネスによって創設された。

ケロシンとガソリンの需要の高まりと共に富も膨れ上がっていき、アメリカ人初の10億ドルを越える資産を持つ人物となった。彼が亡くなった1937年当時の遺産は14億ドル(2015年の価値では23億ドルにも上り、国の経済の1.5%以上であった(2013年換算では2530億ドルになる。物価の変動を考慮すると史上最大の資産を持つ富豪とされている。

慈善活動の現代的かつ体系的アプローチの構築に引退後の40年間、資産の大部分を使った。医療・教育・科学研究促進などを目的とした財団を創設した。彼が創設した財団は医学研究を推進し、鉤虫症や黄熱病の根絶に貢献した。また、シカゴ大学とロックフェラー大学を創設し、フィリピンにセントラル・フィリピン大学の創設資金を提供した。

熱心なキリスト教バプテスト信者であり、生涯にわたって米国キリスト教バプテスト同盟を支援した。彼は酒とタバコを嗜まなかった。

写真は、ジョン・ロックフェラー

ロックフェラー家は、
ドイツ南部のプロテスタントの一派バプテスト(浸礼派)に起源を持つアメリカ合衆国の名門一族。祖先はフランス系のユグノー出身であり、本来の家名はロクフイユ (Roquefeuille) であったとされてきたが、現在ではロックフェラーの家名との関係に根拠(エビデンス)はないと認識されている。家名はラインラント=プファルツ州にあった地名ロッケンフェルト (Rockenfeld) からロッケンフェラー (Rockenfeller) となり、アメリカに移住した後ロックフェラーと改称した。

概要
世界最大の石油トラストとして君臨したスタンダード・オイル創始者のジョン・D・ロックフェラーと弟でナショナル・シティー銀行ニューヨーク(現在のシティグループ)創業者の一人であるウィリアム・ロックフェラーによって発展した一族。世界的な財閥で、石油業や軍事産業、金融業など様々な企業を傘下に収める。その中の代表的企業には、ジョンの孫のデイヴィッド・ロックフェラーが頭取を務めたチェース・マンハッタン銀行(現在のJPモルガン・チェース)がある。これはカーギルのメインバンクであった。モルガン財閥、メロン財閥と並ぶ米国三大財閥の一角。英国の世界的な財閥であるロスチャイルド家としばしば比較され、2012年5月30日のRITキャピタルパートナーズでの歴史的な資本提携は話題を呼んだ。

更には、ジェラルド・R・フォード大統領の下、副大統領に就任したネルソン・ロックフェラーやアーカンソー州知事を務めたウィンスロップ・ロックフェラー、アメリカ上院議員を務めたジェイ・ロックフェラーの3名の政治家も輩出した。

また、ジョン・D・ロックフェラー2世が自らの資金で建設したロックフェラー・センターや初代が慈善事業の一環で始めたロックフェラー財団やロックフェラー大学など、その名を冠した建造物や組織もある。

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( 11月度の人物画 )

アメリカの起業家、実業家
iPhoneおよびiPadを世に送り出した人物
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★ 「スティーブ・ジョブズ像」を描く ★

( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

スティーブ・ジョブズ(英語: Steve Jobs)、本名スティーブン・ポール・ジョブズ(英語: Steven Paul Jobs、1955年2月24日 - 2011年10月5日)は、アメリカ合衆国の起業家、実業家、工業デザイナー。アメリカ国家技術賞、大統領自由勲章を受賞している。

Appleの共同創業者の一人であり、同社のCEOを務め、一切の妥協を許さないカリスマ的変革者として知られる。NeXTやピクサー・アニメーション・スタジオの創業者でもあり、ウォルト・ディズニー・カンパニーなどの役員を歴任した。AppleⅡなどによりパーソナルコンピュータ(パソコン)の概念を市場に普及させ、iPodとiTunes及びiTunes Storeによって音楽業界に変革をもたらし、iPhoneおよびiPadを世に送り出したと評された。

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「ハングリーであれ。愚か者であれ。」
  "Stay hungry, stay foolish"

2005年6月12日、 スティーブ・ジョブズ氏が、
スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチの最後部分

私が若いころ、全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。私の世代の聖書のような本でした。スチュワート・ブランドというメンロパークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。パソコンやデスクトップ出版が普及する前の1960年代の作品で、すべてタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作られていた。言ってみれば、グーグルのペーパーバック版です。グーグルの登場より35年も前に書かれたのです。理想主義的で、すばらしい考えで満ちあふれていました。

スチュワートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、一通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。70年代半ばで、私はちょうどあなた方と同じ年頃でした。背表紙には早朝の田舎道の写真が。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクをする時に目にするような風景です。その写真の下には「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。ハングリーであれ。愚か者であれ。私自身、いつもそうありたいと思っています。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。
ハングリーであれ。愚か者であれ。ありがとうございました。


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菜食主義と思想(仏教徒)
食生活には強いこだわりを持つ。大学時代から魚介類以外の動物性の食品は一切摂らないぺスカタリアンだった。また、日本食、とりわけ蕎麦や寿司を好んだことが知られている。また、果物も好物で、特に林檎がお気に入りであり、社名の由来にもなったと言われている。

Apple本社の食堂Café Macsには、ジョブズが考案したという「刺身ソバ」なるメニューがある。Appleに復帰後、社員食堂を自社運営に切り替えて、ジョブズ自身がスカウトした料理人が腕を振るっている。「ベジタリアンだから臭わない」という独自の思想により、若いころはシャワーを滅多に浴びなかった。そのため、ただでさえコミュニケーションが取れず評判の悪かったジョブズは、アタリ社やAppleの社員から「臭い」とクレームが多かったという。洋式便器で足を洗うという奇行もしていたという。また若いころは、素足やサンダルのままで仕事をすることも多く、出資者や取引相手と話をする際にも、素足やサンダルのまま、机に足を投げ出して対応するなどの非常識な言動があったという。

仏教徒であり、宗派は曹洞宗、師は日本人である乙川弘文。若いころから禅に傾倒し、しばしばスピーチなどで禅の教えを引用した。乙川弘文を精神的指導者と慕っており、結婚式を取り仕切ってもらっている。禅だけではなく日本の文化に深い関心を持ち、晩年まで家族旅行でしばしば京都を訪れていた。また、新版画の密かなコレクターでもあり、1983年から蒐集を開始している。翌年のMacintoshの発表セレモニーでは、自身が持っていた橋口五葉の「髪梳ける女」をスクリーンに映し出すことで、その優れた映像技術を示した。ジョブズは新版画の中で、特に川瀬巴水の風景画を好んだという。日本の和菓子を好み、赤坂青野から饅頭を半年間取り寄せた。一方で、日本のビジネス界に対しては、日本のPCメーカーのことを「海岸を埋めつくす死んだ魚」と表現する(ただし、これは日本のメーカーに対してではなく、日本のメーカーが大量の商品攻勢をかけられる可能性を作ったPC/AT互換機に対する揶揄であるともいわれている)など、辛辣な一面を見せることもある。

業界でジョブズにまつわる人物は数多いが、中でもマイクロソフト創業者のビル・ゲイツは、同じ1955年生まれということもあって、独特のライバル関係にある。世間では確執が語られることも多いが、自他ともに認める友人でもあり、ビジネスのみならずプライベートでも関係が深かったことが知られている。互いにビジネスの才覚については高く評価している。腹心の部下である、バド・トリブルが使い始めたという「現実歪曲空間」は、たとえ彼をよく知る人間がそれに備えていたとしても、抵抗できないといわれている。現実歪曲空間とは、ジョブズの魅力、カリスマ性、虚勢、誇張、マーケティング、宥和政策、持続性をもって、ジョブズ自身と他人に、ほとんどどんな考えでも吹き込む能力であるという。現実歪曲空間により、実現困難性についての規模感や距離感を歪ませ、今手元にある作業が容易に実行可能な気になると言われている。





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( 10月度の人物画 )

アメリカの喜劇映画俳優
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★ 「チャールズ・チャップリン像」を描く ★


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

チャールズ・スペンサー・チャップリン(英: Sir Charles Spencer Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。サイレント映画時代に名声を博したコメディアンで、山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装のキャラクター「小さな放浪者」を通じて世界的な人気者になり、映画史の中で最も重要な人物のひとりと考えられている。ドタバタにペーソスを組み合わせた作風が特徴的で、作品の多くには自伝的要素や社会的及び政治的テーマが取り入れられている。チャップリンのキャリアは70年以上にわたるが、その間にさまざまな称賛と論争の対象となった。

チャップリンの子供時代は貧困と苦難に満ちており、救貧院に何度も収容される生活を送った。やがて舞台俳優や芸人としてミュージック・ホールなどの舞台に立ち、19歳で名門のフレッド・カーノー劇団と契約した。そのアメリカ巡業中に映画業界からスカウトされ、1914年にキーストン社で映画デビューした。チャップリンはすぐに小さな放浪者を演じ始め、自分の映画を監督した。その後はエッサネイ社、ミューチュアル社、ファースト・ナショナル社と移籍を重ね、1919年にはユナイテッド・アーティスツを共同設立し、自分の映画を完全に管理できるようにした。1920年代に長編映画を作り始め、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)などを発表した。『独裁者』(1940年)からはトーキーに完全移行したが、1940年代に私生活のスキャンダルと共産主義的傾向の疑いで非難され、人気は急速に低下した。1952年に『ライムライト』のプレミア上映のためロンドンへ渡航中、アメリカへの再入国許可を取り消され、それ以後は亡くなるまでスイスに定住した。しかし1972年の第44回アカデミー賞で「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」により名誉賞を受賞、アメリカでの授賞式に招かれた。


チャールズ・チャップリン(1920年)
本名 チャールズ・スペンサー・チャップリン
(Charles Spencer Chaplin)


スイスのレマン湖のほとりで、(2010年7月18日)






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( 9月度の人物画 )

アメリカに亡命したユダヤ人
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★ 理論物理学者「アインシュタイン博士像」を描く ★
光電効果の理論的解明をしてノーベル物理学賞を受賞


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

アルベルト・アインシュタイン(独: Albert Einstein、1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者、社会主義者。ユダヤ人。スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。

特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理、光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞した。




写真はアインシュタイン博士


人物像

○趣味はヴァイオリンで、公の場でもしばしば演奏した。しかし、ピアニストで友人のアルトゥール・シュナーベルとアンサンブルを行った際、何度も拍の勘定を間違えるため、シュナーベルから「君は数も数えられないのか」と呆れられたという。また、「ヴァイオリンの名手であった」という風評が一般的であるが、当時の高名なヴァイオリニストからは「relatively good」(直訳は"比較的良い"だが、意訳として相対性理論 (Theory of Relativity) とかけているため"相対的に良い"とも訳せる)と評価されている。

○最初の妻だったミレヴァとの間に息子が2人。長男のハンスは、カリフォルニア大学バークレー校で流体力学関係の教授を務めた。次男のエドゥアルトは、医学を学んでいたものの、学生時代に統合失調症を発し、亡くなるまで精神病院で過ごした。そのため、病跡学上(エピ・パトグラフィー)の対象ともなっている。後年公開された資料では、ミレヴァとの破局はアインシュタインの家庭内暴力が一因であり、精神を患ったエドゥアルトに対しても、非常に冷淡な態度を取り続けたことが公表されている。なお、再婚相手であるエルザには前夫との間に娘が2人いたが、再婚に伴い彼女たちもアインシュタイン姓を名乗ることとなった。なお、ミレヴァとの間には最初の子であるリーゼルという長女がいたとされるが、生まれてすぐに養女に出してしまったとされ、早世したのかその後の消息も不明となっている。

○人前ではめったに笑顔を見せたことがなかったと言われている。自身が舌を出しているもっとも有名な写真は、1951年3月14日、アインシュタインが72歳の誕生日に、INS通信社カメラマンだったアーサー・サスの「笑ってください」というリクエストに危うく応えそうになってしまい、とっさにそれを隠そうとした表情を撮ったものである。しかし、その写真は、アインシュタイン本人もお気に入りで、9枚焼き増しを頼んだほどである。この写真は、1951年度のニューヨーク新聞写真家賞のグランプリを受賞した。また、切手にもなった。

○1924年、ルイ・ド・ブロイがソルボンヌ大学の博士論文を提出した際、教授陣は誰もその論文を理解できなかった。教授の一人がアインシュタインにセカンドオピニオンを求めたところ「この青年は博士号よりノーベル賞を受けるに値する」との返答を得た。その5年後にルイは、本当にノーベル賞を受賞した。

○大の親日家である。改造社の招待で訪日したアインシュタインは、講演の合間に観光。特に気に入ったものは「新橋橋善」の天ぷら弁当で、そこに添えられていた「新橋玉木屋」の昆布の佃煮を好んだ。

○手紙好きであり、有名になってからも1万通以上も手紙をやり取りしていたという。

○晩年は、他者の論文を読むことがなくなっており、弱い力も知らなかったと言われる。

○睡眠時間は、1日10時間の長時間睡眠(ロングスリーパー)だったという。

○当時の靴下はすぐに破れてしまうため嫌いで、常に靴を素足のまま履いていたという。

○音楽学者でモーツァルトの研究者のアルフレート・アインシュタインを従弟と見なす文献もあるが、二人は無関係だ、とする説もある。




日本とアインシュタイン博士(第二次世界大戦以降)

●太平洋戦争開戦後の1942年4月15日に、日系アメリカ人による反ファシズム公民権団体である「日米民主委員会」の顧問に就任した。

●広島の平和活動家谷本清牧師と彼の自宅にて面会した際に、多少なりとも原子爆弾開発を後押しした行為を悔やみ謝罪したと言われ、またノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と面会した際にも、同様の理由で涙ながらに謝罪したと言われる。ラッセル=アインシュタイン宣言には湯川も名を連ねた。ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』を自費で大量に購入し、知人に配って回ったことからも、原爆被害について関心を持っていたようである。

●第二次世界大戦後、日本の哲学者で雑誌『改造』の編集者だった篠原正瑛から原爆開発に関して、 「その第一の目的が、人類の福祉と幸福に奉仕すべき科学が、なぜにあのように恐ろしい結果を、もたらすようになったのか。偉大な科学者として、原爆製造に重要な役割を演じられたあなたは、日本国民の精神的苦痛を救う資格がある」という手紙を受け取った。それに対してアインシュタインは、あえて篠原の手紙の裏面に返事を記し、「原爆が、人類にとって恐るべき結果をもたらすことを、私は知っていました。しかし、ドイツでも、原爆開発に成功するかも知れないという可能性が、私にサインさせたのです。私に敵があって、その無条件の目的が、私と私の家族を殺すことである場合です」と述べたうえで、追伸として「他人の行為については、十分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努力すべきだ」と記した。2人はその後も文通を続け、篠原が受け取ったアインシュタインの書簡6通は、篠原の没後の2005年に広島平和記念資料館に寄贈されて保管されている。

●1993年、理論物理学者のスティーヴン・ホーキングが仙台市を訪れた際、同地を訪れた理由を訊かれたところ、「アインシュタイン博士の本を読んでいたら、『やがて我々の大学と競争関係に入る大学は東北大学だ』と書いてあったからだ」と答えたという。

●2017年、アインシュタインが1922年に来日した際滞在した東京の帝国ホテルでベルボーイにチップ代わりに渡した2枚のドイツ語のメモが、それぞれ156万ドル、24万ドルで落札された。






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( 8月度の人物画 )

アメリカ合衆国のノーベル賞作家
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★ 小説家・劇作家「スタインベック像」を描く ★
代表作「怒りの葡萄」「エデンの東」など

( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

ジョン・アーンスト・スタインベック(John Ernst Steinbeck, 1902年2月27日 - 1968年12月20日)は、アメリカの小説家・劇作家。 スタインベックは「アメリカ文学の巨人」と呼ばれていた。また、スタインベックの多くの作品は西洋文学の古典と考えられている。
また、生涯で27冊の本を出版している。その中には16冊の小説と、6冊のノンフィクション、2冊の短編集が含まれている。

1929年の経済恐慌の影響を受けて貧窮にあえぐ小作農民の姿を描き、ピューリッツァー賞を受賞した代表作『怒りの葡萄』は75年に渡って売れ続け、1400万冊が販売されている。
『エデンの東』では、キリスト教的原罪と人間の救いの可能性に新境地を開いた。

スタインベックの作品の多くはカリフォルニア州中部が舞台となり、中でもサリナス峡谷やコースト・レーンジズ山脈は頻繁に登場する。 1962年にノーベル文学賞を受賞した。





米国カリフォルニア州モントレ-郡サリナス
ジョン・スタインベックの記念館を訪問
(2004年6月20日)

ジョン・スタインベック(1902~1968)。
カリフォルニア州サリナスの生れ。スタンフォード大学でおもに海洋生物学を学んだ。カリフォルニアを舞台に,貧乏な移住農民を描いた小説が多いが,生物学を通して培った,いわゆる〈生物学的人間観〉や〈集団人(グループ・マン)〉といった思考態度は,人間を描く作家としての姿勢の基本となっている。

最初の成功作《トティーヤ台地》(1935年)に続いて《二十日鼠と人間》《怒りの葡萄》などを発表。《エデンの東》(1952年。エリア・カザン監督によって第4部が同題で映画化された),《われらが不満の冬》(1961年),〈赤い小馬〉を含む短編集《長い谷》(1938年),カリフォルニア湾での生物採集記録《コルテスの海》(1941年)なども知られる。1962年ノーベル文学賞。

晩年は国内の批評家からの評価は必ずしも芳しくなく、生活は決して恵まれたものではなかった。スタインベックは1968年、ニューヨークで心臓発作をおこして没した。66歳没。スタインベックの死体は遺言通り、火葬され埋葬された。スタインベックの死後、批評家のチャーリー・プアは「彼の最初の優れた作品は、最後の優れた作品でもあった。しかし、その作品はなんと優れていたことか」「彼はノーベル賞を必要としなかったが、ノーベル賞は彼を必要とした」とメッセージを送った。


米国サリナスにあるジョン・スタインベックの生家(左)         サリナスのダウンタウン(右)


2004年6月20日、サリナスの海岸へ行く。(スタインベックはスタンフォード大学でおもに海洋生物学を学んだ)






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( 7月度の人物画 )

アメリカ合衆国の先住民
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★ 米国の「先住民族の人物像」を描く ★
昔は先住民のことをインディアンと呼んでいたが
最近は「ネイティブアメリカン」と呼ばれている


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

インディアン(ネイティブアメリカン)とは、
いわゆるアメリカの先住民族の事を言います。
昔々は、アメリカ大陸には1000万人以上はいたであろうとされたインディアン達が、沢山の各々の部族ごとの文化を築いて平和に暮らしていました。
そこへ、新大陸を目指していたコロンブスによってアメリカ大陸が発見され、ヨーロッパ人が移り住んできました。
その後さらに土地を奪おうと侵略してきたヨーロッパ人達に土地を奪われ、その際の戦いでインディアンの人口は5%以下に激減したそうです。
そんな、とてもとても苦しい時代を経て、アメリカ政府からリザベーション(居留地)を与えられましたが、その場所は荒野の砂漠地帯。そこでの暮らしもまた厳しいものだったと思います。

ネイティブアメリカンの人口
2010年の国勢調査では約309万人。部族ごとに見ると、多くの人口を持つ部族はナバホ、チェロキー、チョクトー、スー、チペワ、アパッチ、ラムビー、ブラックフット、イロコイ、そして、プエブロである。
ニューヨークは全米の都市の中で最も多くのインディアンが住み、2014年には、22万8000人ものインディアン(モホーク族やモヒカン族など)がニューヨークで暮らしている。都市部で暮らし、保留地外の白人の町で暮らすインディアンは、「シティー・インディアン」と呼ばれる。
2003年のアメリカ国勢調査によると、アメリカ合衆国全体のインディアンの人口2,786,652名の三分の一が、3つの州に居住している(カリフォルニア州413,382名、アリゾナ州294,137名、オクラホマ州279,559名)。

写真は、先住民の代表的肖像写真です





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( 6月度の人物画 )

沖縄県ゆかりの人物
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★ 「瀬長亀次郎像」を描く ★

米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

瀬長 亀次郎=1907年(明治40年)6月10日〜2001年(平成13年)10月5日 94歳没

1907年、沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇に生まれる。医学を志し、沖縄県立二中(現、沖縄県立那覇高等学校)に入学。同中4年時に中退し、東京・順天中学(現、順天中学校・高等学校)に編入する。そして1927年(20歳)に、旧制第七高等学校(現、鹿児島大学)へ進学し、医学の道を志しながら、社会主義を勉強していく。翌1928年(21歳)に、社会主義運動に加わったことを理由に七高から放校処分を下される。

2年間の兵役を務めた後、1932年(25歳)に丹那トンネル労働争議を指導して、治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄される。各地の刑務所をたらい回しにされ、最終的に沖縄刑務所に移される。その後は「紅房」の蒔絵工、「沖縄朝日新聞」記者を経て、1938年(31歳)に召集されて砲兵として中国へ出征する。

復員後の1940年(33歳)、「毎日新聞」沖縄支局記者となる。1945年(38歳)に避難先の沖縄本島北部で沖縄戦敗戦を迎え、収容所の自治組織である田井等市の助役を務める。翌1946年(39歳)「うるま新報(現、琉球新報)」社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営する傍らで1949年(42歳)に沖縄人民党書記長となり、1950年(43歳)に、沖縄群島知事選挙に出馬するが、準備不足もあり当選者の1割にも満たない得票数で落選。しかし、1952年(45歳)の第1回立法院議員総選挙では最高得票数でトップ当選を果たす。この選挙後の同年4月1日に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否したことで占領軍から睨まれることとなる。

1954年10月(47歳)、米軍は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕。たった1人の証言を証拠として弁護士なしの裁判にかけられ、懲役2年の実刑判決を言い渡され、再び投獄された(沖縄人民党事件)。1956年4月の出獄後、同年12月に行われた那覇市長選に出馬する。ヘリコプターから瀬長を冒涜するビラ(当館に写真あり)がまかれるなど選挙妨害を受けるも、まったく保護されないという無法選挙を戦うことを余儀なくされたものの、大方の予想を覆し当選を果たす。だが占領軍出資の琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置に遭い、市政運営の危機に見舞われる。しかし、市民は自主的な納税によって瀬長を助けようとし、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し、当選後は86%にものぼり、最高で97%にもなった。そのおかげで自主財源での市政運営ができるようになり危機を脱する。これに対し、占領軍と沖縄自民党は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。しびれを切らした占領軍は1957年(50歳)、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定し(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)、1954年の投獄を理由に、瀬長を市長の座から追放し被選挙権を剥奪した。市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米軍との攻防は、瀬長に対する沖縄県民の絶大な支持を呼んだ。

1967年12月(60歳)に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌1968年(61歳)の第8回立法院議員選挙で立法院における議席を回復した。1970年(63歳)に、72年の沖縄返還に先立って行われた戦後沖縄初の国政参加選挙で衆議院議員に2位当選を果たす。以降7期連続当選を果たした。日本共産党に所属し、共産党副委員長などを歴任。当時の佐藤首相に対して、復帰後も沖縄の人々の土地である基地が返還されないことを厳しく批判するなど沖縄民衆のために闘い続けた。1990年(83歳)、衆議院議員を辞し、政治活動を引退する。2001年10月5日、肺炎により死去。享年94。

ジュリオ=キュリー賞、那覇市政功労賞、県自治功労賞、沖縄タイムス賞(自治賞)を受賞。那覇名誉市民、豊見城名誉村民。  1998年には、映画「カメジロー 沖縄の青春」(監督、橘祐典。主演、津嘉山正種)が制作された。また、2017年には、TBSのドキュメンタリー映画として、「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」(監督、佐古忠彦)、2019年には続編として、「米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈生涯」(監督、佐古忠彦)が制作された。

2013年3月、瀬長亀次郎の生涯と戦前戦後沖縄の苦難の歴史、共に闘った民衆の歴史を後世に伝えることを目的として、「不屈館=瀬長亀次郎と民衆資料」が那覇市に開館。施設名は占領軍の弾圧を受けながらも闘い続けた瀬長が、生前好んで揮毫した“不屈”にちなむ。なお、瀬長はこの“不屈”という言葉について、沖縄の民衆が不屈であったのだと述べている。

写真は、不屈館=瀬長亀次郎と民衆資料







★ 「大田昌秀像」を描く ★

平和を貫いた生涯


( 画用紙 水彩/パステル 6号41x33cm )

大田昌秀氏は、1925年(大正14)久米島具志川村(現久米島町具志川)に生まれました。1945年(昭和20)、沖縄師範学校在学中に鉄血勤皇師範隊として学徒動員され、捕虜となり終戦を迎えます。戦後は、早稲田大学を卒業後、米国シラキュース大学大学院へ留学してジャーナリズムを専攻したのち、琉球大学社会学部教授を務めました。

1990年(平成2)11月の沖縄県知事選挙で政界に転出し、1998年(平成10)まで2期8年を務めました。任期中に、糸満市摩文仁「平和の礎」の建立、沖縄県立平和祈念資料館の移転新築、沖縄県公文書館の設置等を実現しました。また、戦争マラリア犠牲者の補償や厚生年金の格差是正など戦後処理問題の解決にも尽力しました。基地問題にも粘り強く取り組み、米軍用地の強制使用手続きに関する代理署名訴訟では最高裁で沖縄県は敗訴したものの沖縄の基地問題が全国に注目されるきっかけとなりました。さらに、沖縄の自立発展を目指した「国際都市形成構想」の策定や、米軍基地を段階的に全面返還させるとした「基地返還アクションプログラム」を国に提示するなど、精力的に国への働きかけを行いました。

知事退任後の1999年(平成11)に大田平和総合研究所(のちの沖縄国際平和研究所)を設立し、以後、平和研究に注力しました。その間、2001年(平成13)には、参議院議員に当選し1期6年を務めました。2017年(平成29)6月に死去し、同年7月26日には県民葬が執り行われました。

写真は、大田昌秀が創設した「平和の礎」





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